香草

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「ラブソング」

"カタオモイ"

ギターの弦を張る。
向かい合わせに座っている彼女は眉間にしわを寄せて、分厚い本を読んでいる。彼女の読書の邪魔にならないよう、5月のジリジリとした日差しを僕の背中が受け止める。
弦をそっと掻き撫でた。穏やかな音が静寂を揺らす。
春は名曲が多い。出会いと別れの季節だからかもしれない。人の感情が一番揺れ動くから。
僕は春の曲をひとつひとつなぞるようにかき鳴らしていった。桜はとうに散ったのにギターの音がまるで花びらのように舞う。
僕は彼女の顔をじっと見つめた。眉間のしわをそのままに口角にもしわを寄せた。
結婚してもう30年がすぎた。
お互いしわが目立つ歳になったのだ。
狭いライブハウスで声を張り上げていた僕もいつのまにか高い声も出なくなって拍手や歓声から程遠いところまで来てしまった。

あの頃は若かった。僕は早く売れたくていつも焦燥感を感じていた。毎日ライブをして声も思うように出せなくなるほど。一定のファンはいたが、メジャーデビューできるほどの力はなかった。
いつまでも夢を追っていられないとバンドのメンバーが一人二人と抜けてしまった。
ライブができなくなった僕に残されたのは彼女しかいなかった。
高校生の頃からずっとそばで応援してくれていた彼女は僕を見捨てずに寄り添い続けてくれた。
半ば諦念のようなものはあったのかもしれない。早く定職に就けと小言を言われていたから。
その言葉通り、結局小さな不動産の会社に就職し、定年まで勤めあげたわけだが。

僕らは子どもを作らなかった。
ある時彼女が泣きながら家に帰ってきた。
「子ども産めないかもしれない」
僕は激しくしゃくりあげる肩を抱いてつぶやいた。
「僕は君にずっと片思いしてるようなもんだからね。それでいいのかもしれない」
彼女は昔から僕の憧れの存在だった。頭も良くて友達や家族からも愛されていて、決して僕の手で汚してはいけない存在だった。
だから僕らは子どもを作らなかった。
彼女は死んでしまうんじゃないかと思うほど落ち込んで、僕に新しいパートナーを見つけるように促した。そうやって言われるたびに僕は泣いた。
「僕のそばを離れないでよ」
そして彼女は困ったように笑って「小さな子みたいね」と泣くのだ。

「…ラブソングばかりね」
ふと彼女がつぶやいた。目線は本に向けたまま、耳はこちらを向けているらしい。
「春だからね」
僕は彼女のしわを見つめながらつぶやく。
「春ももう終わりよ」
僕は背中の暑い日差しを感じながら頷く。
春は恋の曲が多い。出会いと別れの季節だからかもしれない。
「みんな似たような歌詞ばかりね」
彼女の頭の中にはそれぞれのラブソングの歌詞が浮かんでるようだった。
「お似合いの言葉が見つからないんだよ。きっと」
今の僕がそうだからね。









5/7/2025, 4:27:11 PM