その夜は暑かった。クーラーをかけたところで寝苦しく、なかなか寝付けない。
タオルケットをクシャクシャにしながら、ゴロゴロと寝返りをうつ。
明日も仕事だ、早く眠らなければ。思えば思うほどに、眠れなくなっていく気がする。
「眠れないなあ……困るなあ……」
現状を口に出したところで、変わるわけもなく。
私は寝ようとすることに疲れて、上体を起こした。
ふと、カーテンの隙間から月明かりが差し込んでいることに気づいた。
何となく心惹かれて、ベッドから立ち上がり、カーテンを少し開けて、夜空を見上げてみる。
そこにはまん丸の月があった。ちょうど雲から出てきたところのようで、濃紺の夜空に白く綺麗に浮かび上がっていた。
私はしばらく、ボーっと月を眺めた。
夜空の中で一番大きく輝いているのに、その光はなんだか優しい感じがする。
眠れなくて焦っていた気持ちが、だんだんと落ち着いていく。
一度大きく深呼吸をして、カーテンを閉め、ベッドに戻った。
カーテンの向こうの月明かりをまぶたの内側に思い出す。
次第に意識はふわふわと曖昧になって、夜に溶けていった。
ピピピピピピピ……
アラームが鳴る。目を開けて起き上がる。
カーテンを開けば、眩しい朝が私を迎えた。
12月下旬。世間はイルミネーションに彩られ、クリスマスに向けて浮かれている、そんな頃。
私は、2年付き合った彼氏と別れた。原因は、相手の浮気。曰く『彼女は俺にいい刺激をたくさんくれる。それに比べて、君は優しすぎてつまらない』とのこと。
優しすぎってなによ。つまらないってなによ。だからって浮気しないでよ。私はどうしたらよかったのよ。
いろいろ悔しくて、一晩泣いた。
泣いた翌日、泣いたからって綺麗さっぱり忘れられるものでもなくて、私はなかなか仕事に身が入らなかった。
そんな状態だったから、ミスを連発した。書類をばらまくわ、消しちゃいけないデータを消しちゃうわ、上司の前ですっ転ぶわ……。我ながらいろいろやらかした。
いろいろありすぎて、悲しくなってトイレで泣いた。
さらには、2年ぶりの恋人のいないクリスマス、好きなだけケーキを食べようと意気込んでいたのに、お腹にくる風邪を引いて、お粥しか食べられなかった。
なんかつらいなあ、って泣いた。
何やかんやあって、年末。
私の家に、父方の叔母家族が帰省してきた。私と同い年の従姉妹も一緒だった。その子が、今度結婚するらしい。家族はみんなその話で盛り上がっていた。相手の男性がどんなに素晴らしい人なのか、今どんなに幸せなのか、さんざん自慢されて、私はもう惨めでしょうがなかった。
私は、その場にいるのがつらくなって、スマホだけ持って近所の小さな公園に逃げ出した。
ベンチに座ってスマホでボーっとSNSを見る。
クリスマスで恋人から素敵なプレゼントをもらった話とか、実家に帰って愛犬と久しぶりに戯れてる写真とか、なんだかみんな幸せそうな投稿が多くて、気持ちが余計に暗くなってしまった。
恋人に浮気されて振られて、仕事も失敗ばっかりで、体調管理もままならなくて、将来もよくわからなくて。
