雨露にる

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10/5/2023, 3:23:26 PM


 こうなったら踊るっきゃねえ。

 玄関で立ち尽くした私は決意した。
 そうと決まれば善は急げだ。パンプスを乱雑に脱ぎ捨て、両手にスーパーの袋を持ったまま猛然と冷蔵庫へ突っ込むとささっと野菜やら肉やらを手早くしまい、やっぱり気になって玄関に戻りパンプスをそろえて並べ、そのままぐるんと身をひるがえし勢いよくリビングへと飛び込む。つるつる滑るフローリングに摩擦力でブレーキをかけて止まると、すっ、とポーズを決める。ダンスを始める前の待機ポーズだ。もちろんダンスなど習ったことはないので、これはなんちゃってそれっぽいポーズである。なんだかずいぶん優美な形になってしまった。まあいいか。
 上げた右手を勢いよく撫で切るイメージで振り下ろす。体をひねり、回り、足を軽快にたんたんたんと鳴らす。あとはもう全部適当に、体が思うままに、おまかせで。
 ベランダの窓から差し込む夕日がまぶしい。きゅっと目をつむり、そのまま踊り続ける。マンションの一室で狂ったように踊っている人間がいるなどとは、きっと外にいる誰もが思いもしないに違いない。いや、階下の住人だけは気づいているかも。不在にしていてくれたらいいんだけど、と思いながら、延々踊る。今の私は誰のためでもない、自分のためだけの私だ。
 
「あははっ」
 
 息切れの混じった笑い声がこぼれた。
 おかしな動きになっているだろう。きっと目も当てられないほどにひどい。でも、楽しかった。ずっと腹の奥で凝り固まっていたなにかがほぐれて溶けていくような感覚がして、驚くほどに清々しくて、気持ちがよかった。
 ひとしきり踊って、体力が尽きたところで、私はようやく動きを止めた。へろへろと床に座り込む。
 さすがに疲れた。もう動けない。
 
「はあ……」
 
 結んだ髪を雑に解く。日はどんどん沈んでいって、気づけば窓の外にはわずかに残照があるばかり。ぼんやりと眺めながら、電気もつけないまま、暗い部屋の中で黙って瞬きを繰り返す。なんだか冷えてきた。荒い息が落ち着いて凪いでいくのを聞きながら、ソファーにもたれかかる。少しずつ重たくなるまぶたに抗わず、ついに完全に閉じようとしたそのとき、ぱっと床の上で四角い明かりが灯った。
 一瞬だけ夢から覚めたように意識がはっきりする。床に放りだした鞄から滑り出たらしいスマートフォンが、煌々と真っ白な光を放っている。ホーム画面には通知が一件。
 
『踊りませんか』
 
 幼なじみからのメッセージだった。
 たった一言、それだけで意図を把握する。すなわち――『憂さ晴らしに遊びに行かない?』、だ。
 ちょうどいい。思わずにま、と笑みが浮かんだ。なんてタイミングがいいのか。
 返事をしようとのたのた床を這うようにしてスマートフォンに手を伸ばす。けど辿り着く前に膝から力が抜け、無様に突っ伏した。想像以上に体力を消耗していたらしい。運動不足かそれとも歳というものか、あるいはどちらもか。とてつもない疲労感。
 
 ――返事は休んだあとでもいっか。
 
 放置されたスマートフォンが、急速に明かりを落とし暗くなる。部屋はまた一段と濃くなった闇に沈み、私は今度こそ黙って重たいまぶたをゆっくりと閉じた。



(お題:踊りませんか?)

5/4/2023, 3:02:40 PM

 まどろみたくなるほど穏やかな昼下がりだった。
 あんなに時計の針に追われて急かされていたのはなんだったのかと思うほど。風が前髪を揺らし、鼻を撫で、通り過ぎていく。芝生の青い香りが立ち上り、すうと深呼吸をした。肺の隅まで洗い流されたような感覚。川のせせらぎに耳を澄ませながら目を閉じる。
 なにもかもが遠く、他人事だった。

「……そこのお姉さん?」

 まぶたの裏がふと暗くなり、はたと意識が解けかけていたことに気づく。誰かが顔を覗き込んでいるようだ。渋々まぶたを持ち上げると、一人の男の子と一匹の犬が見えた。隣の家の子だ。はふはふと犬の息がかかる。近い。ちょっと離れてほしい。

「……奇遇ですね、こんにちは。犬の散歩ですか」
「こんにちは。ええと、はい。……お姉さんはなにしてるんすか」
「見ての通り、土手で昼寝でもかまそうとしているところです」
「スーツで?」
「スーツで」

 どうせ安物だから汚れは気にしない。もうそろそろ買い替えようかと思っていたところだし。隣家の男の子はなんとも言えない顔でこちらを見下ろしている。犬も相変わらずはふはふと至近距離で私を見ている。できれば遠ざけてほしい。けもののかほり。あっなめるな。

