香草

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6/16/2025, 12:30:43 PM

「マグカップ」

シンクには溢れんばかりの食器が溜まっている。
それを無視してバランスでも取るようにコンビニ弁当の残骸を乗せた。
もうゴミ箱もパンクしているのだ。
もう梅雨だな。なんとかせねば、と思いつつも腰が重い。
ついでに顔も頭も重い。
どれだけじゅくじゅくで顔が腫れているのだろう。鏡を見るのも怖い。
それなのにまた性懲りも無く涙が出てくる。
泣きながらご飯を食べたことがある人は強い、と誰かが言った。
涙の数だけ強くなれるよ、と誰かが歌った。
もし本当にそうならこの涙が乾く頃には私はゴジラ並みのパワーを得ているかもしれないな。
シンクに乗せた弁当のゴミが落ちた。
なんだかイラッとしてグッと押しこむとシンクの底からパリンという音がした。

涙のきっかけは彼氏に浮気されたことだ。大学のサークルで出会い5年半。理系の真面目な人で冗談を言うことも少ない人だった。もうすぐ同棲しようという話もあった。
その話の続きかと思い呼び出されていくと、別れ話をされたのだ。
「本当にごめん」
開口一番に謝った時点で嫌な予感はしていた。
研究室で徹夜してデートをすっぽかしたときも、クリスマスにプレゼントしたお揃いのマグカップを割った時も、いつもなにかしでかしたときは必ず気まずそうに天気の話から始めていたから。
「なにがあったの?」
「結論から言うと別れてほしい」
ふざけんな。そこで結論から言うやつがいるかよ。
普通はクッション入れるだろ。ふかふかのやつ用意しとけよ。
「嫌だよ!どうして?」
「俺が悪いんだ」
「どういうこと?」

「俺が浮気しちゃって…」
しちゃったって何?なに意図せずそうなっちゃいましたみたいな、そうせざるを得なかったみたいな言い方してんだ?
「浮気?5年半も付き合っといて今さら!?ついこの前だって同棲しようって話してたじゃん。どういう気持ちで言ってたの?いつからよ!」
「5年前から…」
思わず思考が停止する。
真面目な人だと思っていた。不器用で研究一筋で、愛情表現だって下手くそで…
5年前から浮気していた?ずっと騙されていたの?なんでそんなことしたの?私のこと嫌いだったの?なんで気付かなかったんだろう。私の何がダメだったのかな。どうして。
「分かった。別れよう」
もうここまで来たら泣こうが喚こうが、結果は変わらないだろう。
こんなゴミもういらない。

幸いなことに家の中に彼との思い出は少なかった。いつも誕生日や記念日は高級お菓子や入浴剤とか消えものをもらっていたから。
センスがないからアクセサリーとかは分からないんだよって言ってたけど、もしかしたら二股の証拠が残らないようにしていたのかもしれない。
もしかしたら徹夜してデートですっぽかした時だって浮気相手と一緒にいたのかもしれない。
お揃いのマグカップを割ったのだって、そういう理由かもしれない。
疑い始めると全てが怪しい。
しかし割れた皿をそのままにするのはまずいだろう。
せっかくなのでシンクの食器に洗剤をぶっかけて洗いながら探すことにした。
およそ1週間分の食器とゴミ。梅雨のせいで香ばしい匂いを発しているものもある。
見つけた。白い陶器のかけら。
引っ張り出すと取っ手の取れたクリスマスのマグカップだった。

6/15/2025, 10:56:02 AM

「もしも君が」

あつい夏の日、グラウンド10周を命じた顧問を呪いながら、木陰にちらりと目をやった。
最近よく部活の応援に来ている女子生徒。
色白で真っ赤な唇が印象的で、外に出る時は日傘を手放さない。
確か1学年下のはずで、部活の後輩たちが噂していた。
「あ、また来てますね。彼女」
「おい、お前挨拶してこいよ」
「いや無理無理!てかこんな週末まで野球部観に来るなんて、やっぱ誰かと付き合ってんじゃねえの」
「おいお前か?」
「もしそうなら今頃自慢してるわ」
後輩たちが色めきたっているのを軽く注意する。
「おいお前ら、集中しねえと1周増やすぞ」
へい!と気合の入った声を背に足を進める。
しかし暑いのは苦手そうなのに、なぜ毎日毎日野球部の練習を見に来るんだろう。
この中に好きなやつでもいるのかな。

