「まだ見ぬ世界へ!」
時刻は12時30分。まるで昨日までの雨が嘘だったかのように、空は快晴だった。プレートにクロワッサンにソーセージ、牛肉のハンバーグとサラダを少々乗せた。飲み物はアップルジュースだ。
カフェテラスのテーブルにはいつもの仲間たちが待っている。皮膚の色も国籍もバラバラだということも忘れ、家族以上に信頼できるクルーメイトになった。約1年と半年。長くも短くもあった準備期間が終わり、俺たちは今日宇宙へ行く。
まるで明日もここでランチを食べるんじゃないかと思われるように和やかでいつも通りの光景だが、すでに報道陣への会見を終えて世界中に意気込みを伝えたところだ。
「こいつったら、ガクガクでマイク持つ手が震えてたんだぜ!」
「仕方ないだろ!いまだに記者会見は緊張するんだ。お前こそいつものビッグマウスはどうしたよ」
「俺がいつビッグマウスだったって?」
ここまで聞こえてくるほど大きな声でふざけあう2人もいつも通りだ。それをにこにこと眺めて優雅にコーヒーをすする女性2名も。
「おい!リーダー!早くこいよ!スープが冷めちまうだろ!」
「すまんすまん」
慌てて席に着いてみんなの顔を見る。誰も笑顔を浮かべるだけで料理に手をつけない。
これが最後のランチになるかもしれない。
全員思っていることは同じだろうが口には出さず、リーダー、つまり僕の言葉を待っている。
ミッションにアサインされた1年半前からすでに覚悟は決まっている。死への恐怖、家族への思い、それぞれに課せられた世間からの期待。どれも乗り越え、各自で昇華し、訓練への糧にしてきたからここにいるのだ。もう僕らに残されたのはカウントダウンまでの和やかなカウントダウンだけだ。
「君らが最初に見た流れ星ってなんだった?」
拍子抜けしたような彼らの表情は何度見ても面白い。
リーダーらしい言葉を掛けるよりも自分の言葉でコミュニケーションを図ってきた。その度に彼らはこんな表情をする。
「えーと、昔テキサスで見たペルセウス座流星群かな。見事だったよ」
「私はカリフォルニアで見たわ。大学のサークル仲間と」
「私は小さい頃田舎に住んでたからよく見れたなあ」
「俺もだ。最初がいつか分からないけどよく見てたぜ」
やはり自然豊かな場所が近いと必然と宇宙との距離は近くなるものなのだろうか。改めて彼らの育ってきた環境がうらやましく感じると同時に、自分のこれまでの軌跡が本当に奇跡に感じる。
「僕もねペルセウス座流星群だったよ。その年は特によく見えるって話題になっていたから家族と一緒に公園に見に行ったんだ。だけど見えなかった。僕が住んでたところは特に都会だったから、そもそも星なんて見えるはずもなかったんだ」
いつも騒がしいはずのカフェテリアがまるで僕らだけを残したように静まり返る。
「その帰り道、流星群が見えないのが悔しくて僕は懐中電灯をカチカチしながら空を見上げていた。少しでも見えるかもしれないってね。すると見えたんだ!」
おお!と小さな相槌が聞こえた。
「しかもたくさん。何度も何度も。美しかったよ。細く白い線が流れていく。でもそれは懐中電灯が照らしたただの電線だったんだ」
プッと誰かが吹き出して笑いが伝染する。僕もつられてひとしきり笑った。
「でもあのニセモノの流れ星のおかげで僕はここにいる。しかも本物の星を誰よりも近くで見る。僕はワクワクで足が震えるほどだよ」
先ほど手が震えていじられていたやつがそっと微笑んだ。
「まだ見ぬ世界を君たちと見るのが楽しみだよ」
アップルジュースを掲げる。
それぞれコーヒー、水、ジンジャエールを掲げた。
「まだ見ぬ世界へ!!!!!」
「空はこんなにも」
「ではお大事に」
頭を下げて診察室を後にした。
盲腸で救急搬送され、思ったより長い入院期間になってしまった。入院する前は骨折もしたことがなく、大きな怪我や傷というものに憧れを抱くこともあったが、入院という実績を解除してしまうともう経験したくない。それより早く学校に行きたい。勉強も遅れているし、何より体を動かしたくてうずうずする。
