「青い青い」
ジメジメと空気がいつもの3倍重くて、蝉の声が鬱陶しさ5倍増しで夏を盛り上げる。
世界のどこにいても暑い。冷蔵庫に顔を突っ込んでも暑い。暑いからじっとしているのに、汗がじわっと染み出して、髪の毛やら服やらが肌に張り付く。
デフォルトで頭の血管がプッチンしそうになるこの季節は私の数少ない嫌いなものの一つだ。
私は畳の上で大の字になって、通り過ぎる風を待った。たとえ熱風だったとしても多少は涼しい。
夏休みの日中は大体こんな風にして過ごす。畳の上でゴロゴロ。家主である両親が暑さに我慢できなくなったら冷房の下でゴロゴロ。
こんな暑い日は活動してはいけない。
2階からバタバタと、足音がして「お母さーん!」と呼ぶ声がした。
母親は新聞を読むふりをして無視をした。
するとリビングのドアからひょっこりと坊主頭のチビの弟が顔を出した。
「お母さんてば!」
蝉にも負けないように大声を出してるのか、暑さが7倍増しになった気がする。
母親は若干めんどくさそうに「何?」と振り返った。
「海行こうよ!」
夏休みが始まってから連日連夜この言葉を繰り返している。
もはや誰も彼を説得しようとしない。
私の家族は一人を除いて全員インドアだ。夏の活動量は極端に減る。それを海に連れて行こうものなら家族の3/4がデロデロに溶けてしまう。
「悪いけど無理だって話したよね?人も多いし、あんたそもそも泳げないじゃないのよ」
母は半ば諦めたように諭した。これも連日連夜繰り返している。
「いやいや!夏だよ!青い空ときたら青い海!行きたい!行きたい!」
暑さが10倍増しになる。
青い青いってうるさいケツの青いガキんちょが。
私はバレないようにそっと自分の部屋に戻ろうととした。巻き込まれたらたまったもんじゃない。
しかしちょうどリビングから出るところで母親に見つかってしまった。
「お姉ちゃんに連れて行ってもらったら?暇でしょ?」
母親がいいカモを見つけたと言わんばかりの笑みでこちらを見た。
つられて弟がキラキラとした目でこちらを見つめる。
ヤツの青いTシャツには"BLUE SEA"とでっかくプリントされた文字が並んでいる。
私はため息をついて、自分の部屋に逃げ込んだ。
「お姉ちゃん♡」
猫撫で声がドアの外から聞こえてくる。
背中に冷や汗が流れた。
先ほどまでの暑さが嘘のようだ。
「sweet memories」
目が覚めると太陽はすでに見えない位置まで昇っていて黄色じみた光が窓から差し込んでいた。
いつもより寝覚めの悪い頭をぶら下げてトイレによろよろと駆け込む。
ここでもオレンジじみた照明に照らされながらぼんやりと昨日のことを思い出す。
「今日は華金だぞ!」という上司の鶴の一声で飲み会が決まった。一番若手だからとか言う令和にそぐわない理由で、強制的に店探しを頼まれて予約し、およそ10人ほどで宴会が始まった。最初は自部署だけの飲み会だと思っていたが、数人他部署の人も混じっていたらしい。私は飲みやすいとお勧めされて梅酒ばかり注文していた。
頭が痛い。正直何を話したのか覚えていない。
例の流行病で大学でもあまり飲み会をしてこなかったし、そもそもアルコールに強い遺伝子は組み込まれていない。
私は重たい頭を持ち上げてキッチンへ向かった。
血液が下に流れていって顔が冷たい。
500ミリの計量カップに水道を思いっきり捻って飲み干した。体がスポンジになったみたく、まだ喉が渇いた。私はもう一度500ミリを飲み干した。
ベッドに倒れ込み、目を閉じると脈拍のリズムに合わせて頭の中で誰かがデスドラムを演奏している。
気を逸らそうと昨日の続きを思い出す。
何を話したのかはさっぱり覚えていないが、これまでの人生であまり登場してこなかった飲み会だから新鮮で楽しかったのは覚えている。
そういえば隣の部署の若手くんも来ていたな。確か、同い年ということが発覚して驚いたのを覚えている。
新卒で入社した私と違って彼は中途採用で入社した。爽やかな雰囲気で、初めて見かけた時から仕事ができそうなオーラが漂っていて密かに憧れていたのだ。
お腹がぎゅるると鳴った。脳みそが糖分をご所望だと暴れている。
私はまたキッチンに行ってチョコレート、クッキー、マシュマロ、シュークリームを取ってきた。
まずはシュークリームにかぶりつく。ホイップのふわふわな口溶けととろけるような甘さが脳みそに染み渡る。デスドラムの演奏が少し弱くなった気がする。
