香草

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「木漏れ日」

まず、会社のデスクに着いたらパソコンの電源を入れる。新聞を読みながらコーヒーを飲んでいる課長に挨拶をして、休憩室のカップ式自販機の60円コーヒーのボタンを押す。機械の腹を通って出てきたコーヒーを啜りながら席に戻ると、パソコンが立ち上がっているので、メールをチェックする。
取引先からメールが返ってきている。今月末までに契約書を回さないといけないので、そこから逆算して取引先へ依頼を出す。
次に先月行った出張費用の精算をしなければいけない。これも経理から催促が来ていたので早く申請しなければ。
人事からのメール?あ、今日の午後、採用面接の面接官をお願いされていたっけ。そういえば先週言われたなあ。あの人事担当いつも急に依頼してくるから忘れがちなんだよな。今のうちに候補者の資料を読み込んでおかなければ。

履歴書のファイルを開く。
候補者は25歳。ちょうど社会人3年目で転職するのか。
最近はすぐに転職する若者が多いなあ。そういえばこの前大学を卒業した甥っ子も会社員に絶望して転職活動を始めたなあ。
俺は淡々と面接で聞きたい質問をメモに書き起こしていく。
確かに会社員は学生に比べたら自由も少なくて、理不尽なことも多い。俺も新入社員の頃は毎日ヘトヘトで死んだような顔をしていた気がする。こんな生活が一生続くのかと絶望していた。
でもいつしか諦めて受け入れていくうちにプロの会社員になれた気がする。
とにかく無になるのだ。感情を動かさず、ただひたすらに与えられた仕事をこなす。
これが会社員の流儀だ。

こんな話を甥っ子にするとさらに絶望した顔をしていたっけ。
「そんなの人間じゃないじゃん」
言いたいことは分かる。感情を殺して動くのは機械同然だ。俺もドリップ式自販機と同じようなもんだ。
コーヒーを啜った。少し冷めてしまっている。
俺は履歴書に目を戻した。証明写真からはまだあどけない感じがする。彼も前の会社に絶望したのだろうか。
画面端にポコンと、チャットの通知が顔を出した。
人事担当だ。今日の面接のことだろうか。もしかして午前だったか?時間間違えた?
急いでチャット欄を開く。
「直前のお願いを引き受けていただきありがとうございます。いつもご迷惑をおかけして恐縮ですが、よろしくお願いします。」
胸を撫で下ろした。よかった。やらかしたかと思ったぜ。そんなことでチャットしなくていいのに。
チャット欄を閉じようとすると、続けてぴょこんと送られてきた。

ツインテールの女の子が激しくオタ芸をしているGIF画像。その上にありがとう、と文字が書かれている。
俺は思わずプッと吹き出した。
顔も合わせたこともない、たいして話したこともないビジネスの関係でありながら、こんな面白いものを送りつけてくるなんて。
というかどこから拾ってきたこの画像。
俺は笑いを堪えきれず息を漏らした。上司が新聞紙ごしに怪訝な目で見てくる。
会社員は機械のように無で仕事をこなすのが流儀だ。お日様が昇って落ちて、昇って落ちてその繰り返し。
いつのまにか日光に気づかないまま歩くようになる。
しかしたまにこんな風に不意打ちで面白いことが起きる日もある。
俺はそんな日のことを"木漏れ日"と呼んでいる。


5/8/2025, 11:10:30 AM