やっぱり久しぶりに登校したらみんなから意識されるんだろうか。ちょっと気恥ずかしいけど嬉しいなあ。
もてはやされる妄想をしていると廊下の角で人にぶつかった。
「あ、すみません!」
カシャンと点滴の棒が揺れる。クラスメイトに囲まれる妄想が一気に慰謝料を請求される妄想に変わる。
「あー大丈夫ですよ」
ぶつかった少女は点滴の針が抜けてないか確認して微笑んだ。口角が上がりきっていないぎこちない笑み。水玉模様のパシャマを着ているところからして入院患者だろう。軽い口調で命拾いした気がしてホッとしたその瞬間、背後で「ちょっとちょっと」と慌てた声がした。
「絶対安静って言われたじゃない。何してるの!?」
ベテランそうな看護師が彼女に駆け寄る。
少女はいたずらっぽくごめんなさーい、と笑った。
点滴は?ぬいてないよね?もう!慌てて点滴を確認する看護師を横目に彼女は気まずそうに僕に会釈をした。消えかけた慰謝料の妄想が鮮明になって戻ってきた。
「君は?」
看護師の鋭い目つきがこちらを向いた。やべえ。事故とはいえ絶対安静の人にぶつかってしまった責任はある。この前友達に聞いた話だと歩行者が飛び出した交通事故だってパワーの強い車側に責任が追及されるのだ。なんて答えようか戸惑っていると「私の彼氏!」と彼女が腕を組んだ。
「「え?」」
看護師と僕の声が重なる。
「今日彼氏が退院しちゃうからお別れを言いにきてたの!ね!?」
有無を言わせぬ迫力で迫られ、僕は思わず頷いた。
「今から部屋戻るからいいでしょ?ほら行こ!」
彼女は点滴の棒と僕の腕を引っ張った。
「さっきはごめんね。なんか君、真っ青な顔になってたからフォローしなきゃと思って…」
彼女はベッドに潜り込むと、座りなよ、とそばにあった椅子を指さした。
彼女の部屋は大きめの個室でたくさんの千羽鶴と雨の雫を固めたようなガラスが吊るされていた。殺風景なはずの病室が虹に溢れている。
「でもなんで僕の退院のこと…」
「私この病院の主みたいなもんだから、なんでも知ってるの。君もう点滴してないし、パシャマじゃないし、診察室の方から出てきたから退院なんだなって思っただけ」
彼女は落ち着かないのか、ティッシュケースをテーブルの淵に綺麗に沿わせていた。
無防備にベッドにもたれた彼女から目を逸らす。
「あ、ありがとう。とにかくフォローしてくれて」
雲が晴れたのか窓から強い光が入る。もうお昼だ。母親が迎えに来る予定だから戻らないと。
「よ、よかったらまた遊びにきてね!」
突然の大きな声に驚いて彼女と目があった。
少し眩しそうに細められた目は、太陽の光に当てられて瞳の色が透き通っている。まるでガラスのように。僕は見惚れるようにして頷いた。
病室を出ると先ほどの看護師と出くわした。
「あ、彼氏くんだ」
適当に頷いて逃げようとしたが、呼び止められる。
「知ってるかもしれないけど、あの子外出禁止だからね」
釘を刺されたのか。それほどまでに安静にしてなくちゃいけないなんてどんなに重い病気なんだろう。そして、あの千羽鶴の数。人と話すときのぎこちなさ。病院の主という言葉。恐らくだが、生まれてから病院の外に出たことがなさそうだった。
僕は荷物を持って母親の待つ駐車場に向かった。久しぶりの空は青が高く吸い込まれそうだ。
こんなに空って広かったかな。
そうか、病室の窓が小さかったのだ。
広い空に小さく揺れる虹がちらつく。
「どこにも行かないで」
極狭アパートのチャイムが鳴る。
トランクス1枚の姿で布団から這い出してそばにあったジャージを着る。
またもやインターホンが鳴った。
「はいはーい」
時計を見るとまだ7時。こんな早い時間に誰だよ、と思った瞬間ドアが激しく叩かれた。
「まだ寝てんの!?早く開けろー!」
聞き慣れたでかい声。はあ、と大きなため息をついてドアを開けた。
「でけえ声出すなよ。姉貴」
しわ一つないスーツで、似つかわしくないスーパーの大きな袋を抱えて姉は立っていた。
嫌な予感がする。
「今日どうしても仕事顔出さないといけなくてさ、熱あるから1人にできなくて…できるだけ早く帰るから」
