香草

Open App
5/9/2025, 4:09:52 PM

「届かない……」

真夜中の学校は怖いというより寒い。人気がないし電気も最低限しかついていない。暖房なんて入っているわけがない。
「俺のそばを離れるなよ」
まるで姫を守る無骨なナイトのようなセリフを吐いて、顧問は顔を赤くした。
「いや、危ないから…」
私たちのからかうような視線にゴニョゴニョと言い訳をする。
一年に一度の天文部の合宿。
部室と呼んでいる物置から望遠鏡を引っ張り出してきて、特別に開けられた屋上に設置し夜空を観察する。
私はこの合宿にロマンチックな期待を抱いていた。

「あ、レンズが足りないや」
望遠鏡を組み立てていた先輩がつぶやいた。
私は大袈裟に「え!?」と反応してケースを覗き込んだ。不自然な動きなのは理解しつつも先輩に肌を近づける。望遠鏡は2つある。そのうちの1つのレンズケースを部室に忘れたらしい。
「俺取ってくるよ」
先輩が立ち上がると少しだけ気温が下がった。
「危ないんで私も行きます!」
私は懐中電灯を取ると先輩の後を追いかけた。
顧問はもう一つの望遠鏡を組み立てていてこちらを見ていなかった。
ちょうどいい。2人きりになれるチャンスだ。

可愛い女の子に生まれることはできなかった。顔も性格も。こんな夜の学校で「キャー!怖い!」って先輩の腕に絡みつけたらどんなに良かっただろう。私にはその勇気も可愛げもない。
私たちは無言で階段を降りていった。
先輩は何も話さない。もしかしたら迷惑だったのかもしれないな。私と一緒にいたくないのかも。
暗いのをいいことにちらっと先輩を見上げる。
入学式の部活紹介で私は先輩に一目惚れをした。
理知的で鋭い目。それを隠すような分厚いメガネと重い前髪。ヒョロリと高い身長と長い足。寡黙そうでありながらどこか柔らかさを感じる話し方。
その姿を見て私は天文部に入ることを決めた。
しかし天文部の活動は少ない。先輩と仲良くなれるチャンスはなかなか来なかった。
だからこの合宿をずっと楽しみにしていたのだ。

「あれえ、ないねえ」
先輩は懐中電灯を片手に棚を開けた。独り言のように囁くもんだから私は反応していいのか分からなかった。とりあえず私も辺りを見回す。
しかし電気も点かないし、何より天文部以外の備品も多くあるので見つかる気がしない。先輩は無言で辺りを探し続けている。私は先輩の懐中電灯を見つめた。
その懐中電灯がこちらを向くことはない。すぐそばにいるのに先輩の視界には私は入らない。もっと私が可愛ければ。スタイルが良ければ。少しでもこちらを見てくれたんじゃないか。
急に涙が込み上げそうになって天井を見上げた。すると黒いケースが棚の端から顔を出している。あった。
私は手を伸ばした。届かない。息を詰めて必死に手を伸ばす。すると後ろからひょいと手が伸びてきてケースを取り出した。
「あ、これだあ。ありがとねえ」
先輩の目がこちらを向いた。
私の懐中電灯が先輩を、先輩の懐中電灯が私を照らしす。
届かないけど見ていたい。そんな星のような瞳だった。


5/8/2025, 11:10:30 AM

「木漏れ日」

まず、会社のデスクに着いたらパソコンの電源を入れる。新聞を読みながらコーヒーを飲んでいる課長に挨拶をして、休憩室のカップ式自販機の60円コーヒーのボタンを押す。機械の腹を通って出てきたコーヒーを啜りながら席に戻ると、パソコンが立ち上がっているので、メールをチェックする。
取引先からメールが返ってきている。今月末までに契約書を回さないといけないので、そこから逆算して取引先へ依頼を出す。
次に先月行った出張費用の精算をしなければいけない。これも経理から催促が来ていたので早く申請しなければ。
人事からのメール?あ、今日の午後、採用面接の面接官をお願いされていたっけ。そういえば先週言われたなあ。あの人事担当いつも急に依頼してくるから忘れがちなんだよな。今のうちに候補者の資料を読み込んでおかなければ。

