こうなったら踊るっきゃねえ。
玄関で立ち尽くした私は決意した。
そうと決まれば善は急げだ。パンプスを乱雑に脱ぎ捨て、両手にスーパーの袋を持ったまま猛然と冷蔵庫へ突っ込むとささっと野菜やら肉やらを手早くしまい、やっぱり気になって玄関に戻りパンプスをそろえて並べ、そのままぐるんと身をひるがえし勢いよくリビングへと飛び込む。つるつる滑るフローリングに摩擦力でブレーキをかけて止まると、すっ、とポーズを決める。ダンスを始める前の待機ポーズだ。もちろんダンスなど習ったことはないので、これはなんちゃってそれっぽいポーズである。なんだかずいぶん優美な形になってしまった。まあいいか。
上げた右手を勢いよく撫で切るイメージで振り下ろす。体をひねり、回り、足を軽快にたんたんたんと鳴らす。あとはもう全部適当に、体が思うままに、おまかせで。
ベランダの窓から差し込む夕日がまぶしい。きゅっと目をつむり、そのまま踊り続ける。マンションの一室で狂ったように踊っている人間がいるなどとは、きっと外にいる誰もが思いもしないに違いない。いや、階下の住人だけは気づいているかも。不在にしていてくれたらいいんだけど、と思いながら、延々踊る。今の私は誰のためでもない、自分のためだけの私だ。
「あははっ」
息切れの混じった笑い声がこぼれた。
おかしな動きになっているだろう。きっと目も当てられないほどにひどい。でも、楽しかった。ずっと腹の奥で凝り固まっていたなにかがほぐれて溶けていくような感覚がして、驚くほどに清々しくて、気持ちがよかった。
ひとしきり踊って、体力が尽きたところで、私はようやく動きを止めた。へろへろと床に座り込む。
さすがに疲れた。もう動けない。
「はあ……」
結んだ髪を雑に解く。日はどんどん沈んでいって、気づけば窓の外にはわずかに残照があるばかり。ぼんやりと眺めながら、電気もつけないまま、暗い部屋の中で黙って瞬きを繰り返す。なんだか冷えてきた。荒い息が落ち着いて凪いでいくのを聞きながら、ソファーにもたれかかる。少しずつ重たくなるまぶたに抗わず、ついに完全に閉じようとしたそのとき、ぱっと床の上で四角い明かりが灯った。
一瞬だけ夢から覚めたように意識がはっきりする。床に放りだした鞄から滑り出たらしいスマートフォンが、煌々と真っ白な光を放っている。ホーム画面には通知が一件。
『踊りませんか』
幼なじみからのメッセージだった。
たった一言、それだけで意図を把握する。すなわち――『憂さ晴らしに遊びに行かない?』、だ。
ちょうどいい。思わずにま、と笑みが浮かんだ。なんてタイミングがいいのか。
返事をしようとのたのた床を這うようにしてスマートフォンに手を伸ばす。けど辿り着く前に膝から力が抜け、無様に突っ伏した。想像以上に体力を消耗していたらしい。運動不足かそれとも歳というものか、あるいはどちらもか。とてつもない疲労感。
――返事は休んだあとでもいっか。
放置されたスマートフォンが、急速に明かりを落とし暗くなる。部屋はまた一段と濃くなった闇に沈み、私は今度こそ黙って重たいまぶたをゆっくりと閉じた。
(お題:踊りませんか?)
10/5/2023, 3:23:26 PM