いつも横柄な姉が頭を下げた。俺は視線を下ろす。姉貴の足の後ろからひょっこり顔を出す小さな男の子。おでこに冷えピタが貼られている。
断れない。
「まあ、いいけど…」
「まじ!?ありがとー!助かる!今度なんか奢ったげるから!」
両親はいない。姉と2人、協力して生きてきた。数年前姉が結婚し、ようやく報われたと思ったその矢先、姉の旦那が交通事故であっけなく亡くなった。
姉にとって頼れるのはもう俺しかいないのだ。
「ちゃんと布団で寝とけよ」
そう言ったのに、落ち着かないのか甥っ子は6畳の部屋をキョロキョロと歩き回っている。
コンビニ弁当が上積みされたシンク。カビだらけの風呂場。ゲーム機のコードが絡まって足の踏み場もないテレビ前。姉は綺麗好きだから、こんなに汚い部屋は異世界に見えるんだろう。
まあ動きたいなら動けばいい。母親がいなくて落ち着くどころではないだろうし。
俺は気にせずパソコンを開く。
夜の仕事まで、ネットで仕事を受注し文章を書く。
文字を書いていると現実を忘れられる。
集中しているとキッチンからドンガラガッシャンという音が聞こえてきた。
慌てて見に行くと甥っ子が尻もちをついていた。
周りにはプラスチックの皿が散乱していて、中途半端に戸棚が開いている。
「あの、お茶飲もうとしたの…」
泣きそうな声でペットボトルのお茶を指差している。
俺が捨て忘れていたペットボトルだ。5歳児の身長から見るとまだ中身があると思ったのかもしれない。
戸棚の戸を足がかりにして手を伸ばしたのだ。
「あ、ああそれより怪我なかったか。すまんな。兄ちゃんが気が付かなくて」
幸いどこも怪我していないようだ。
良かった…。これで怪我なんてされていたら姉貴に殺されるどころの騒ぎじゃない。
姉貴から預けられた袋を探してみる。お茶は入っていない。
ちょうどストックしていたものも無くなっているし買いに行った方がいいだろう。
近くのコンビニまで徒歩5分。甥っ子は留守番しておいた方がいいかもしれない。
熱も上がっているような気がするし…
「兄ちゃんお茶買ってくるよ。ちょっとだけ留守番できるか?」
甥っ子は無言で頷く。
俺は財布を掴んで靴を履いた。
ちゃんと布団で寝とけよ、と声をかけようと顔を上げると、甥っ子と目が合った。
目にたくさんの涙を浮かべている。冷凍の餃子ほどの大きさもない手を震えるほどギュッと握りしめ、こぼれ落ちないように必死に耐えていた。
そうだよな、初めての場所で落ち着くわけがない。本当は母親のそばにいたいだろう。
さっきの尻もちだって痛かったに違いない。
本当はこんな俺でも一緒にいてほしいだろう。それなのに泣かないで、落ちそうな涙を堪えている。
…自販機ならアパートのすぐ下にある。
「一緒に行くか?」
手を伸ばす。甥っ子は大きく頷き涙を散らした。
「君の背中を追って」
ペンを置いて伸びをする。肩からポキポキと音を鳴らすとベッドに寝転んだ。衝撃でベッドのへりに掛けていた制服が床にずり落ちた。
あー寝てしまいそうだ。でもまだ寝たくない。
やっと課題が終わったのだからゲームくらいはさせてほしい。枕を顎の下に入れるとゲーム機に手を伸ばした。
すると後ろでカチャリ…と音がした。ハッハッというリズミカルな呼吸音と共に背中に4つの肉球の感触。
「ポチ、お前また自分でドア開けたのか」
踏み潰さないようにゆっくり仰向けになると、頬に湿った鼻が押しつけられた。
柴犬のポチは俺が生まれた時からうちにいる。もうなかなかの爺さんのはずだけど、俺のドアを器用に開けるくらいには元気だ。
もふもふの毛皮に顔を突っ込んで深呼吸する。
獣臭い。けれど小さい頃からこの毛皮が毛布がわりだったからホッとする。
「ポチ散歩は行ったのか?」
プリプリと尻尾を振る。まだ行ってなさそうだな…
「しゃーねえな。久しぶりに行ってやるか!」
ポチの散歩は本来母の役目だ。どうせ最近流行りのドラマに夢中で忘れてるんだろう。
リビングのドアを開けて母に声をかけ、ポチにリードを繋いだ。
興奮しているようで前足でドアを掘っている。
「ほら!行くぞ!」
