15のとき、10歳年上の姉に赤ちゃんが生まれた。
暖かな日が差す春の始まりに生まれたその子は、ヒナタと名づけられた。
わたしは、その年のお盆、姉家族が帰省してきたとき、ヒナタと初めて対面した。
姉に抱っこされて車から降りてきたヒナタをおっかなびっくり覗き込んだら、黒目がちな瞳にじーっと見つめられた。わたしはどうしたらいいのかわからなくて、手を振って、とりあえず挨拶をしてみる。
「はじめまして、ヒナタちゃん。きみのお母さんの妹のエミです。よろしくね」
ただ見つめ返されるだけで、反応はなかった。
「ふふ。ふたりとも緊張してておもしろい」
姉が微笑む。
わたしは確かに緊張していた。だって、こんなに小さい子と関わったことなんてないのだもの。
わたしは振ってた手を引っ込めて、ヒナタから離れた。
そんな緊張の初対面を終えたわたしは、それ以降、四六時中、ヒナタが気になって、何かと構いに行った。
次第にきちんと反応してくれるようになって、一緒に遊べるようにもなった。わたしに慣れてきてくれたのかと思うと嬉しかった。
わたしもヒナタもお互いに慣れてきた頃。
「抱っこしてみる?」
姉が言ってくれた。実はずっと抱っこしてみたかったわたしは、うんうん頷いた。姉にやり方をきく。
そうしてわたしは初めて、ヒナタを抱っこした。
思ったより重い。それに、あったかい。胸にじーんとくるものがあった。
「ヒナタ、」
呼びかけてみる。ヒナタは笑って、手足を動かした。
細められた目に、やわらかな光がキラキラ輝いている。
『子宝』なんて言葉があるけれど、確かにこれは宝物だと思った。
この光が、どうかずっと失われませんように。
ヒナタを胸に抱きながら、わたしは祈った。
「人は死んだらどうなると思う?」
予備校の帰り、人気のない路地で、突然きみが立ち止まり、問いかけてくる。
「え、どうなるって……天国に行くんじゃないの?」
唐突な問いに面食らいながら、立ち止まりわたしは答えた。
きみの問いは続く。
「じゃあ、天国ってどこにあると思う?」
「うーん、雲の上……とかかなあ?」
わたしが答える。
「でも、雲の上に天国を見つけた人は誰もいないよ。飛行機とかロケットとか、雲の上を見る手段はいくらでもあるのに」
「た、たしかに。じゃ、どこだろ……?」
わたしはすっかり困ってしまった。
「人はなんで、実在を証明できないものを希望にできるんだろう」
きみが空を見上げて問う。わたしにじゃなく、世界に問うているような響きだった。
「私は、今生きてるこの場所に希望を見て、生きていきたい」
きみが雲の奥を睨んで言った。ひどく鋭い眼差しだった。まるで、世界へ宣戦布告しているようだ。
きみに何があってこんな話になったのか、わたしにはわからない。でも、きっと今この瞬間、これを声にして世界に放つことが、きみにとってすごく重要なことだったことは、何となくわかった。
わたしは静かに頷き、同じように空を見上げてみる。
そこには、灰色の雲が広がっているだけだった。
三連休の最終日。僕は君とふたり、遊園地に来た。
1日過ごして夕方になった頃、僕らは観覧車の列に並んでいた。綺麗な夕日が拝めると、夕方の観覧車はとても人気で、長い列を作っていた。
10分程並んだだろうか。やっと列の先頭へやってきた。
「わー、やっと乗れるね!」
君がはしゃぎなからゴンドラへ乗り込む。頷きながら、僕もそれに続いた。
ゴンドラは高く高く上っていく。
君は外を忙しなく見回して、昼間に乗ったアトラクションを見つけたり、小さくなっていく人の影を見下ろしたり……僕にも指を差して教えてくれる。