履歴書のファイルを開く。
候補者は25歳。ちょうど社会人3年目で転職するのか。
最近はすぐに転職する若者が多いなあ。そういえばこの前大学を卒業した甥っ子も会社員に絶望して転職活動を始めたなあ。
俺は淡々と面接で聞きたい質問をメモに書き起こしていく。
確かに会社員は学生に比べたら自由も少なくて、理不尽なことも多い。俺も新入社員の頃は毎日ヘトヘトで死んだような顔をしていた気がする。こんな生活が一生続くのかと絶望していた。
でもいつしか諦めて受け入れていくうちにプロの会社員になれた気がする。
とにかく無になるのだ。感情を動かさず、ただひたすらに与えられた仕事をこなす。
これが会社員の流儀だ。

こんな話を甥っ子にするとさらに絶望した顔をしていたっけ。
「そんなの人間じゃないじゃん」
言いたいことは分かる。感情を殺して動くのは機械同然だ。俺もドリップ式自販機と同じようなもんだ。
コーヒーを啜った。少し冷めてしまっている。
俺は履歴書に目を戻した。証明写真からはまだあどけない感じがする。彼も前の会社に絶望したのだろうか。
画面端にポコンと、チャットの通知が顔を出した。
人事担当だ。今日の面接のことだろうか。もしかして午前だったか?時間間違えた?
急いでチャット欄を開く。
「直前のお願いを引き受けていただきありがとうございます。いつもご迷惑をおかけして恐縮ですが、よろしくお願いします。」
胸を撫で下ろした。よかった。やらかしたかと思ったぜ。そんなことでチャットしなくていいのに。
チャット欄を閉じようとすると、続けてぴょこんと送られてきた。

ツインテールの女の子が激しくオタ芸をしているGIF画像。その上にありがとう、と文字が書かれている。
俺は思わずプッと吹き出した。
顔も合わせたこともない、たいして話したこともないビジネスの関係でありながら、こんな面白いものを送りつけてくるなんて。
というかどこから拾ってきたこの画像。
俺は笑いを堪えきれず息を漏らした。上司が新聞紙ごしに怪訝な目で見てくる。
会社員は機械のように無で仕事をこなすのが流儀だ。お日様が昇って落ちて、昇って落ちてその繰り返し。
いつのまにか日光に気づかないまま歩くようになる。
しかしたまにこんな風に不意打ちで面白いことが起きる日もある。
俺はそんな日のことを"木漏れ日"と呼んでいる。


5/7/2025, 4:27:11 PM

「ラブソング」

"カタオモイ"

ギターの弦を張る。
向かい合わせに座っている彼女は眉間にしわを寄せて、分厚い本を読んでいる。彼女の読書の邪魔にならないよう、5月のジリジリとした日差しを僕の背中が受け止める。
弦をそっと掻き撫でた。穏やかな音が静寂を揺らす。
春は名曲が多い。出会いと別れの季節だからかもしれない。人の感情が一番揺れ動くから。
僕は春の曲をひとつひとつなぞるようにかき鳴らしていった。桜はとうに散ったのにギターの音がまるで花びらのように舞う。
僕は彼女の顔をじっと見つめた。眉間のしわをそのままに口角にもしわを寄せた。
結婚してもう30年がすぎた。
お互いしわが目立つ歳になったのだ。
狭いライブハウスで声を張り上げていた僕もいつのまにか高い声も出なくなって拍手や歓声から程遠いところまで来てしまった。

