うーん、と紙パックに刺したストローを甘噛みしながら、期末テストのときよりも真面目な顔をした君が唸る。
「みかん」
今日の夕日の色のことだ。
だらけきった様子で窓枠にもたれかかったまま、彼女は続けて言う。
「……芥川龍之介の『蜜柑』よりはもうちょっと薄いかも。うん、じゃあ、みかんの果汁」
なにが「じゃあ」なのかまったくわからなかったけど、それはいつものことだったので、僕はそうだねと適当な相槌を打った。すべてのテストと模試が終わって疲れ切り、返事が億劫だったのもある。彼女は気にした様子もなく、沈んでいく夕日を眺めている。
「日が短くなってきたねえ」
「そうだね」
「こうやって夕日を見るのも久しぶりかも」
「……そうだね」
最近は特に勉強漬けだったもんね。
いつもと変わらないのんきな声に、「受験生なんだから当たり前だろ」と視線を横に戻す。沁みるような橙色が彼女の頬を照らし、髪を彩り、目を染め上げている。ふと彼女がこちらを見て、ばちりと視線がぶつかった。瞬き二つ、眉があからさまに下がる。
「……ねー、私が県外行くって言わなかったこと、まだすねてるの?」
「すねてない」
「すねてるんだよ君のそれはあ。何年の付き合いだと思ってるんだよお」
十年近くはある。が、そんなこと、わざわざ口に出す義理もないので、知らないよとうそぶいた。いいや、実際すねてはいないのだ。そんな大事なことを「あ、言うの忘れてた」だなんて軽い一言で済ませられたことに納得していないだけなのだから。
「ねー、ねえ、ねえねえねえ、ちょっとこっち見てよ」
「うるさい。すねてないって」
「はいはいすねてない、そうだね。そうじゃなくて、……ああもう、なに言いたかったか忘れちゃったよ」
「ふん。相変わらずの鳥頭」
「ぴよぴよ!」
にこ、と至極楽しそうに笑う彼女の鼻をつまむ。なんでもかんでもすぐに忘れるくせに、案外物覚えは悪くないというちぐはぐさのおかげで、彼女の成績はそこそこにいい。そこはかとなく腹が立つ。
珍妙な悲鳴を上げて、なんとか僕の手から逃れようと彼女がわあわあと暴れる。
――そうやっていつか、僕のことも忘れるのだろう。
そんなふうに僕が思っているなどと、みじんも気づかないままに決まっている。それがまた少しだけ腹立たしかった。ぐうと細まった目は、沈んでいく夕日のみかん色があまりにも沁みるせいだ。
(お題:沈む夕日)
真実の鏡というものがあるとするならば、それはきっと彼女の目のことだろうとずっと思っている。
「こっちを見て」
意思のこもった静かな声。いつも遠慮がちに服の裾を引くやわらかな手は、今このときだけは力強く、それでも男の自分からすれば振り払うなどいともたやすいほどの加減で、手首のあたりを掴んでいる。記憶にあるよりも大きなその手に、ああ、成長したな――と場違いに思う。
少女と呼ぶには大人びて、女性と呼ぶにはいまだ幼さの抜けきらない年頃だ。どちらかといえば小柄である彼女は、長身の己と並ぶとことさらに幼く見える。それをひそかに気にして、一時期などはともに連れ立って歩くのをひどく嫌がっていた。あの頃に比べれば、今の彼女はずいぶんと垢抜けている。日々楽しげに大学の友人たちとやれ化粧が、服が、と研究していた成果だろう。
ああ、本当に、成長した――。
「見ているぞ。どうした?」
覗きこむように背を曲げて視線を合わせれば、こちらを見上げる落栗色の双眸が一つ瞬き、見返してくる。どれだけ背が伸びても、垢抜けても、そのまなざしとこちらを見透かすような目だけは幼い頃から変わらない。あらゆる虚飾を剥ぎ、すべての嘘を許さず、奥底の真実を捉え、真実のみを告げろと望む冷たい無垢な色。
愛おしく、そしてなによりも恐ろしい、目だ。
「こっちを見て、先生」
「見ているよ」
「先生、先生。あのね」
『真実の鏡』がまっすぐに己を映している。やわらかな笑みを浮かべて見せ、腹の底にはなにも抱えていないのだと、清廉潔白なのだと言わんばかりの己が、そこにいる。
その先の言葉を飲みこんではくれないだろうか。柄にもなく、祈りのように思う。できることならば問わず、目をそらし、変わらない日々へと戻ってほしい。そうしていつものように笑って、怒って、レポートが終わらないとむすくれる姿を見せてほしい。そうすればきっと己はいつも通り、笑い、なだめ、助けになれることはあるかと聞くのに。
――お前の庇護者であると、まだ、正しくいられるというのに。
(お題:君の目を見つめると)
延々と伸びてゆくレールに沿って、桔梗に似た青い花々が一面、どこまでも群れ咲いている。淡い光を帯びたそれらは、明けない夜闇の中の唯一の灯りにも等しかった。
ほう、と思わず息がこぼれる。ようやくたどり着いた駅のホームでひとりきりなのをいいことに、突っ立ったまま景色に見惚れる。夢のようだった。いいや、間違いなく、夢だった。私が見る最後の夢だ。
あたりは静かだった。汽車はまだ来る気配がない。時おり風が吹き、花々をいたずらに揺らしていく。やわらかに波打つ先から花弁に溜まった露が落ち、光の粒となって散っていく。またたくようなそのかすかな音さえも冴やかに聞こえて、私はしばらく耳を澄ませた。やがてそれも止んで、なんとはなしに線路の先へと視線を向けた。夜闇に溶け消え見えなかったが、淡い花々の青白い光だけはともしびのように灯っているのが見えた。レールを彩るように一直線に、一面に咲く青い花々を眺めながら、天の川のようだなとぼんやり思う。