どうしてこんなにつらいのかなぁ。わたしってどうして生きてるんだろうなぁ。
『もういなくなりたい』
『私なんて生きてても意味ない』
気づいたら、SNSに投稿していた。自分で送信したその文字を見て、余計に胸がギュッと痛んだ。
最近泣いてばかりいて涙腺が脆くなっているのか、涙まで溢れてきて情けない。でも、どうやっても止まらないのだからしょうがない。
どうせ独り。この投稿も、今の私も、誰も見てない。……誰も、気づいてくれるわけない。
それから何分経っただろうか。 公園の入り口の方から、私を呼ぶ声が聞こえた気がして、私はそちらへ顔を上げた。
そこにいるのは、幼馴染のアキちゃんに見えた。彼女が大学を卒業するまでは、よく2人で遊んでた。でも、もう5年は会ってなくて、今はSNSで繋がっているだけの間柄。
「もしかして、アキちゃん……?どうして……?」
問いかけとともに、雫がポロリと頬を伝った。
それを見て、彼女が駆け寄ってきてくれる。そして、ギュッと抱きしめられた。
私を抱きしめながら、彼女は叫ぶ。
「受験のとき凹みまくって死にそうだった私を助けてくれたこと、今でも感謝してる!ありがとう!!」
そう言えば、そんなこともあったっけ。どうして今そんなこと。
「この5年、SNS見て、カナちゃんもどっかで頑張ってるんだと思って、私も頑張ってた!一緒に頑張ってる気持ちになってた!」
見ててくれたんだ。さっきの私も、見つけてくれたんだ。だから、来てくれたんだ。
腕の力が緩められて、彼女と目が合う。優しくて、強い光が見えた。
「だから、大丈夫!!」
何が大丈夫なのか、よくわからなかったけれど。私はいてもいい存在なんだって、肯定してくれているみたいで。
嬉しくって、ありがとうって、私は泣いた。
ここは、街の片隅。小さな酒場のステージで、情熱的な音楽に合わせて、髪をふりみだし、全身を躍動させ、音楽の世界を表現する。
私はアリッサ。年は19。職業:踊り子。
私は、生きるために踊っている。
かつては、情熱があった。高揚もあった。しかし、いつからか、それらはなくなってしまった。
生きるために、必死に踊ってきた。
生きるため、お金を稼ぐ手段。今の私にとって、踊りはそういうもの。そういうものの、はずだったのに。
(やばい、時間に遅れちゃう……!)
仕事の前に少し買い物するだけのつもりが、店主のおしゃべりにつかまり、だいぶ遅くなってしまった。
何分後に酒場に着いて、着替えに何分、化粧に何分、と頭の中で計算しながら、路地を走る。
角を曲がった瞬間、向こうから来た人物に、思いっきりぶつかってしまった。
私は衝撃で、尻もちをつく。
「大丈夫ですか、お嬢さん」
低い男性の声が頭上に響いて、大きな手が差し出された。
私は、その手を無視して、立ち上がる。
「ちょっと、もっと注意して歩きなさいよね!」
顔を上げ、自分の不注意も棚に上げて言った私の目に、相手の姿が飛び込んできた。
柔らかそうな赤茶色の髪。スッと通った鼻筋。眉は申し訳無さそうに下げられている。その下の澄んだ緑の目と目が合って、私は硬直した。
(すっっごい好みなんですけど!?)