ランニングが終わって水飲み場へ向かう。
6月だというのに容赦ない日差しのせいでもう汗だくだ。
思い切り蛇口を捻り、頭から水を被った。
ひんやりとした感覚が背中に流れ、ブルっと身震いをした。
「あの…」
鳥のさえずりのような声がした。
振り返ると例の女子だ。
「はい?」
彼女は日傘の柄をくるくると回しながら俯いた。
後輩の誰かに用事だろうか。
それにしても歳の割に大人びた美しい女子だ。
20代と言われても納得してしまいそうなほど、落ち着きが見える。
「誰か呼んできましょうか?」
彼女が何も言わないので会話を促す。
「いえ、あなたに用があって…」
あ、俺?
もしかして、これは、そういうことだろうか。
期待しちゃっていいやつ?
生まれてから野球一筋、女子とはあまり話したことがないけれど、この俺にもとうとうモテ期が来たか。

「な、なんすか」
声がひっくり返って誤魔化すように咳払いをした。
「あの、このスポドリ渡すようにマネージャーさんに言われて」
彼女が差し出したのはいつも部活中にマネージャーが渡してくれるスポーツドリンク。
なぜ彼女が持ってるんだろう。
「あ、ありがとう」
少し怪しみながらも受け取った。
マネージャー忙しかったのかな?
なにも部外者のこの子に預けなくても後で直接渡してくれればよかったのに。
「あ、私が渡しておきますって言ったんです。マネージャーさん忙しそうだったので」
疑問を見透かしたように彼女がにっこりと笑った。
そういうことか。
「あーありがとね。君1年だよね。いつも野球部観に来てるけど誰か知り合いいるの?」
せっかくマネージャーかくれたチャンス。こんな可愛い後輩とお近づきになっておきたい。ついでに彼氏がいないかも確認しておきたい。

スポドリを一口口に含む。少し緊張しているせいか、なぜか鉄の味がする。
「いや、いないです。先輩がかっこいいなって思ってて」
「あ、俺!?」
思わず吹き出す。
少女は照れる様子もなくにこにこと頷いた。
やっぱきたこれ。
「はい。先輩を応援してます」
まっすぐな瞳で言われると嬉しいを通り越して少し怖い。
話したこともないのになぜ…。
どうしたらいいか分からず横を向いた。
校舎の窓にはいかにも告白されている様子の男と美しい…あれ?
もう一度彼女に目を戻す。鋭い目と視線がぶつかる。
そしてまた窓ガラスに目を向けた。
「私先輩と仲良くなりたいです」
そこにはいかにも告白されている様子の男と美しい女の子。
気のせいか。一瞬彼女の影がないように見えた。
熱中症になりかけてんのかな。
スポドリを口に含み、彼女に視線を戻した。
ひんやりとした汗が背中に流れた。


6/14/2025, 12:43:50 PM

「君だけのメロディ」

固い空気が肌を刺す。
緊張感を少しでもほぐそうと指揮台に立った先生が笑顔を向ける。
しかし安心したのも束の間。指揮棒に神経を集中させる。心臓が止まるような一瞬の静寂。
指揮棒が振り下ろされ、お腹に溜めた空気が丁寧に吐き出される。最初はフォルテ、この曲は主に怒りを表現している。
重厚な音圧で審査員の顔面を殴るような勢いで響きを増幅させる。
第72回高校生全国合唱コンクール。この日のために休日もすべて部活に捧げてきた。
この舞台に立っているのはコンクールのために選ばれた精鋭メンバーだ。
きっとステージから客席の表情まで見えないだろう。私は静かに涙を落とした。

この国では小学生から合唱に触れる機会が多い。
他の人と声を合わせる楽しみ。まるで自分の口から何層もの美しい声が出ているような感覚になれる。
そのためか、ずっと合唱部に憧れがあった。特に高音が美しい女声合唱団に。
だからこの女子校を選び、合唱部に入部したのだ。
青春の全てをここに捧げる。そう決心していた。
しかし入部後の最初のパート分けテストで、私だけ特別に顧問に呼び出された。
「あなた、かなりハスキーだと言われたことはない?」
「言われたことないですけど…」
「そうねえ。正直に言うとね、あなたはステージに立てないかもしれない」
先生が言うには、私の声は他の部員に溶け込まない声らしい。
どうしても変に悪目立ちをするらしく、曲の雰囲気を壊してしまう。
練習を楽しむだけなら入部していいというなんとも残酷な洗礼を受けた。