瞬間、遠く背後から汽笛の音と規則正しい走行音が響いた。振り向くと、黒い車体に花々の淡い光を映しながら、汽車がやってくるのが見えた。汽車はなめらかにホームに入ってくると、規則正しく、私の前で止まった。レトロチックなドアが開き中へと招く。一拍置いてから私は一歩踏み出した。ホームにはやはり私以外誰もおらず、誰かが来る気配もなかった。ただ花々が灯るばかりの静かな夢だった。ステップに足をかけ、乗りこむその瞬間に気づく。――美しい一面の花畑は、実際、天の川の「よう」なのではなく、天の川そのものなのだろう。あの花の一輪一輪がまたたく星であり、こぼれて散る露のひとかけらすべてが星屑であり、目の前の景色はただしく星の河なのだ。
きっとそれを、夜の中、私の足元よりずっと下で眠っている彼らは知らない。できることなら、もっとずっと先になってから知ればいい、とひそやかに思う。彼らの最後の夢は、うんと遠ければいい。
星河の下の下、穏やかに明日を待ち眠るひとたちを思い浮かべながら、今度こそ迷わず汽車へと乗りこんだ。
ドアが閉まり、私の夢が終わる。
(お題:星空の下)
「人間の体はおおむね『二つ』で構成されている。
たとえば眉、たとえば目、たとえば耳、たとえば腕、たとえば足、たとえば肺、たとえば腎臓。一つの鼻に空いてる穴は二つだし、唇だって上唇と下唇の二つで成っている。脳だって右脳と左脳の二つだ。すべてが二つで構成されているわけではないけど、まあ人間というのはおおむね『二つ』から成っている。
では『人間』という動物の話をしよう。
人間とは、社会的動物である――という話は聞いたことがあるかな? 勉強家の君のことだ、きっとどこそこのいけすかない学者が道端でべらべらとそんな話を口軽くしているのを耳にしたことがあるだろう。
そう、人間というのは社会的動物である、とされている。簡単に言えば、社会を構築し、その中で生きていく生き物だということだね。群れが必要だということだ。
たとえば君、君が一人で孤独に生きているとしよう。あの大きな屋敷の一室に引きこもり、誰とも関わらない日々を送り、静かに命を消費しているとしよう。ではその場合、君は群れの一員ではなく、個人として独立していることになるか? 答えは否だ。君が一人、孤独に慣れ親しむ生活を送り、誰の目にも触れずにいたとしても、それが絶えず他者の手によって成り立っているものであることには変わりない。よって君は未だ群れの一員だ。
人間というのは、他者と在ることにより己と人の境界線を知る。境界線を知ることで『個』と『他』を認識する。他者ありきの存在だ、『一』ではなく『二』でなくてはならない。『二』から始まるんだよ、人間としての『君』は」
「つまり、どういうことですか」
滔々と流れる言葉の合間に少年が問いを差し込めば、魔女は一つ瞬き、ゆっくりと美しい笑みを浮かべた。木漏れ日にきらめく金の双眸には、いついかなるときも変わらない、慈しむ色が湛えられている。
ふふ、と吐息のような笑い声。
白い指先が簡素なガーデンテーブルの上に置かれた小さな焼き菓子をつまんだ。
「つまりね。一つだけ、なんていじらしいことを言わず、二つでも三つでも好きにお食べなさい、ということだよ」
たったそれだけの話なのであった。
(お題:一つだけ)
花壇にまた花が増えている。
薄青の丸っこい花弁が可愛らしい花だ。またなにかあったのだろうか、と花壇の主を探してぐるりと視線を巡らせる。春風に染められたような色合いのチューリップが群れ咲く向こう側、こちらに背を向けてしゃがみこんでいる小さな姿が見えた。おおいと声をかけると、一拍置いて振り返る。頬に泥がついている。
「おはよう。また新しい花を植えたのかい」
「おはよう。そうなの、いいことがあったから」
小走りに寄ってきた彼女に頬を指さして見せれば、瞬いたあと、はにかむように目を伏せた。軍手をはめた手の甲で拭おうとするのをそっと止める。それでは余計に汚れかねない。ハンカチでやわらかな頬に触れてから、少し不躾だったかと思い様子を伺ったが、彼女は気にしていないようだった。ありがとうと微笑みかけられ、どういたしましてと返す。そっけなさの混ざったそれが照れ隠しであると彼女にわからなければいいと思った。そらした視線の先で、名前も知らない薄青の花が揺れている。
「……いいことって、今度はなに? まさか前みたいにおみくじで大吉が当たったからとかじゃないよね」
「違うよ。いいことっていうのはね、……うーん」
ふふと彼女が笑う。日に透けて明るく光る毛先が風に踊り、気を取られたその一瞬で彼女が身を翻した。
ひみつ! 跳ねるように言って、駆け戻っていく。反射的に伸ばした手を力なく下ろして、はあとため息をついた。こうなったら意地でも教えてくれないのはよく知っている。作業に戻った彼女はもうこちらのことなど意識の外に追いやってしまったようで振り向きもしない。超えられない花壇を見下ろして、彼女の「いいこと」はなんだろうと思う。ここ最近はとみに植えられる花が増えてきた。その花々の言葉がすべて恋にまつわるものなのは、偶然ではない。きっと。
(お題:何気ないふり)