香草

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「すれ違う瞳」

赤信号で止められた横断歩道。
パーソナルスペースが限りなくゼロに近づく電車の車内。
オフィスや店がたくさん入ったビルのエレベーター。
赤の他人と空気という糸で繋げられる瞬間はいくらでもある。目と目が合うこともないが、少しでも変な挙動が行われると痛いほどピンと張り詰められる。
しかしたまにその糸を忘れるほど図太い神経をお持ちの方もいる。
私は少し座り直すふりをして隣のサラリーマンの頭を押しのけた。夕方を少しすぎたこの時間の電車は同じような服装の人間ばかり乗ってくる。久しぶりの外出だからとウキウキで着てきた空色のカーディガンが明らかに浮いている。
疲れ切った顔を見ているとこちらもなんだか気分が落ち込んでくる。

対面に座っている中年男性と目が合ってしまった。
明らかに不機嫌そうな顔をしている。すぐに目を逸らした。あまりジロジロ見ていると危ないという警告が聞こえる。この間だって目が合ったからという理由で殴られた青年のニュースを聞いたばかりだった。今も、空色のカーディガンがムカつくとかいう理由で殴られる可能性は十分ある。隣のサラリーマンがまたもたれかかってきた。
心の中でため息をつく。私も赤の他人に頭を預けられるほど神経が図太ければ良かったのに。
若干禿げかけている頭頂部が気持ち悪くて肩でそっと押し返す。その反動で禿頭が肩から胸の方にずれ落ちてしまった。どう考えても迷惑だ。しかし思い切って起こして指摘するのも逆ギレされそうで怖い。
席を移動するか、と腰を浮かそうとした瞬間対面の男性が立ち上がった。

「おい、お前」
男性は私の前に立ちはだかるとドスの利いた声を出した。その気迫が怖すぎて喉から息が漏れる。口が乾いて返事もできない。できるだけ目を合わせないように男性の革靴を見つめる。ピカピカに磨き上げられていて冷静に感心してしまう。
「お前だよ」
周囲の空気がピンと張り詰めていて肌が痛い。車内の注意がすべてこちらに集中しているのが分かる。
今すぐ消えてなくなりたい。空色のカーディガンなんて着てこなければ良かった。
「聞こえてんだろ。お前だよ。寝たふりして女性に触れるんじゃねえよ」

隣のサラリーマンがゆっくりと頭を持ち上げた。
肩は軽くなったものの油ぎった温もりが残っている。
「私ですか?すみません。寝てただけなんですけど」
ハゲサラリーマンは憤慨するでもなく怒鳴るわけでもなく丁寧な声で反論した。
「いやお前が頭押されるたびに目開けてたの知ってんだよ。揺れに合わせてもたれかかるタイミング覗ってただろ」
男性は負けじと大きな声をあげる。
ハゲサラリーマンは相変わらず寝てただけだ、と穏やかな声で主張する。知らない人が見たらどう見ても立ちはだかる男性が悪いように見える。
しかしハゲサラリーマンがこちらを全く見ないことから私にはどちらが正しいかはっきりと分かっていた。
電車が止まった。いつのまにか駅に着いたようだった。張り詰められた空気から逃げるようにたくさんの人が降りていく。私も男性の脇をすり抜けて降りた。
自分が痴漢のターゲットになった事実と注目されているという状況に耐えられなかった。
男性とは一度も目を合わせることができなかった。









5/5/2025, 10:18:16 AM