香草

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「マグカップ」

シンクには溢れんばかりの食器が溜まっている。
それを無視してバランスでも取るようにコンビニ弁当の残骸を乗せた。
もうゴミ箱もパンクしているのだ。
もう梅雨だな。なんとかせねば、と思いつつも腰が重い。
ついでに顔も頭も重い。
どれだけじゅくじゅくで顔が腫れているのだろう。鏡を見るのも怖い。
それなのにまた性懲りも無く涙が出てくる。
泣きながらご飯を食べたことがある人は強い、と誰かが言った。
涙の数だけ強くなれるよ、と誰かが歌った。
もし本当にそうならこの涙が乾く頃には私はゴジラ並みのパワーを得ているかもしれないな。
シンクに乗せた弁当のゴミが落ちた。
なんだかイラッとしてグッと押しこむとシンクの底からパリンという音がした。

涙のきっかけは彼氏に浮気されたことだ。大学のサークルで出会い5年半。理系の真面目な人で冗談を言うことも少ない人だった。もうすぐ同棲しようという話もあった。
その話の続きかと思い呼び出されていくと、別れ話をされたのだ。
「本当にごめん」
開口一番に謝った時点で嫌な予感はしていた。
研究室で徹夜してデートをすっぽかしたときも、クリスマスにプレゼントしたお揃いのマグカップを割った時も、いつもなにかしでかしたときは必ず気まずそうに天気の話から始めていたから。
「なにがあったの?」
「結論から言うと別れてほしい」
ふざけんな。そこで結論から言うやつがいるかよ。
普通はクッション入れるだろ。ふかふかのやつ用意しとけよ。
「嫌だよ!どうして?」
「俺が悪いんだ」
「どういうこと?」

「俺が浮気しちゃって…」
しちゃったって何?なに意図せずそうなっちゃいましたみたいな、そうせざるを得なかったみたいな言い方してんだ?
「浮気?5年半も付き合っといて今さら!?ついこの前だって同棲しようって話してたじゃん。どういう気持ちで言ってたの?いつからよ!」
「5年前から…」
思わず思考が停止する。
真面目な人だと思っていた。不器用で研究一筋で、愛情表現だって下手くそで…
5年前から浮気していた?ずっと騙されていたの?なんでそんなことしたの?私のこと嫌いだったの?なんで気付かなかったんだろう。私の何がダメだったのかな。どうして。
「分かった。別れよう」
もうここまで来たら泣こうが喚こうが、結果は変わらないだろう。
こんなゴミもういらない。

幸いなことに家の中に彼との思い出は少なかった。いつも誕生日や記念日は高級お菓子や入浴剤とか消えものをもらっていたから。
センスがないからアクセサリーとかは分からないんだよって言ってたけど、もしかしたら二股の証拠が残らないようにしていたのかもしれない。
もしかしたら徹夜してデートですっぽかした時だって浮気相手と一緒にいたのかもしれない。
お揃いのマグカップを割ったのだって、そういう理由かもしれない。
疑い始めると全てが怪しい。
しかし割れた皿をそのままにするのはまずいだろう。
せっかくなのでシンクの食器に洗剤をぶっかけて洗いながら探すことにした。
およそ1週間分の食器とゴミ。梅雨のせいで香ばしい匂いを発しているものもある。
見つけた。白い陶器のかけら。
引っ張り出すと取っ手の取れたクリスマスのマグカップだった。

6/16/2025, 12:30:43 PM