「なぜ泣くの?」と聞かれたから
あれは幼い頃のことだ。
まだ小学校に上がってもいない頃、あれが最後の母親との一分以上の会話だった。
うちは喧嘩が絶えない家で21時になると決まって怒鳴り声が聞こえてくる。
喧嘩の理由はいつも同じだ。
母親の浪費癖の話、父親の仕事が上手くいっていない話とかそんなところ。
大体父親が「そんなもの買ってどうする」と怒鳴っているからおそらく母親が悪い。
なのに母親はいつもしくしくと泣いて自分の部屋に閉じこもる。
だから私は夕飯を食べ終わると朝まで自分の部屋を出ないようにしていた。
家庭内の不和は母親のせい。
そう思っていたから、とうとうある日母親に聞いたのだ。
「お母さんが悪いのになんで泣いて部屋に閉じこもるの?」
いつも話し合いを最後までしないから毎日喧嘩しているのだ。父親としっかり話し合って浪費癖を改めたら静かで笑い声が溢れる家庭になるはずだ。
なのになぜこの人は逃げていつもうやむやにするのだろう。
母親はかなり衝撃を受けたような顔をしていた。
そして少しの間を置いて冷たく、
「お母さんの勝手でしょ。涙が出てきてしまうのよ」
と言った。
それ以来私は母親と会話をするのをやめた。
中学生になると部屋に閉じこもるのではなくて街に出るようになった。
似たような境遇の友人やたまたま店で知り合った大学生たちと遊び夜を過ごしていた。
警察に見つかると面倒なので、大学生たちに紛れながらやり過ごした。
大人びた顔つきのせいか大学生たちのフォローのおかげか怪しまれることもほとんどなかった。
今思えば私はかなりラッキーだったと思う。
危ない薬や変態に捕まることもなかったから。
大学生たちに少しだけ酒を飲まされることはあっても彼らは私を守ってくれてたと思う。
そのおかげで私は変にグレることもせず大人になることができた。
そして大学生になったとき、わたしは長年の謎の真相を知った。
父親の仕事は私が生まれる頃にはすでに破綻しており借金がかなり膨れていた。
しかし父親のプライド的に負債となった会社を手放すことは許さなかったらしい。
母親は少ない貯蓄から当時は詐欺の一つとされていた株を買って私の大学費用を貯めてくれていたようだ。
私は学校にお金がいるなんて思ってもみないほど世間知らずだったから、このことを知ったのは大学に入った後だった。
結局母親の長年の株投資のおかげで父親の借金も完済した。
何も知らないとはいえ私は母親になんてことを言ったのだろう。
私を守る為の涙だったことも知らないで…。
「遠くの空へ」
容赦なく太陽が照りつけ、握手の手が汗ばんでいる。
高校球児が誰しも夢に見る憧れのマウンド。
帽子の下から見える世界はどこまでも黒く、どこまでも白かった。
いつも通りいつも通り…。だけど興奮がおさまらない。未熟な胸にはこの興奮が収まりきるはずがない。
空でも飛べそうな気分だ。
サイレンが鳴り響き勝負が始まる。
余韻に浸っている暇などない。
けれどこの景色、一瞬一秒を噛み締めたい。
相手は西の強豪校。
相手のことは調べ尽くして対策も立ててきているはずなのに、尻込みしてしまう。
やっぱりチームでコミュニケーション取る時も関西弁…話すんだろうか。なんでやねん、とか言うのかな…。一緒にタコパとかしてみたいなぁ。
なんて子供じみた考えが浮かぶが、今は敵だ。
ここで勝たなければ夏が終わる。
これまで暑い時も寒い時も頑張ってきたのだから、ここで倒されるわけにはいかないのだ。
じりじりと試合が行われていく。
実力が五分五分だと言われるとそれまでだが、緊迫した状況が続く。
8回裏。0対0
戦況はあまり良くない。緊張感がベンチに張り詰め、息苦しい。
俺の名前が呼ばれる。
今日はまだ一回しか球が当たっていない。
最後のチャンスだ。
バッターボックスに立つとまさに夢のような景色が広がる。
スコンと広い青空、大きくそびえ立つスコアボード。茶色く光るマウンド。
まさに青春という言葉をそのまま絵にしたような光景。
こんなに空って広かったか…?