次にチョコレート。先ほどのホイップでとろけてしまった舌がビターな口当たりで輪郭を取り戻す。じわじわと甘さが溶け出すとうっとりと口が動く。
そしてクッキー。サクと歯を立てるとほろっと口の中で崩れた。小麦の香りが鼻に抜けて砂糖の香りが口の中に充満する。
最後にマシュマロ。シュワっむちっと噛みちぎるとホイップのような、砂糖のような甘さが転がってくる。
脳みそではなく体に染み渡る甘さだ。
いつのまにかデスドラムは消えていた。
燃えるように喉が渇くのでまた500ミリを飲んだ。
窓から差し込む光がオレンジがかっている。
頭の神経がようやくつながってきた気がする。
私はようやくスマホという存在を思い出した。先輩からたくさん心配の連絡が来ている。
やはり昨日の私はベロベロに酔っ払っていたらしい。
早く返信しなきゃと画面をタップしようとしたとき、知らない名前を見つけた。
「無事に帰れた?同い年って知ってびっくりした笑
もっと2人で話したいんだけど、空いてる日ないかな?」
スマホが滑り落ちそうになる。なぜか慌てて画面を消す。お腹の底から頭のてっぺんまで嬉しさが込み上げてくる。たった一つのメッセージでスイーツを食べたときよりも脳みそが甘くとろけた。
「風と」
あれは春の風が潤い始めた頃、知り合って1ヶ月ほど経った友人と廊下を歩いていた時だった。
教室の入り口でさざめくような笑い声が聞こえて振り返った。金色のヘアピンがきらりと光って僕の目を離さなかった。
「あの子誰?」
友人はぼんやりと振り返るとややあって答えた。
「あー誰だっけ。風…かぜ…。確か名前に風がつく。ちょっと覚えてないわ」
それもそうだ。入学してまだ1ヶ月、ようやくクラスメイトの名前を覚えたところで、違うクラスの人の名前なんて分からない。
少し逆光になっているからだろう。彼女の周りがきらめいて見えた。
それ以来僕はその廊下を通るたび、彼女の教室を横目で覗くことが多くなった。
彼女と初めて言葉を交わしたのはある夏の日。体育祭の準備として大規模な校庭の掃除を任された僕は、同じく掃除を任された彼女と運良く同じグループになれた。
このチャンスを逃すまいと僕は彼女との会話を途切れさせないように必死だった。校庭の脇に生えている桜の下で、なぜ桜に毛虫が多くつくのか、なぜ校庭には桜がよく植えられているのかなど僕の持ちうる雑学知識を総動員した。今考えたらもっとロマンチックな話題があっただろ、と思うが、それでも彼女は明るく爽やかに笑ってくれた。
それがきっかけで彼女と付き合うことになった。僕らは若かった。止まることを知らなかった。デートで待ち合わせ時間に遅れただの、記念日にバイトを入れてしまっただの、小さな喧嘩を絶えなかったが、離れることはありえなかった。まるで風によって水の流れが早くなるように、僕らの人生は過ぎていった。
就活を機に僕らは離れることになった。僕は刺激を求めて上京し、彼女は安定のために地元の企業に就職した。若手のうちから成果を上げて早く結婚するぞ、という勢いと若さだけを引っ提げていったものの、東京の時間の流れは嵐のように早く激しかった。自分でも気付かぬうちに心が澱む。遅くまでの残業、上司からのチクチクした小言、顧客からの無理難題。知らず知らずのうちに心の中に泥が溜まり、清流のように純粋で恐れ知らずだった僕は澱んでしまった。
しかし水は風が吹くから流れる。僕の人生が止まらなかったのは彼女がいたからだ。
「桜が咲いたよ。毛虫の話覚えてる?」「今年初めて蝉が鳴いたよ。3年前にいったプールだけど…」「新しいカフェができたの!今度帰ってきたら一緒に行こうね」「初雪だよ。今度いつ帰ってくる?」
僕が返信をしなくなっても彼女は静かに僕の心に風を送り続けた。どこか不安そうに、でも僕に寄り添うように。
このままでは彼女にも申し訳ないと、地元に戻ることを決意した。
長い長い一日だった。夜明けに駅のベンチで迎え、その次の夜明けを彼女の隣で迎えた。
「おかえり」と甘い囁きが聞こえて、夢なのか昼なのか分からないまま彼女の目蓋にキスを落とした。
久しぶりに会う彼女の髪は長かった。窓から潤んだ風が入ってきて黒髪を揺らす。
「待たせてごめん」
風と水は寄り添いながら海へと溶け込んだ。
「好きになれない、嫌いになれない」
兄貴が帰ったときはすぐに分かる。玄関の外からバタバタと走る音が聞こえてくるからだ。そして小学生のようにドアを思いきっきり開けて「ただいまー!!」と叫ぶ。
10分早く帰宅してるからいつもその声に驚いて、集中力が途切れる。受験生の妹がいるの分かってんのか?