「申し訳ありません。お怪我はありませんか?」
彼は重ねて尋ねてくる。
「え、あ、いや、別に大丈夫ですし……ていうかそちらこそ!?あ、私急いでるので……!」
顔の前で両手を激しく振りながら、しどろもどろに答え、私は逃げるように彼の脇をすり抜けて、酒場へ急いだ。
酒場に着いて、身支度を整える。走ったせいか、先ほどの思わぬ出会いのせいか、バクバクとうるさい鼓動を落ち着ける。
ステージへ向かう通路を歩く。
照明に照らされた壇上に立つ頃には、心は凪いでいた。
客へ一礼する。音楽が始まる。いつも通り、身体を動かす。
1曲目が終わり、客席を見渡す。私の踊りはこの酒場の名物だ。これを観にここへ来る客も数多い。観客たちは、こちらを熱心に見つめて、拍手と歓声を送っていた。
いつも通りの光景、その中に、異質な赤茶色が入り込んできて、胸がドキリと高鳴った。さっきの男性が、この酒場へやってきたのだ。まさか、また会えるなんて。
目が合う。呼吸が止まりそうになる。
ドキン、ドキン、高鳴りが止まらない。もう次の曲が始まるのに。
2曲目は、情熱的な初恋を曲にしたもの。私のステージの定番の曲。
曲が始まった。反射的に身体は動き、踊る。
いつも通りの仕事のはずなのに、私の心はちっともいつも通りじゃない。
あの緑の瞳が私を見つめてるかもと思うと、なんだかいつもより曲が身体に響く感じがする。動きに熱がこもる。彼が気になって、ずっと視界に入れていたくてたまらない。
(ああ、これが、恋なのね)
この曲の意味が、前よりもずっとよく理解できた。
動きに心がのる。
情熱が胸に宿って、身体と心が躍動した。
最近、親友にボールペンをもらった。
軸は深い緑色(わたしの好きな色だ)をメインに、上品な金色で花の模様が描かれているものだ。
誕生日プレゼントにとくれたもので、気持ちだけでも嬉しかったのに、デザインもとても好きなものだったので、わたしは余計に喜んだ。このボールペンを使いたいが為に、新しくノートを買って、日記を書き始めたほどだ。
日記の行数は毎日3行ほど。内容は、必ずポジティブなものにすると決めた。『今日は〇〇を頑張った』とか『夜に食べた△△が美味しかった』とかそんな小さな『良かった』を綴る。
その日つらいことがあっても、ダメな自分がいたとしても、日記を書き終わる頃には、書く前よりも自分を少しだけ許してあげられる。ギュッと強張っていた心が、フワリと休まる。
そんなひとときが、今日もわたしを生かしている。
年末。
久しぶりに帰った実家で、ゴロゴロしながらスマホをいじっていたときのこと。
『もういなくなりたい』
『私なんて生きてても意味ない』
SNSを眺めていたら、そんな投稿が流れてきた。投稿時間は5分前。
何気なく投稿主の名前を見て、私はガバリと起き上がった。コートとマフラーを雑に身につけて、家を飛び出す。
投稿主は、幼稚園からの幼馴染のカナちゃんだった。私が上京して以来疎遠になって、もう5年は会ってない。今は、SNSで繋がってるだけの間柄だ。
確か、まだ実家に住んでいたはず――。
記憶の中のカナちゃんの家へと走る。
頭の中を巡るのは、今走っている理由。小さい頃一緒に遊んだ思い出もそうだけど、一番は、高3の終わり。受験に失敗して浪人決定して、絶望してた私の手を握ってくれた、カナちゃんのぬくもり。「大丈夫だよ。」優しくて強い、言葉と眼差し。
私は、根拠のないその言葉に、カナちゃんの優しい力強さに、救われたから。カナちゃんが傷ついてどうしようもないときは、私がカナちゃんを助けようって思ったんだ。
きっと、今がそのとき。
左手に三角公園、カナちゃんの家までもうすぐだ、と思ったとき、公園のベンチにうつむき座る女性を発見して、私は急ブレーキをかけた。
「カナちゃん!!!」
叫べば、女性は顔を上げた。私の顔を見て、目を見開く。
「もしかして、アキちゃん……?どうして……?」
その目から、ポロリと雫が溢れ落ちた。
私は駆け寄り、思いっきり彼女を抱きしめた。
「受験のとき凹みまくって死にそうだった私を助けてくれたこと、今でも感謝してる!ありがとう!!」
彼女が身じろぐ。私は、構わず続けた。
「この5年、SNS見て、カナちゃんもどっかで頑張ってるんだと思って、私も頑張ってた!一緒に頑張ってる気持ちになってた!」
抱きしめた腕を緩めて、彼女の濡れた瞳をまっすぐ見つめて、私は、言葉を伝える。
「だから、大丈夫!!」
何の事情も知らないけれど。めちゃくちゃかもしれないけれど。それでも、あなたに伝えたい。
“私は、あなたに生きててほしい”
たったそれだけの思いを、力を込めて、言葉に乗せた。