しかしここでへこたれるような私ではない。
誰よりも曲の理解を深め、表現力を鍛えた。いつかみんなと同じステージに立つことを夢見て。
どれだけ先輩に嫌な顔をされようと密かに応援してくれる同期だけが、私を勇気づけてくれていた。
でも何をしてもステージに立つことは許されなかった。未成年のくせに酒やタバコでもやって本当に喉を潰そうかなんて馬鹿なことを考えたりもした。
そんなとき、先生があるCDを持ってきたのだ。
「ステージに立ってみない?」
夢にまで見た言葉だった。
「やっとですか!」
「んーまあ、コンクールじゃないんだけど」
先生が流したのはゴスペルだった。
「あなたの個性はここで生きると思う。今度ゴスペルの大会があるの。メンバーを集めて出てみたら?」

どれだけ叫んでもいい。
ゴスペルは魂の叫び。
私だけのメロディ。
私はコンクールで優勝した。

6/12/2025, 1:48:40 PM

「雨音に包まれて」

夕食は18時から30分間。
お風呂は19時から30分間。
施設は家だけど、いろんな人が住む場所。
規則は必ず守らなくちゃいけない。
時間を過ぎたら夕食も風呂も諦めること。
ぶっきらぼうな説明をした職員は私の全身を舐め回すように観察して、
「ではこちらで引き取らせていただきます」
と、叔母さんに言った。
叔母さんは演技がかった身振りで私を抱きしめた。
「両親を殺されて辛いでしょうけど、強く生きるのよ。本当は私の子になって欲しかったのよ?本当よ?でもごめんなさいね」
叔母さんは私のおでこにそっとキスをした。
「いい子でいるのよ。ゴタゴタが終わったら必ず迎えにきますからね」
「はい、叔母さん」
これで一生の別れなんだろうが、悪くない劇だ。しおらしく頷いておく。

外は雨だ。
叔母さんは黄色のフリルがついた傘を差して、馬車に乗り込んだ。夏の花のような叔母さんはこの灰色の施設には似つかわしくなかった。
「いい子にしているのよ」
そのセリフしか思いつかないのか、ずっと繰り返している。うーん女優にはなれないね。女優はアドリブも大事だ。
私は静かに頷いて馬車を見送った。
職員は私を部屋に案内し、
「では食事の時間まで静かに待っておくように。明日からは教会の学校に通ってもらいます。聖書は頭に入っていますか?決して忘れてはいけませんよ」
と言って、ドアをバタンと閉めた。
階段のギッギッという音で職員がいなくなったのを確認すると私は改めて部屋を見回した。
病院のような簡素なベッドと窓際に勉強机が一つ。それ以外は何もない。
私はベッドに横たわってみた。金属の擦れる音がして、カビ臭い匂いが鼻を突いた。
家よりずっといい。
雨樋が近いのか雨音がピチョンピチョンと聞こえてくる。
あの日、警察が来るまでベッドの下で息を潜めていた時のことを思い出す。
あれは母の血の滴る音だったけれど。

警察は私をガラスの人形のように丁重に扱ってくれた。強盗から身を潜めながら両親の死を目撃してしまった子。
私の心の傷をできるだけ刺激しないように、慎重に質問してくれた。だから私もできる限りシナリオ作りに協力した。
「私がベッドに入った後、両親が叫ぶ声が聞こえた。
慌てて両親の部屋に行ったけど、誰もいなくて、その後逃げるように両親が部屋に入ってきた。両親は私にベッドの下に隠れるように言うと、ドアを塞いだ。でもすぐに開けられて強盗が両親を殺した」
喋りながら涙を流してしゃくり上げると、警察はそれ以上何も聞いてこなかった。
「必ず犯人を捕まえる」とギュッと抱きしめてくれた。
雨が強くなってきたのか、ピチョンピチョンが早くなっていく。
冷たい床に滴る血の音。可哀想なお父さんとお母さん。

時計が18時をそろそろ指す頃、館長さんが部屋に来た。
「こんにちは!今日は一緒にいてあげられなくてごめんなさいね。一緒に夕食はいかが?」
ぶっきらぼうな職員とは打って変わって、まるで太陽のような人だ。
私は館長さんの部屋で食事をすることになった。初日だから特別だそうだ。
「まずはようこそ。もうここの子達とはお話した?明日からは教会の学校に通ってもらうんだけど、その神父さんがいい人でね。あなたのことを気にかけてくれてたのよ。そうそう、今日の夕食はどう?お口に合うかしら?施設の裏庭に畑があってね、そこでにんじんやらじゃがいもやら育ててのよ。今度案内するわ」
セリフがぐちゃぐちゃだ。
劇は相手のペースに飲まれてはいけない。相手が下手な俳優であればあるほど、こちらはペースを直さないといけない。
私はスープをかき回しながら俯いた。
「喋りすぎてしまったようね、ごめんなさい。そうよね、ついこの間両親を亡くしたばかりの子に私ったら」
静かになった部屋にまたピチョンピチョンと雨音が聞こえてきた。
薄っぺらい肉にナイフを切り込む。豚肉?牛肉?
どちらにせよ人間の方が柔らかくて温かかったな。
ピチョンピチョン、雨音に包まれてまた私はあの日のことを思い出していた。



