香草

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「遠くの空へ」

容赦なく太陽が照りつけ、握手の手が汗ばんでいる。
高校球児が誰しも夢に見る憧れのマウンド。
帽子の下から見える世界はどこまでも黒く、どこまでも白かった。
いつも通りいつも通り…。だけど興奮がおさまらない。未熟な胸にはこの興奮が収まりきるはずがない。
空でも飛べそうな気分だ。
サイレンが鳴り響き勝負が始まる。
余韻に浸っている暇などない。
けれどこの景色、一瞬一秒を噛み締めたい。

相手は西の強豪校。
相手のことは調べ尽くして対策も立ててきているはずなのに、尻込みしてしまう。
やっぱりチームでコミュニケーション取る時も関西弁…話すんだろうか。なんでやねん、とか言うのかな…。一緒にタコパとかしてみたいなぁ。
なんて子供じみた考えが浮かぶが、今は敵だ。
ここで勝たなければ夏が終わる。
これまで暑い時も寒い時も頑張ってきたのだから、ここで倒されるわけにはいかないのだ。
じりじりと試合が行われていく。
実力が五分五分だと言われるとそれまでだが、緊迫した状況が続く。
8回裏。0対0
戦況はあまり良くない。緊張感がベンチに張り詰め、息苦しい。
俺の名前が呼ばれる。
今日はまだ一回しか球が当たっていない。
最後のチャンスだ。

バッターボックスに立つとまさに夢のような景色が広がる。
スコンと広い青空、大きくそびえ立つスコアボード。茶色く光るマウンド。
まさに青春という言葉をそのまま絵にしたような光景。
こんなに空って広かったか…?
暑さのせいか頭上の広さに圧倒されたせいか目眩がしそうだ。
全ての人間が俺に集中している、そう思うと意識まで持ってかれそうだ。
でも事実そうなのだ。
今見えてる観客席だけじゃない、練習試合を重ねてきたライバル校の奴らも、塾で仲がいい他校の奴らも祖父母や遠い親戚も今俺を見ている。
それだけじゃない。
日本全国の知らない人たちが今日俺の名前を知って応援してくれている。
なんて心強いのだろう。なんて幸せなのだろう。
俺はバットを握り直した。

ピッチャーと視線がぶつかる。
しかし俺にはもう空しか見えてなかった。
全ての音が消えていく。吹奏楽の音も観客席の歓声も何も聞こえない。
鼓動が速く血が沸る。奥歯が砕けそうだ。
鈍い感触、と同時に空を見つめた。
球は美しい放物線を描いていく。
行け、もっと行け、もっとこの空の果てまで。
あぁ、なんでだろう。涙が出る。
俺、死ぬのかな…?
だってさこれまで主人公じゃなかったんだぜ?
彼女もいねえし、勉強ができるわけでもないし、バカなことと野球しかやってこなかった人生なのに、こんなカッコいいことしちゃっていいの?
音が戻ってくる。
地響きのような歓声に包まれ、足がもつれそうになる。
試合はまだ終わっていない。
だけど俺は生涯この空の広さを忘れることはないと思う。



8/17/2025, 11:50:54 AM