暑さのせいか頭上の広さに圧倒されたせいか目眩がしそうだ。
全ての人間が俺に集中している、そう思うと意識まで持ってかれそうだ。
でも事実そうなのだ。
今見えてる観客席だけじゃない、練習試合を重ねてきたライバル校の奴らも、塾で仲がいい他校の奴らも祖父母や遠い親戚も今俺を見ている。
それだけじゃない。
日本全国の知らない人たちが今日俺の名前を知って応援してくれている。
なんて心強いのだろう。なんて幸せなのだろう。
俺はバットを握り直した。
ピッチャーと視線がぶつかる。
しかし俺にはもう空しか見えてなかった。
全ての音が消えていく。吹奏楽の音も観客席の歓声も何も聞こえない。
鼓動が速く血が沸る。奥歯が砕けそうだ。
鈍い感触、と同時に空を見つめた。
球は美しい放物線を描いていく。
行け、もっと行け、もっとこの空の果てまで。
あぁ、なんでだろう。涙が出る。
俺、死ぬのかな…?
だってさこれまで主人公じゃなかったんだぜ?
彼女もいねえし、勉強ができるわけでもないし、バカなことと野球しかやってこなかった人生なのに、こんなカッコいいことしちゃっていいの?
音が戻ってくる。
地響きのような歓声に包まれ、足がもつれそうになる。
試合はまだ終わっていない。
だけど俺は生涯この空の広さを忘れることはないと思う。
「!マークじゃ足りない感情」
寝る前は脳みそがとろけてしまっている。
だから普段なら恥ずかしくて言えないことも平気で言えるのかもしれない。
しかし喧嘩しているカップルにおいてはその限りではない。
冷や汗がひんやりと首筋を流れて頭はスーパーコンピューターの比じゃないほど冴えまくっている。
やっちまった。やらかした。
ちょっとの油断がこんなことになるなんて…。
スマホを見つめ彼女からの連絡を待つ。
しかし既読がつくだけで返事はない。
今日のデート忘れちゃってごめん>
夜勤長引いてそのまま寝ちゃってた>
電話をしてもすぐに切られてしまう。
かなりお怒りのようだ。
今日は彼女が楽しみにしていたカフェに行く約束をしていたのだ。
俺の誕生日も近いため夜まで一緒にいてお祝いするはずだった。
なんならこのベッドで一緒に寝ているはずだったのに。
気付けば約束の時間を5時間も過ぎていて太陽は夕を帯びていた。
以前もデートの前日に夜勤のバイトを入れてすっぽかしをやらかしたことがある。
その時は「忙しいのも分かるけどデートの前日は夜勤しないでよ。私、男友達じゃないんだよ?」と言われてしまった。
ドタキャンされたら誰だって怒る。
男友達ならまだしも、女性は準備に時間がかかるから余計だろう。
夜勤明けのボロボロの状態を許してくれるのは男友達との飲みくらいだ。
彼女はいつも肌がつるりとしてドレスのようにふわふわした服を着ている。
それも理解している。
なのになんでまたやっちまったんだ…!