「……今日仕事、ですか?」
「ええ。仕事でした。今はさぼりです」
「さぼり」
「ええ。君もさぼりですか」

 記憶が確かなら高校生だったはずだが。

「今日は日曜日なので休みです……」
「おや、そうでしたか。すみません、曜日感覚が死んでおりましてはははは」

 朝から晩まで働いているせいですべてが変わらず同じ日だった。朝起きて、出社して、終電ぎりぎりに帰り、眠り、起きて、出社して、その繰り返し。
 あまりにばかばかしい。
 私は生活するために働いているのであって、働くために生活しているわけではない。
 気づいてしまったので、このサイクルから抜け出すことにして、今に至る。

「ところでどうしてこのワンちゃんは私の頬を舐め回し続けているんでしょうか。化粧は犬の体に悪いと思いますので控えていただきたいのですが」
「あああっすんませんごめんなさい! こらっこむぎ、なめないで!」

 犬ことこむぎさんが抱き上げられ遠ざかる。揺れるしっぽが見えた。楽しかったようで何よりだ。私の頬は犠牲になり、けもののかほりをそこはかとなく漂わせることになったが。化粧落ちてるだろうなあ、と思い、まあいいか、ともう一度目を閉じた。きちんとしなければいけない理由は今、ないのだから。
 いや、一つあった。
 カッと目を開くと、こむぎさんを抱き上げたままの隣家の男の子がぎょっとした顔で体を引いた。

「いけません、やることがありました」
「えっあ、え?」
「退職届を叩きつけに行かなければ。弁護士にも相談を入れないと。では、これで失礼」
「あっはい」

 私はさっと立ち上がり歩き出した。がんばってください、と背後から声をかけられ、ついでにワン! とひと鳴き聞こえたので、拳を突き上げることで返事とした。土手の昼寝はまた今度の楽しみとしよう。


(お題:大地に寝転び雲が流れる…〜)
(運営さん、なにか方針を変えたのかなという戸惑いとともに)

4/21/2023, 9:50:02 AM

なにもいらない、なんて寂しいことを、言わないでほしかった。
すべてを望んでほしかった。あれがほしい、これをやりたい、あそこに行きたい、すべてを思うままに、望んでほしかった。

「もういい……! なにもいらない、なにも、なにも! なにも!」

君にはその権利があるのだと知ってほしかった。
でもそれすらもつらいのだと、君は叫ぶ。なにも感じたくないのだと、ただひとつ、安寧だけ、それさえあれば、それだけが、と。でもそれだけすら君には与えられず、得ることができなかった。君にとっては最初から最後まで、この世のすべてが理不尽だった。私も、理不尽のひとつでしかなかった。
そんなことはないと、君に伝えたかった。そんなことはないのだと、君に証明したかった。そんなことはないんだと、君がいつか、笑ってくれれば、よかったのに。

「みんな、みんな、だいっきらい!」

世界が落ちる。
すべてが終わる。
君の憎いもののひとつにしかなり得なかったな、と、思いながら、一番星のようにぎらぎらと光る目を、いつまでも、見上げている。


(お題:何もいらない)
(あるいはたったひとりによって幕が下りる話)

4/14/2023, 4:13:35 PM

かみさまへ
きょうのおそなえものです。
たくあんとおにぎりです。
おいしかったのでおすそわけです。


「――そこな娘」

ぱてぱてと石段を降りていく途中で呼び止められ、幼子は振り返った。
真っ赤で大きな鳥居の向こうに誰かが立っている。長い金の髪、つり上がった金の目、豪華な着物。けれどなによりも幼子の興味を引いたのは、その頭上にぴんと立った一対の獣の耳と、背中からふわふわと覗く尻尾だった。
見たことのない、不思議なひとだ。……ひと?
ぽかんと見上げる幼子の無垢な視線を受けて、そのひとは口元にやわらかく弧を描く。

「あのたくあんとおにぎりは、そなたが置いていったものだろう」

それは確かに先ほど、幼子が今日のお供えものとして、いつものように手紙と一緒に置いたものだった。それがどうしたのだろう。
……もしかして、怒られるのだろうか。
ふと気づき、幼子はわずかに肩をすぼめた。神主さまにはいいよと言われているし、悪いことをした覚えもないけれど、なにか「そそう」をしたのかもしれない。――この子はまた、粗相をして。母親の呆れたような声が脳裏で反射する。
気まずげに縮こまる幼子にそのひとは首をかしげて、それから「ああ、」と困ったような声をこぼした。

「ああ、ああ……怖がらせるつもりはなかったのじゃが。すまぬ」
「ち、ちがう。こわくない。きれい」
「きれい? ……ふふ、そうか。ならばなぜそのような顔をするのだ、娘よ」

