「風と」
あれは春の風が潤い始めた頃、知り合って1ヶ月ほど経った友人と廊下を歩いていた時だった。
教室の入り口でさざめくような笑い声が聞こえて振り返った。金色のヘアピンがきらりと光って僕の目を離さなかった。
「あの子誰?」
友人はぼんやりと振り返るとややあって答えた。
「あー誰だっけ。風…かぜ…。確か名前に風がつく。ちょっと覚えてないわ」
それもそうだ。入学してまだ1ヶ月、ようやくクラスメイトの名前を覚えたところで、違うクラスの人の名前なんて分からない。
少し逆光になっているからだろう。彼女の周りがきらめいて見えた。
それ以来僕はその廊下を通るたび、彼女の教室を横目で覗くことが多くなった。
彼女と初めて言葉を交わしたのはある夏の日。体育祭の準備として大規模な校庭の掃除を任された僕は、同じく掃除を任された彼女と運良く同じグループになれた。
このチャンスを逃すまいと僕は彼女との会話を途切れさせないように必死だった。校庭の脇に生えている桜の下で、なぜ桜に毛虫が多くつくのか、なぜ校庭には桜がよく植えられているのかなど僕の持ちうる雑学知識を総動員した。今考えたらもっとロマンチックな話題があっただろ、と思うが、それでも彼女は明るく爽やかに笑ってくれた。
それがきっかけで彼女と付き合うことになった。僕らは若かった。止まることを知らなかった。デートで待ち合わせ時間に遅れただの、記念日にバイトを入れてしまっただの、小さな喧嘩を絶えなかったが、離れることはありえなかった。まるで風によって水の流れが早くなるように、僕らの人生は過ぎていった。
就活を機に僕らは離れることになった。僕は刺激を求めて上京し、彼女は安定のために地元の企業に就職した。若手のうちから成果を上げて早く結婚するぞ、という勢いと若さだけを引っ提げていったものの、東京の時間の流れは嵐のように早く激しかった。自分でも気付かぬうちに心が澱む。遅くまでの残業、上司からのチクチクした小言、顧客からの無理難題。知らず知らずのうちに心の中に泥が溜まり、清流のように純粋で恐れ知らずだった僕は澱んでしまった。
しかし水は風が吹くから流れる。僕の人生が止まらなかったのは彼女がいたからだ。
「桜が咲いたよ。毛虫の話覚えてる?」「今年初めて蝉が鳴いたよ。3年前にいったプールだけど…」「新しいカフェができたの!今度帰ってきたら一緒に行こうね」「初雪だよ。今度いつ帰ってくる?」
僕が返信をしなくなっても彼女は静かに僕の心に風を送り続けた。どこか不安そうに、でも僕に寄り添うように。
このままでは彼女にも申し訳ないと、地元に戻ることを決意した。
長い長い一日だった。夜明けに駅のベンチで迎え、その次の夜明けを彼女の隣で迎えた。
「おかえり」と甘い囁きが聞こえて、夢なのか昼なのか分からないまま彼女の目蓋にキスを落とした。
久しぶりに会う彼女の髪は長かった。窓から潤んだ風が入ってきて黒髪を揺らす。
「待たせてごめん」
風と水は寄り添いながら海へと溶け込んだ。
5/1/2025, 4:32:43 PM