しかも今日は俺のお祝いも兼ねていた。マメで優しい彼女のことだ。きっとプレゼントなども用意してくれていただろう。
やばい…このまま愛想尽かされるかもしれない…。
本当にごめんなさい🙇♂️>
この埋め合わせは必ずします>
既読もつかなくなった。
終わっちまったんだ…。
これまで喧嘩はあれど返事が返ってこないことはなかった。
明日彼女の家に行くか…。
そう思って枕に顔を埋めた時だ。
ピンポーン
ドアのチャイムが鳴った。
深夜なのに…。冷や汗が背中に流れる。
恐る恐るドアスコープを覗くと、黒いキャップをかぶりパーカーを着た人が立っていた。顔は見えない。
あ、俺恋だけじゃなくて命も終わるんだ…
そう思ったその時、ドアの向こうで聞き慣れた咳払いが聞こえた。
「え!」
慌ててドアを開ける。
不審者のような格好をして甘い笑顔が見えた。
「来ちゃった」
アニメでしか聞いたことがないセリフトップ3を放ち、キャップを取る。
どこに押し込められていたのかふわりと長い髪が広がり同時にシャンプーの香りが漂った。
「深夜だから危ないかなあと思って不審者コーデしてきたの。可愛くないけど、まあ今日は君が悪いから許しなさい」
俺は興奮と嬉しさと愛しさと罪悪感と申し訳なさでいっぱいだった。
「ねえ!なんか言うことないの!」
ぷくっと彼女が頬を膨らませて睨みつける。
俺は声が出ず彼女を抱きしめた。
いつものふわふわとした服じゃないからか余計に彼女の熱が感じられる。
彼女の後ろ手に小さな紙袋が見えた。俺が気になっていたブランドのロゴが見える。
もう感情がぐちゃぐちゃでなぜか涙が出てきた。
「君が見た景色」
墓参りをするとき妻は表情を失う。
まあへらへらと笑っているのも不謹慎だし、さめざめ泣いているのもさすがに感受性強すぎるから真顔なのが一番いいのだと思う。
確かにどんな表情をしていいのか分からない。
妻の家はとても素晴らしいと思う。
立派で定年までしっかり仕事を勤め上げ、一家の大黒柱として生涯をまっとうした父。結婚の挨拶の時もその威厳のせいか僕が泣きたくなるほどだった。
そしておおらかでテキパキと働く母。妻の実家に行くと美味しい料理を出してくれていつも僕の仕事や子供たちを気遣ってくれていた。
両親が亡くなったのはこの冬。
不幸な事故だった。あれだけ立派で優しくて無害な人たちが死んでしまうなんて、なんて理不尽な世界なんだろうと改めて思い知った。
妻の家を高く評価するのは僕の両親がとんでもないクズだったからだろう。
実質離婚しているのと同じようなもんで父母どちらも愛人を作って家には滅多に帰ってこなかった。
グレずに育ったのが奇跡だと思う。
だからこそ妻の実家は温かく素晴らしいと感じたのだ。
「花買ってきた?」
「うん」
妻は盆用の花束を抱えて見せた。
白い菊が太陽に照らされて眩しい。
無機質な墓に色を添えて僕らは手を合わせた。
妻を育てていただきありがとうございます。
改めて幸せにするので見守っていてください。
車に戻ると妻の表情はかなり明るくなっていた。
この後お寿司を食べに行く約束をしているからだろう。
桑田佳祐の歌声に揺られながら妻は晴々として言った。
「初盆終わったねー!やっと解放されたって感じ」
喪に服する期間から解放されたということか。
確かに無意識だけれどなんか鬱々としていた気がする。
「まああとは7回忌とか?」
「そうだねえ。まあしなくていいよ」
「え?そういうわけにはいかないでしょ」
「いい。もうこの家終わらせるから。なんなら墓じまいもそのうちしたい」
あれ?妻は両親と仲が良かったはずなのになんでこんなことを言うのだろう。
そういえば、妻は両親についてあまり語りたがらなかった。
小さい頃の思い出もあまり聞いたことがないし、実家に帰っても僕中心で話が回っていて彼女はあまり喋らなかった。
「私、両親大っ嫌いだったから。やっと解放された」
ご機嫌で桑田佳祐を口ずさむ。
温かく理想的な家庭。