あの頃は若かった。僕は早く売れたくていつも焦燥感を感じていた。毎日ライブをして声も思うように出せなくなるほど。一定のファンはいたが、メジャーデビューできるほどの力はなかった。
いつまでも夢を追っていられないとバンドのメンバーが一人二人と抜けてしまった。
ライブができなくなった僕に残されたのは彼女しかいなかった。
高校生の頃からずっとそばで応援してくれていた彼女は僕を見捨てずに寄り添い続けてくれた。
半ば諦念のようなものはあったのかもしれない。早く定職に就けと小言を言われていたから。
その言葉通り、結局小さな不動産の会社に就職し、定年まで勤めあげたわけだが。

僕らは子どもを作らなかった。
ある時彼女が泣きながら家に帰ってきた。
「子ども産めないかもしれない」
僕は激しくしゃくりあげる肩を抱いてつぶやいた。
「僕は君にずっと片思いしてるようなもんだからね。それでいいのかもしれない」
彼女は昔から僕の憧れの存在だった。頭も良くて友達や家族からも愛されていて、決して僕の手で汚してはいけない存在だった。
だから僕らは子どもを作らなかった。
彼女は死んでしまうんじゃないかと思うほど落ち込んで、僕に新しいパートナーを見つけるように促した。そうやって言われるたびに僕は泣いた。
「僕のそばを離れないでよ」
そして彼女は困ったように笑って「小さな子みたいね」と泣くのだ。

「…ラブソングばかりね」
ふと彼女がつぶやいた。目線は本に向けたまま、耳はこちらを向けているらしい。
「春だからね」
僕は彼女のしわを見つめながらつぶやく。
「春ももう終わりよ」
僕は背中の暑い日差しを感じながら頷く。
春は恋の曲が多い。出会いと別れの季節だからかもしれない。
「みんな似たような歌詞ばかりね」
彼女の頭の中にはそれぞれのラブソングの歌詞が浮かんでるようだった。
「お似合いの言葉が見つからないんだよ。きっと」
今の僕がそうだからね。









5/5/2025, 3:39:15 PM

「手紙を開くと」

久しぶりに見た彼女は相変わらず美しかった。腰まであった黒光りするほど綺麗な髪は茶色に染まって肩のところで切られていた。ピンク色のシャツと薄いジーンズはまさに春らしい。そこはかとなくきらめく目元とじゅわっと赤らんだ頬は彼女が大人になったことを示している。
「これで全員集まった?」
幹事の男が呼びかける。招待状に名前が書いてあった気がするが忘れた。20年前に卒業した小学校の校門前には総勢20人ほどの大人が集まっている。小洒落た雰囲気の奴、太ったやつに逆に痩せた奴。みんな人生に満足したから、思い出を掘り返しにきましたというように見える。
後ろからヒソヒソ声が聞こえる。
「ねえ、あのイケメン誰だっけ…?」
「確か、不登校だった人だと思うけど。マドンナとなんかあったはず…」
「えーマドンナ、あんなイケメンフったの?」

おそらく僕のことだろう。
マドンナ…。春の妖精のような彼女。
僕のことを覚えているだろうか。
「おーい!あったぞ!」
掘り返し担当の男たちが手を振って呼びかける。僕はワラワラと駆け寄る集団に遅れてついて行った。
タイムカプセルは土に塗れていたが、しっかりと思い出を想起させた。保健室の先生に促されてクラスのみんなが帰った後に箱に入れた記憶。
だから一番上にあった手紙は僕の物だ。
「お前のだろう?」
幹事の男が手渡ししてくれた。僕は笑顔で手紙を受け取った。
封筒は糊付けされていてずっしりと重い。
べりべりと封を剥がすと少しだけアルコールの匂いがした。