そして学ランを自分の部屋にほっぽり投げてそのままバイトに行く。まじでうるさい。
バタバタと家を荒らして出ていく様子はさながら台風のフー子。
兄貴は常に誰かと遊びに行っているかバイトに行ったりしていた。
両親も、兄貴の性格には諦めているようで「あの子はジャングルでもサバンナでも生きていける」と死んだ目で言っていた。
声もでかいし、無駄に運動神経がいいから、ワニでもライオンでも威嚇して逃げ伸びることはできるだろう。なんなら捕まえて夕飯のおかずに持って帰ってきそうだ。
対して私は友達も少なくおとなしい性格だった。兄が外で暴れ回っている間、私は学校や図書館にこもって本を読んだり勉強したりした。初めて学校のテストで100点を取って帰ってきた時は、「初めて見た…」と両親を感動させた。
真反対な性格の故か、一緒に過ごす時間が少なかった故か、正直兄のことは苦手だった。
だってどう考えてもライオンに勝てそうな脳筋野郎なんて理解の範疇を超えてる。
両親が遠縁の親戚の法事に行って不在にしていた日だった。
両親は夜遅くまで帰ってこないと言われていたし、兄貴もいつも通りバイトか、友達と遊びに行っているから夕食は一人で食べて寝る準備を済ました。
一人暮らしをするとこんな感じかなあ、と呑気に考えて、シンとした家の静けさが少し怖くてテレビをつけながらうとうとしていた。気付けば23時。いつもの寝る時間を過ぎてしまっている!
自分の部屋に行こうとリビングのドアを開けた。ヌッと兄貴の顔が出てきて硬直する。「ピャッ」と点のような叫びの後、兄貴は「なんだお前かい」とホッとした顔で笑った。私は叫ぶなんてみっともないことはしなかったが、静かに心臓をバクつかせていた。
「ちょうどいいや。これ食べようぜ」
兄貴は片手を上げた。手には白い箱がぶら下がっている。
「何それ?」
「え?ケーキだけど。お前誕生日じゃん?」
私の誕生日は明日である。
「誕生日明日なんだけど…」
「いいじゃん。明日俺バイトだから食えねーし」
お前が食いたいだけじゃん。
ほらほらと私を押しのけてリビングに入る。すれ違った兄貴から少しだけ甘い香りがした。
「来年はケーキの代わりにライオンの肉でもお願いしようかな」
私はふざけて兄貴の背中に言った。
「なんでライオンなんだよ?」意味が分からないというようにキッチンに立つ兄貴。少し考え込んで「ワニならワンチャン…?」と呟いた。
「夜が明けた。」
全ての電気を消してベッドに潜りこむ。
真っ暗だ。瞼を閉じているのか開けているのか分からない。豆電球をつけないと眠れない人もいるといるが、僕の場合はうっすらと視界に入るモノが眠りを妨げる。
研ぎ澄まされる感覚の中で、ひんやりとした布団に体を縮こまらせて耐える。少し震えていると冷たさがそれほど気にならなくなる。
人生もこんなものか。
新しい環境に飛び込みもうすぐ1ヶ月になる。
学生の頃のように気心が知れた仲間と馬鹿なことをして笑っていた時から、ビジネスという計りかねる距離感で責任を果たさないといけなくなった。
最初こそ戸惑ったものの今では自分の性格も受け入れてもらえてる気がする。
今日だって、いつも通り会議の議事録を取るだけの仕事だったが、部長に声をかけてもらった。
「君最近入った若手だよね。議事録取ってるの?」
部長は忙しい人でなかなかオフィスでは見かけない。今日は珍しく会議に出席していた。若い頃から苦労してきた叩き上げで仕事は厳しく指摘をするが、話せばただの気のいいおじさんということはなんとなく知っていた。
「はい。自分はこれくらいしかできることがないので、雑用なら任せてください!」
にこにこと答えた。明るくて謙虚なやつと思われただろう。
部長もじっと僕の顔を見て「お、じゃあ雑用のプロとして期待してるよー」と言ってくれた。
ただ少し気になるのが、雑用のプロという言葉だ。やけに棘を感じる言葉だ。一瞬まずいことを言ったのかと思ったが、思い当たる節はない。
…いやもしかして、議事録係を雑用と言ってしまったのがまずかったのか!?
だから雑用のプロなんて言葉をかけられたんじゃ…
僕は焦って寝返りを打った。心臓が大きな音を立て始める。目を開けているのか閉じているのか分からなくなってきた。
いやまさかそんなわけ。議事録はだれでも書けるから何もできない僕でもできる仕事としてやらされているはずだ。
寝返りを打つ。
それに部長の表情は笑っていた気がする!皮肉のつもりではなくて冗談で言っていたはずだ。
寝返りを打つ。
しかし、もし雑用と割り切って仕事するんじゃなくて、そういう細かい仕事から成長しろよという風に思っていたとしたら…
寝返りを打つ。
まあ、明日先輩にそれとなく聞けばいい。先輩だって若手の頃があったんだから。
そんなことよりそろそろ寝ないとまずいのでは。明日も朝早くから仕事がある。
寝返りを打つ。
あれ、待てよ?いつもどんな体勢で寝てたっけ?
寝返りを打つ。
気付けばカーテンから青白い光が漏れ出し、ようやくまぶたが開いていたことに気付いた。