雨露にる

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 まどろみたくなるほど穏やかな昼下がりだった。
 あんなに時計の針に追われて急かされていたのはなんだったのかと思うほど。風が前髪を揺らし、鼻を撫で、通り過ぎていく。芝生の青い香りが立ち上り、すうと深呼吸をした。肺の隅まで洗い流されたような感覚。川のせせらぎに耳を澄ませながら目を閉じる。
 なにもかもが遠く、他人事だった。

「……そこのお姉さん?」

 まぶたの裏がふと暗くなり、はたと意識が解けかけていたことに気づく。誰かが顔を覗き込んでいるようだ。渋々まぶたを持ち上げると、一人の男の子と一匹の犬が見えた。隣の家の子だ。はふはふと犬の息がかかる。近い。ちょっと離れてほしい。

「……奇遇ですね、こんにちは。犬の散歩ですか」
「こんにちは。ええと、はい。……お姉さんはなにしてるんすか」
「見ての通り、土手で昼寝でもかまそうとしているところです」
「スーツで?」
「スーツで」

 どうせ安物だから汚れは気にしない。もうそろそろ買い替えようかと思っていたところだし。隣家の男の子はなんとも言えない顔でこちらを見下ろしている。犬も相変わらずはふはふと至近距離で私を見ている。できれば遠ざけてほしい。けもののかほり。あっなめるな。

「……今日仕事、ですか?」
「ええ。仕事でした。今はさぼりです」
「さぼり」
「ええ。君もさぼりですか」

 記憶が確かなら高校生だったはずだが。

「今日は日曜日なので休みです……」
「おや、そうでしたか。すみません、曜日感覚が死んでおりましてはははは」

 朝から晩まで働いているせいですべてが変わらず同じ日だった。朝起きて、出社して、終電ぎりぎりに帰り、眠り、起きて、出社して、その繰り返し。
 あまりにばかばかしい。
 私は生活するために働いているのであって、働くために生活しているわけではない。
 気づいてしまったので、このサイクルから抜け出すことにして、今に至る。

「ところでどうしてこのワンちゃんは私の頬を舐め回し続けているんでしょうか。化粧は犬の体に悪いと思いますので控えていただきたいのですが」
「あああっすんませんごめんなさい! こらっこむぎ、なめないで!」

 犬ことこむぎさんが抱き上げられ遠ざかる。揺れるしっぽが見えた。楽しかったようで何よりだ。私の頬は犠牲になり、けもののかほりをそこはかとなく漂わせることになったが。化粧落ちてるだろうなあ、と思い、まあいいか、ともう一度目を閉じた。きちんとしなければいけない理由は今、ないのだから。
 いや、一つあった。
 カッと目を開くと、こむぎさんを抱き上げたままの隣家の男の子がぎょっとした顔で体を引いた。

「いけません、やることがありました」
「えっあ、え?」
「退職届を叩きつけに行かなければ。弁護士にも相談を入れないと。では、これで失礼」
「あっはい」

 私はさっと立ち上がり歩き出した。がんばってください、と背後から声をかけられ、ついでにワン! とひと鳴き聞こえたので、拳を突き上げることで返事とした。土手の昼寝はまた今度の楽しみとしよう。


(お題:大地に寝転び雲が流れる…〜)
(運営さん、なにか方針を変えたのかなという戸惑いとともに)

5/4/2023, 3:02:40 PM