「拝啓、20年後の僕へ。マドンナは今でも綺麗ですか?幸せに暮らしてください。」
2行にも満たない、短いメモ書きが入っていた。
小さくて弱々しい文字。
当時の僕は彼女のことで頭がいっぱいになるほど恋焦がれていた。もちろんマドンナだからライバルは多い。しかし当時はデブで頭も悪かったからなんの勝ち目もない。だから僕は彼女に近づいた。
封筒から黒光りするほど美しい一房の髪が滑り落ちる。
あの頃はこれを手に入れるので精一杯だった。逃げる彼女の顔はとてつもなく可愛らしかった。
20年経った今ならマドンナのすべてを手に入れられる。
僕は彼女にそっと近づいた。
彼女の顔がみるみる引き攣る
「僕のこと覚えてる?」
僕は彼女に見えるように黒髪を揺らした。





5/5/2025, 10:18:16 AM

「すれ違う瞳」

赤信号で止められた横断歩道。
パーソナルスペースが限りなくゼロに近づく電車の車内。
オフィスや店がたくさん入ったビルのエレベーター。
赤の他人と空気という糸で繋げられる瞬間はいくらでもある。目と目が合うこともないが、少しでも変な挙動が行われると痛いほどピンと張り詰められる。
しかしたまにその糸を忘れるほど図太い神経をお持ちの方もいる。
私は少し座り直すふりをして隣のサラリーマンの頭を押しのけた。夕方を少しすぎたこの時間の電車は同じような服装の人間ばかり乗ってくる。久しぶりの外出だからとウキウキで着てきた空色のカーディガンが明らかに浮いている。
疲れ切った顔を見ているとこちらもなんだか気分が落ち込んでくる。

対面に座っている中年男性と目が合ってしまった。
明らかに不機嫌そうな顔をしている。すぐに目を逸らした。あまりジロジロ見ていると危ないという警告が聞こえる。この間だって目が合ったからという理由で殴られた青年のニュースを聞いたばかりだった。今も、空色のカーディガンがムカつくとかいう理由で殴られる可能性は十分ある。隣のサラリーマンがまたもたれかかってきた。
心の中でため息をつく。私も赤の他人に頭を預けられるほど神経が図太ければ良かったのに。
若干禿げかけている頭頂部が気持ち悪くて肩でそっと押し返す。その反動で禿頭が肩から胸の方にずれ落ちてしまった。どう考えても迷惑だ。しかし思い切って起こして指摘するのも逆ギレされそうで怖い。
席を移動するか、と腰を浮かそうとした瞬間対面の男性が立ち上がった。

「おい、お前」
男性は私の前に立ちはだかるとドスの利いた声を出した。その気迫が怖すぎて喉から息が漏れる。口が乾いて返事もできない。できるだけ目を合わせないように男性の革靴を見つめる。ピカピカに磨き上げられていて冷静に感心してしまう。
「お前だよ」
周囲の空気がピンと張り詰めていて肌が痛い。車内の注意がすべてこちらに集中しているのが分かる。
今すぐ消えてなくなりたい。空色のカーディガンなんて着てこなければ良かった。
「聞こえてんだろ。お前だよ。寝たふりして女性に触れるんじゃねえよ」

隣のサラリーマンがゆっくりと頭を持ち上げた。
肩は軽くなったものの油ぎった温もりが残っている。
「私ですか?すみません。寝てただけなんですけど」
ハゲサラリーマンは憤慨するでもなく怒鳴るわけでもなく丁寧な声で反論した。
「いやお前が頭押されるたびに目開けてたの知ってんだよ。揺れに合わせてもたれかかるタイミング覗ってただろ」
男性は負けじと大きな声をあげる。
ハゲサラリーマンは相変わらず寝てただけだ、と穏やかな声で主張する。知らない人が見たらどう見ても立ちはだかる男性が悪いように見える。
しかしハゲサラリーマンがこちらを全く見ないことから私にはどちらが正しいかはっきりと分かっていた。
電車が止まった。いつのまにか駅に着いたようだった。張り詰められた空気から逃げるようにたくさんの人が降りていく。私も男性の脇をすり抜けて降りた。
自分が痴漢のターゲットになった事実と注目されているという状況に耐えられなかった。
男性とは一度も目を合わせることができなかった。









Next