僕は君が指差す方を見て相槌を打ちながら、上昇していくときを楽しんだ。
7分ほど経って、ゴンドラはてっぺんへ上ってきた。外からは、強い西日が射し込んでいる。
ソワソワとあちこちを見ていた君が、そちらを向いて夕日に釘付けになっていた。僕もそんな君越しに、燃えるような夕日を見た。
「綺麗な夕日だねえ」目を細めながら君が言う。
「そうだねえ」と、同じ仕草で僕も返す。
たったそれだけのやりとりが、とても心地よかった。
暮れゆく日と共に、ゴンドラは下っていく。
1日の終わりが近づく。今日、君と過ごせる時間もあともう少しだ。とても名残惜しい。
そんなふうに思っていたら、ふいに君が窓の外から視線を外し、こちらを振り向いた。
「また一緒に、観覧車に乗ってくれる?」
薄紅の空を背景に、上目遣いに君が言う。
君も同じ気持ちだったのだろうか。そうだとしたら、とても嬉しい。
「もちろん」
僕が答える。君は顔をほころばせた。
寂しく沈みかけていた僕の心は、君の笑顔で浮上した。
「なんでなんでなんで!」
俺の胸を小さな拳でポカポカと叩きながら、子供のように君が怒る。
「だから。急な仕事が入ったんだって。しょうがないだろ」
1週間後、君と1日過ごす約束をしていた。でも、俺の仕事でだめになってしまった。約束を守れなくなったことは悪いと思ってる。でも、俺だって、好きでそうなったわけじゃない。
「だって、だって、その日は……」
君は拳を下げてうつむく。
「俺の誕生日だろ。わかってる。別にその日じゃなくたって、俺は君が祝ってくれるならちゃんと嬉しいよ」
そう、約束の日は、俺の誕生日だった。君が、どう祝おうかと最近ずっと頭を悩ませ、ワクワクソワソワと楽しみにしていたのは知ってる。俺はずっと、その気持ちが嬉しかった。
「……そういうことじゃないじゃん。バカ。」
拗ねた声で、君が小さく言った。
「うん、ごめん」
俺も小さく返して、君の小さな頭を優しく撫でた。君は俺にされるがまま、黙ってしばらく撫でられていた。
「……こどもっぽいかもしれないけど。わたしが、あなたの大切な日をひとりじめしたかったの」
しばらく経って、顔を上げ、俺を見上げて、君は言った。
いつもより少し、眉が下がっている。
可愛いなあ。俺の頬が自然と緩んだ。
「笑わないでよ、もう!」
君は、自分の言葉を笑われたと思ったのか、プンプンと唇を尖らせた。
それもまた可愛い。
「笑ってないよ」
そう言いながら、尖った唇に優しくキスを落とす。
不意をつかれた君は、目を見開いて、ポッと頬を赤く染めた。
私の小学校には図書館がなかったから、中学に来て図書館があると知ったときはとてもワクワクしたのを覚えている。それから1年と少し経った。放課後に図書館を訪れるのが、私の日課になっていた。
本棚の間を歩く。今日はどの本を借りようか。好きな作家は一通り読み終わって、今は読んだことのないジャンルに挑戦したい気分だった。『ノンフィクション』と書かれた棚をじっくりと眺めて、タイトルに心惹かれた1冊を手に取った。
閲覧席に座り、本を開く。ここは窓に近くて、外の音が聞こえてくる。運動部の掛け声や、吹奏楽部の楽器の音――それらをBGMにして本を読むのが、私は好きだった。
「佐藤さん、もうすぐ閉館の時間よ」
最終章に入ったところで、司書の先生に声を掛けられる。顔を上げ、窓の外を見れば、夕暮れの空が見えた。
あまりに面白くて、時間を忘れていた。
貸出の手続きをして、図書室を出た。
今日はいい本に出会えたな。ルンルン気分で廊下を歩く。
昇降口を出て、沈みゆく日と共に、私は帰路についた。