6/11/2025, 9:26:26 AM

「美しい」


ほらお話の時間だよ。みんな集まりなさい。
今日は何のお話にしようかね。
コラ坊主。お主その石、祭壇から盗んだものだろう。すぐに返してきなさい。
え?綺麗だから持っておきたい?馬鹿者が。
美しさに目が眩むと痛い目にあうぞ。
ほらさっさと返してこんか。
…まったく。もっと厳しく躾をしたほうがいいね、あの坊主は。
じゃあ今日は美しい石の話をしようかね。
こら、そこ静かにしな。村のおばあの話はちゃんと聞くもんだ。それがどれほどつまらない話であってもね。

その石は海の王ポセイドンが座った岩から欠けたものだと言われている。それが巡り巡って、ある貴婦人の元に辿り着いたのさ。
その海辺の街一番の金持ちと言われていたその夫人は美しいものが大好きだった。美しい服、美しい宝飾品、美しい召使、美しい家具といったように自分の周りを美しいもので囲んでいないと気が済まなかった。もちろん堂々とそんな暮らしをしていたら悪い奴らに目をつけられる。ある朝、主人が夫人の部屋に入るとそこには無惨に殺された遺体があったのさ。顔も潰され、腸が飛び出るほどざっくりと体を引き裂かれていたが、着ているドレスやバラバラになった指に嵌められていた宝石から夫人だと判明した。盗まれたのはただ一つ。ポセイドンの石だ。
もっと価値の高い宝石やドレスもあったのに盗まれたのはそれだけだ。ショックを受けた主人は犯人を捕まえるよう街中に御触れを出した。
しかし何年、何十年経っても犯人はおろか、ポセイドンの石も見つからなかったんだよ。

それからその家は惨殺事件の起こった家として落ちぶれてしまった。夫人は色々な噂があったから、街の人々から好かれてはいなかったけれど、息子は別でね。心の優しい青年だった。でも一家が落ちぶれてしまってから、行方不明になってしまったのさ。
しかしある時、悲しい事実が判明したんだ。
何だと思う?
あ、こら坊主、まだ返してきてないのかい?まったく悪ガキだねえ。
ほらこっちへ寄越しな。あとでおばあからこっそり返しておくから。
え?あ、そうそう話の続きだね。
ある日、夫人が殺されてからおよそ40年ほど経った頃だよ。石が見つかったんだ。見つけたのはなんの因果か、夫人の息子。
国一番の都の市場で婚約者への指輪を探していたら、偶然見つけてしまったんだよ。
その息子は可哀想な子でね、美しくないという理由で夫人に虐待されていた上に、その虐殺事件のせいで家が落ちぶれてしまったものだから、海辺の修道院に預けられていたんだ。そして美しい漁師の娘と恋に落ち、婚約したんだよ。

息子はその石が夫人の殺された原因だと知らず恋人にプレゼントしてしまった。
するとその娘は石を見るなりこう言って泣き崩れた。
「なぜ私の罪を知っているのですか?」
元々彼女は人魚でね、ポセイドンの石は彼女が人間から人魚に戻るときに必要なものだったんだ。それを美しい物好きの夫人の目に留まり無理矢理奪われてしまった。海に帰れなくなった人魚は漁師の養女となって生きていた。しかし毎日故郷の海を眺めて泣く彼女を見かねた漁師は夫人から石を奪い返すことにしたのさ。
しかし奪い返したその石の美しいこと。人魚が住み着いて家計が逼迫していた漁師は石を売り払ってしまったのさ。
人魚が全てを知ったのは漁師が死ぬ間際のことさ。もうそのときにはどうしようもない。すべては自分が人間界に石を持ち込んでしまったから起きたこと。
そうして彼女は石を持って海に帰ってしまったのさ。
その後の青年がどうなったか誰も知らない。
え?ああ、そうだよ。ポセイドンの石は無事人魚の世界に戻ってきたのさ。
しかしまあ、いわくつきの石をおもちゃにするとは血は争えないね。
いいかいみんな。我々が人間になるのか禁忌とされているのはこういう話があるからだ。そして決してこの世界のものを人間界に持ちこんではいけないんだ。
よく覚えておくんだよ。

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