ボルトもびっくりのスタートダッシュで駆け出すポチ。
不意を突かれて引きずられるような形で走り出す。
「ちょ、ちょっと待って」
思わず情けない声が漏れる。
夕焼けにポチの焦げた毛皮が重なる。
そういえば、小さい頃もこんな感じだった。
その頃、ポチはまだ子犬で、俺はようやく歩き始めたばかりだったか。
母親の持ってるポチのリードが気になって渡してもらってはいいものの、ポチが急発進して思いっきり引きずられたのだ。
「リード離せば良かったのに、めっちゃ掴んでたからねあんた」
いまだに母親が気に入って、家族の中で笑い話となっている話だ。
急発進する癖は変わらないんだなあ。
俺は体勢を整えてポチの横に並んで走った。
あの頃はポチのスピードに追いつけなくて、引きずられてばかりだったが、今では俺の方が速いかもしれない。
少し後ろからハッハッとリズミカルな呼吸が聞こえてくる。
ポチはまだ走るのをやめない。
俺が前にいるので、まるでポチを引っ張っているように見えるが、実際リードは弛んでいる。ポチがついてきてくれているのだ。
「お前そんな走って大丈夫なの?ジジイだろ」
ポチはこちらを見上げて嬉しそうに走っている。
これ、俺が止まらないと走り続けるやつだ。
少しスピードを緩めてみる。
するとポチはその横をぴゅーんと走っていく。
また引きずられるようにして駆け出す。
「お前…!元気だな」
リズムが崩れて息が乱れる。
ポチの尻尾はずっとプリプリと揺れていた。
この尻尾を永遠に止めないでほしい。止まらないように俺は後ろから見ておくから。
「雨の香り、涙の跡」
足元に何か見えてひゃっと飛び跳ねた。
よく見るとカタツムリ。頼りない軌跡がぬらぬらと光っている。踏まなくてよかった。見るのも嫌だけど踏み潰した時の気持ち悪さを想像するだけで鳥肌が立つ。
雨蛙がゲロゲロ鳴き出した。田舎の田圃道を通学路にしているとこうやって動物たちが天気を教えてくれることがある。
早く帰ろう。家まであと20分。傘はない。
朝、家を出てから母親が走って追いかけて持たせてくれた傘。
学校に忘れたわけではない。
ビリビリに引き裂かれ、骨を折られてしまったのた。
教室を出て傘がないことに気付き、ゴミ捨て場で見つけた。
数年前母親に買ってもらったピンクの傘。
何が気に入らなかったのか分からない。
小学校からほぼ持ち上がりで仲のいい人ばかりだったのに、ある日突然それは始まった。
もともと控えめな性格で友達の多い方ではなかったが、誰とも笑い合えない、目が合わない、避けられる毎日はかなり辛い。
仲良くしていた子たちから無視されるのは尚更つらい。
主犯格は分からない。ただそういう空気になったのだ。運が悪かった。
そう運が悪かっただけなのだ。
私が無視する側になっていた可能性もある。
そう思っていた。
「なんであんなにキモいの?」
「あれで自信持てるのが逆にすごいよね」
「マジでキモすぎ」
クラスでも目立つ子たちがトイレで話しているのを聞いた。
以前はそこまで仲良くもなかったが話しかけられたら話す人たちだった。
私のことを言っているのはすぐに分かった。
私何かしたのかな?
普通に生きてるだけなんだけどな。
何がキモいの?何が気に入らないの?なんで急に避けるの?どうして良心が傷まないの?いじめって分かってる?どうして私が…
聞きたいけれど怖くて聞けない疑問が油のように沈んでいく。
その日から教科書が隠されたり、落書きされたり、破られたり、悪意が形をもってぶつけられるようになった。
頬に冷たいものが落ちる。
やばい、降ってきた。
ポツポツと髪や制服を濡らし始める。家までもうすぐ。
だけど走る気になれなかった。
むしろかたつむりのように歩みが遅くなる。雨は強くなってまつげまで濡らした。
使えない傘をおおきく振りかぶって地面に叩きつけた。泥がついて拾うのに躊躇する。
雨足はどんどん強くなる。制服がずっしりと重くなってきた。
傘を拾い、再び歩き始める。靴の中からぐちょぐちょと音がする。
冷たい雨なのにどうしてか、ずっと目が熱かった。