おいでおいでと白い手がたおやかに手招く。幼子はおそるおそるそのひとの顔をうかがった。怒りの色は見えない。怒られるわけではないのだろうか、と思いながら、幼子は素直に手招かれるまま、降りたばかりの石段をぱてぱてとまた上った。鳥居をくぐり、そのひとの前に立つ。ふわりと甘やかな香りがただよい、幼子は思わずそっと息を吸い込んだ。芳しく上品な香り。幼子にとっては初めて知るものだった。

「娘よ。そなたが供えたあれは、そなたの昼餉ではないのか?」
「うん」
「いかん、いかん。昼餉はちゃんと食わねば。そなたはこんなに小さく、こんなに幼いのだから、なおさらだ」
「でも、おいしかったから、おきつねさまにもたべてほしかったの。だからおきつねさまにもいっこ」

「そうか」とそのひとは笑った。お月さまのような目を細めて、心の底からうれしそうに笑うものだから、幼子にもそのひとがうれしいのだということがよくわかった。頭上の耳がぴるぴる揺れて、尻尾がふわふわ、揺れるのが見えた。

「そなたはやさしいな。優しく、よい子だ。だがな、やはり、ちゃんと昼餉は食べねばならぬよ――」

だからこれは返そう。ぽん、と手の上に、幼子が供えたはずのおにぎりとたくあんが乗せられた。でも、と言おうと顔を上げた幼子は、ふと動きを止めた。そのひとの耳と尻尾がになんだか見覚えがあるなと思ったからだ。そう、いつもこの神社で見る、――。

「……おきつねさま?」

ぽとんと幼子が落とした声に、そのひとはただ笑みを返した。それが答えだった。

「手紙だけは我がもらおう」

次の瞬間、ひゅるんと風が吹いて、思わず幼子は目を閉じた。甘やかな香りが濃くなり、頭を撫でられたような感触がして、けれど目を開けるとそこには誰もおらず、境内にはただ、おにぎりとたくあんを持った幼子だけが立っているのだった。


翌日、幼子はやはりいつものようにお供えものを用意した。今日は一等美しく咲いていた野花だ。そしていつものように紙を用意し、書くものを手に持ち、いつもよりももっと丁寧に、かみさまへ、と書いた。


(お題:神様へ)

4/10/2023, 3:28:49 PM

 ざあっ、と風が梢を揺らす音が聞こえた。
 今日はずいぶんと風が強いらしい。重たいまぶたをこじ開け、薄目で見た天井には、カーテンの隙間から溢れる光がうっすらと伸びている。昨夜までの雨はどこかへ去っていったらしい。晴れたなあ、とまだ半分意識を眠りに漬けたまま、うつらうつらと思う。
 外では雨雲の置き土産のように風がどう、どどう、と吹き荒れているようだった。ベランダから見える桜の木々はきっと、今こうしている間にも花弁を散り散りにひらめかせていることだろう。まぶたの裏に思い浮かべた淡やかな情景が夢へと変わるその瞬間、ぶわりとカーテンが膨らみ、朝の光が今にも閉じそうなその隙間から網膜を焼いた。

「う、」

 思わずこぼれたうめき声とともにぎゅうと目を瞑る。まぶしい。うめぼしのような顔をしながら少しの間うめいて、迷った末に渋々起き上がった。二度寝も魅力的だったが、それよりも一晩中開けっ放しだったらしい窓のほうが気になった。寝る前に閉めなかったっけ。いまだ回らない頭で昨夜の記憶を思い返す。
 ……ああそうだ、雨戸を閉める前にベッドに入ってしまって、閉めなきゃと思いながら結局雨音に寝かしつけられてしまったんだったか。
 我ながら防犯意識が低い。まあ過ぎたことだし、とそれきり考えるのをやめた。
 カーテンがぶわりぶわりと広がるたび、朝の光が床をさっと照らしては波のように引いていく。無防備にそこへ踏み込んだ私の白い足の甲が、まっさらな光に照らされた。そのままぺた、ぺた、と進む。膨らむカーテンの端を捕まえて、しゃーっと勢いよく開いた。
 ついでに雨戸も勢いよく開けた。
 寝起きには厳しい光の中、少しずつ慣らすように薄目でまばたきをしながら、ベランダへと出る。風がごうっと髪もパジャマの裾ももみくちゃにして、思わず「わああ」と弱々しい悲鳴が出た。けど、ああ、それよりも、風がやわらかい。冬の刺すような冷たさはなく、わずかなよそよそしさとほころんだばかりの花のようなあたたかさが入り混ざったような、春の風だ。
 ようやく光に慣れた目を開けば、足元のプランターで赤いチューリップが揺れているのが見えた。顔を上げれば薄青の晴れた空と、枯れることを知らないかのような満開の桜。薄紅色の花びらが風に巻き上げられて宙を舞っている。眼下の道路は一面花びらで染められて、花筏のようだった。
 柵によりかかり、そのまましばらくぼうっと眺める。思っていたよりも冷えるが、それでも部屋に戻ろうとは思わなかった。

すうと大きく息をした。千朶万朶の春の朝だった。


(お題:春爛漫)
(あるいはただ美しいだけの話)




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