もしかして僕は妻に寄り添えていなかったのではないだろうか。
どれだけ無神経に彼女を傷つけてしまったのだろう。
僕だって両親が嫌いだ。
ただ他の人から見たら、事情を知らない他人から見れば普通の家族だったに違いない。
理想を彼女に押し付けて寄り添おうとしなかった。
「…ちょっといいお寿司に行こうか」
「え?いいの?やったあ!」
妻は少女のように喜んだ。
「言葉にならないもの」
「歌が上手い人モテるって言うじゃん。まじでそれ」
「誰?」
「え、今歌ってんじゃん」
「あー確かに上手いかも」
「後でLIME交換しようかな」
友人の瞬きがゆっくりになっているのを見て私はぼんやりと歌声の主を見る。
先ほどのレストランではそれほどパッとしなかった印象の男性だ。
一昔前に流行した韓国風のマッシュヘアで目元がほとんど隠れている。
どしたん話聞こか系男子。こういうタイプまだ生き残ってたんだ。
こういうタイプは大体自信がない。好きじゃない。
今日のために新調したネイルをパチパチと弾きながら私はこっそりと帰る準備を始めた。
友人に誘われた合コン。久しぶりに恋愛の合戦場に臨むにはそれなりの気合いが必要で、ゆるく巻いた髪も普段つけない甘い香水もいつもより長い爪も武装の一種だ。
しかし武装したはいいものの戦果は挙げられそうにない。
友人にこっそりと耳打ちしてカラオケルームを出た。
…はぁ〜だる。
私はヒールのかかとを叩きつけながら駅へ向かった。
夜のぬるい風が顔を吹きつけ、遠くの喧騒が流れていく。
眠い、だるい、疲れた。
満員電車の時間帯を過ぎた車内は赤ら顔のおっさんが8割。
その他は私と同じように戦闘服に身を包んだ若い男女。
誰も他人に興味を持つことなく、自身のスマホに目を向けて、そしてどこか寂しそうな顔をしている。
私にとっては外の世界は全部そんな感じだ。
ふとかすかにギターのシャカシャカした音が聞こえた。隣の人のイヤホンから音漏れしているらしい。
うわーだる。周りの迷惑考えろよ。
隣の男性は、先ほど見た歌うまのどしたん話聞こか男子と同じような外見だった。大学生?私よりも若いのかもしれない。
年下なら注意したろ。今日の私はいけてるはずだし。
トントンと肩を叩いて耳を指さした。
「音漏れてますよ」
ギターで聞こえないだろうから口をはっきり大きく動かす。
男性は慌てたようにペコペコと頭を下げてイヤホンを外した。
「すみません」
「いーえ、良い曲ですね」
あー何言ってたんだろ私。あ、恋愛武装モードが溶けてないんだな。会話続けようとしちゃって。
「すみません…」
男性はすっかり恐縮してしまったようだ。嫌味と捉えられてしまったらしい。
「なんて曲ですか?」
男性はびっくりしたようにおずおずとスマホの画面を確認した。
「えっと…silent screamっていうバンドで舌の奥っていう曲です」
「へえかっこいいですね」
とびきりの営業スマイルをプレゼントして私はスマホで検索した。
「…お、音がいいんです、このバンド。よかったら聞いてみてください」
私は画面に出てきた歌詞を見つめた。
これ、あのどしたん君が歌ってた曲だ。
赤いライトに照らされ激しく汗を散らしている人たち。
落ち着いた声と歌詞の下で強くかき鳴らされるギター。早いドラム。強いベース。
歌が上手い人ってモテるって言うよね。
ちがう。言葉にできないものがたくさんあったから、歌に乗せるしかなかったんだ。
私や他の人が感じているような寂しさ、孤独、もやもやをたくさん歌った結果上手くなったんじゃないの。
他人に興味がない?
そのくせ私は心の中で他人をジャッジして、非難して、媚を振り撒いて…
自分のモヤモヤを言語化して歌に乗せて昇華するでもなく、自分を正当化しているだけだ。
「今度ライブあるんですよね…このバンド。もしよかったら来てみてください」
「え?」
隣の男性はオロオロとして立ち上がり電車を降りていった。
気付けば少しだけ、だるさがなくなった気がした。