「どこにも行かないで」
極狭アパートのチャイムが鳴る。
トランクス1枚の姿で布団から這い出してそばにあったジャージを着る。
またもやインターホンが鳴った。
「はいはーい」
時計を見るとまだ7時。こんな早い時間に誰だよ、と思った瞬間ドアが激しく叩かれた。
「まだ寝てんの!?早く開けろー!」
聞き慣れたでかい声。はあ、と大きなため息をついてドアを開けた。
「でけえ声出すなよ。姉貴」
しわ一つないスーツで、似つかわしくないスーパーの大きな袋を抱えて姉は立っていた。
嫌な予感がする。
「今日どうしても仕事顔出さないといけなくてさ、熱あるから1人にできなくて…できるだけ早く帰るから」
いつも横柄な姉が頭を下げた。俺は視線を下ろす。姉貴の足の後ろからひょっこり顔を出す小さな男の子。おでこに冷えピタが貼られている。
断れない。
「まあ、いいけど…」
「まじ!?ありがとー!助かる!今度なんか奢ったげるから!」
両親はいない。姉と2人、協力して生きてきた。数年前姉が結婚し、ようやく報われたと思ったその矢先、姉の旦那が交通事故であっけなく亡くなった。
姉にとって頼れるのはもう俺しかいないのだ。
「ちゃんと布団で寝とけよ」
そう言ったのに、落ち着かないのか甥っ子は6畳の部屋をキョロキョロと歩き回っている。
コンビニ弁当が上積みされたシンク。カビだらけの風呂場。ゲーム機のコードが絡まって足の踏み場もないテレビ前。姉は綺麗好きだから、こんなに汚い部屋は異世界に見えるんだろう。
まあ動きたいなら動けばいい。母親がいなくて落ち着くどころではないだろうし。
俺は気にせずパソコンを開く。
夜の仕事まで、ネットで仕事を受注し文章を書く。
文字を書いていると現実を忘れられる。
集中しているとキッチンからドンガラガッシャンという音が聞こえてきた。
慌てて見に行くと甥っ子が尻もちをついていた。
周りにはプラスチックの皿が散乱していて、中途半端に戸棚が開いている。
「あの、お茶飲もうとしたの…」
泣きそうな声でペットボトルのお茶を指差している。
俺が捨て忘れていたペットボトルだ。5歳児の身長から見るとまだ中身があると思ったのかもしれない。
戸棚の戸を足がかりにして手を伸ばしたのだ。
「あ、ああそれより怪我なかったか。すまんな。兄ちゃんが気が付かなくて」
幸いどこも怪我していないようだ。
良かった…。これで怪我なんてされていたら姉貴に殺されるどころの騒ぎじゃない。
姉貴から預けられた袋を探してみる。お茶は入っていない。
ちょうどストックしていたものも無くなっているし買いに行った方がいいだろう。
近くのコンビニまで徒歩5分。甥っ子は留守番しておいた方がいいかもしれない。
熱も上がっているような気がするし…
「兄ちゃんお茶買ってくるよ。ちょっとだけ留守番できるか?」
甥っ子は無言で頷く。
俺は財布を掴んで靴を履いた。
ちゃんと布団で寝とけよ、と声をかけようと顔を上げると、甥っ子と目が合った。
目にたくさんの涙を浮かべている。冷凍の餃子ほどの大きさもない手を震えるほどギュッと握りしめ、こぼれ落ちないように必死に耐えていた。
そうだよな、初めての場所で落ち着くわけがない。本当は母親のそばにいたいだろう。
さっきの尻もちだって痛かったに違いない。
本当はこんな俺でも一緒にいてほしいだろう。それなのに泣かないで、落ちそうな涙を堪えている。
…自販機ならアパートのすぐ下にある。
「一緒に行くか?」
手を伸ばす。甥っ子は大きく頷き涙を散らした。
6/23/2025, 11:08:26 AM