「空はこんなにも」
「ではお大事に」
頭を下げて診察室を後にした。
盲腸で救急搬送され、思ったより長い入院期間になってしまった。入院する前は骨折もしたことがなく、大きな怪我や傷というものに憧れを抱くこともあったが、入院という実績を解除してしまうともう経験したくない。それより早く学校に行きたい。勉強も遅れているし、何より体を動かしたくてうずうずする。
やっぱり久しぶりに登校したらみんなから意識されるんだろうか。ちょっと気恥ずかしいけど嬉しいなあ。
もてはやされる妄想をしていると廊下の角で人にぶつかった。
「あ、すみません!」
カシャンと点滴の棒が揺れる。クラスメイトに囲まれる妄想が一気に慰謝料を請求される妄想に変わる。
「あー大丈夫ですよ」
ぶつかった少女は点滴の針が抜けてないか確認して微笑んだ。口角が上がりきっていないぎこちない笑み。水玉模様のパシャマを着ているところからして入院患者だろう。軽い口調で命拾いした気がしてホッとしたその瞬間、背後で「ちょっとちょっと」と慌てた声がした。
「絶対安静って言われたじゃない。何してるの!?」
ベテランそうな看護師が彼女に駆け寄る。
少女はいたずらっぽくごめんなさーい、と笑った。
点滴は?ぬいてないよね?もう!慌てて点滴を確認する看護師を横目に彼女は気まずそうに僕に会釈をした。消えかけた慰謝料の妄想が鮮明になって戻ってきた。
「君は?」
看護師の鋭い目つきがこちらを向いた。やべえ。事故とはいえ絶対安静の人にぶつかってしまった責任はある。この前友達に聞いた話だと歩行者が飛び出した交通事故だってパワーの強い車側に責任が追及されるのだ。なんて答えようか戸惑っていると「私の彼氏!」と彼女が腕を組んだ。
「「え?」」
看護師と僕の声が重なる。
「今日彼氏が退院しちゃうからお別れを言いにきてたの!ね!?」
有無を言わせぬ迫力で迫られ、僕は思わず頷いた。
「今から部屋戻るからいいでしょ?ほら行こ!」
彼女は点滴の棒と僕の腕を引っ張った。
「さっきはごめんね。なんか君、真っ青な顔になってたからフォローしなきゃと思って…」
彼女はベッドに潜り込むと、座りなよ、とそばにあった椅子を指さした。
彼女の部屋は大きめの個室でたくさんの千羽鶴と雨の雫を固めたようなガラスが吊るされていた。殺風景なはずの病室が虹に溢れている。
「でもなんで僕の退院のこと…」
「私この病院の主みたいなもんだから、なんでも知ってるの。君もう点滴してないし、パシャマじゃないし、診察室の方から出てきたから退院なんだなって思っただけ」
彼女は落ち着かないのか、ティッシュケースをテーブルの淵に綺麗に沿わせていた。
無防備にベッドにもたれた彼女から目を逸らす。
「あ、ありがとう。とにかくフォローしてくれて」
雲が晴れたのか窓から強い光が入る。もうお昼だ。母親が迎えに来る予定だから戻らないと。
「よ、よかったらまた遊びにきてね!」
突然の大きな声に驚いて彼女と目があった。
少し眩しそうに細められた目は、太陽の光に当てられて瞳の色が透き通っている。まるでガラスのように。僕は見惚れるようにして頷いた。
病室を出ると先ほどの看護師と出くわした。
「あ、彼氏くんだ」
適当に頷いて逃げようとしたが、呼び止められる。
「知ってるかもしれないけど、あの子外出禁止だからね」
釘を刺されたのか。それほどまでに安静にしてなくちゃいけないなんてどんなに重い病気なんだろう。そして、あの千羽鶴の数。人と話すときのぎこちなさ。病院の主という言葉。恐らくだが、生まれてから病院の外に出たことがなさそうだった。
僕は荷物を持って母親の待つ駐車場に向かった。久しぶりの空は青が高く吸い込まれそうだ。
こんなに空って広かったかな。
そうか、病室の窓が小さかったのだ。
広い空に小さく揺れる虹がちらつく。
6/25/2025, 10:30:35 AM