『つまらないことでも』
セルフケアを怠ると心身を病んでしまうことがある。だから衣食住の基本的欲求は満たしてあげなければならない。しかし、それをこなすことがしんどい時があり、つい自分自身のケアを放棄してしまう。
『あぁ、うあぁ、ぁぁ』
背後に憑いている彼女は、私が疲れてダウンしている時には決まって家事を代わりにやろうとしてくれる。物に触れることは彼女にとってとても大変なことらしい。よくは分からないが、家事をこなした後しばらく動かないでいる。いつもは縦横無尽に飛び回っているから、その落差が凄い。
「ねー、お姉さんそんなに無理にしなくて良いよ。一食抜いても死にはしないし、今日洗濯しなくてもまだ着る物はあるよ」
ぶんぶんと首を振って、家事の続きを再開した。表情は読めないが、悲しげな雰囲気が伝わってくる。
誰かに何かしてもらうことは嬉しいけれど、そのせいで疲れさせてしまうのは何だか違うなーと思ってしまう。つまらないことでも、彼女が元気でいられるように、少しだけまた頑張ろうと思った。そして、つまらないことでも彼女と二人でやると非日常的で楽しいと感じた。
このまま、彼女との生活が続いたら嬉しいな。
『目が覚めるまでに』
ふよふよ、ふわふわ。わたしは漂う。どこからきたのか、どこにいくのか分からない。ただ、気がついた時には目の前の人に憑いていた。初めの方では彼女は私に気付いていなかった。彼女の日常を眺めているうちに、楽しい気持ちになった。その頃からだろうか、彼女と目が合うようになってきた。鏡越しに重なる視線にどきっとした。
「うぇぃ……どゆこと」
彼女が完全に私のことを認識した。だって、私と目が合うし、左右に動くと目で追ってきた。彼女は首を傾げながらそのまま普段通りの生活を進めていた。
『なんか拍子抜けする。私のことが怖くないのかな』
私は彼女に興味が湧き、そのまま憑き纏うことにした。もともと一つの場所や一人の誰かに憑いてはいなかった。私はただ流されるまま漂っていたが、意思を持って憑こうと思ったのは初めてだった。
「おねーさん、なんか楽しそうですね。良いことありました?」
『あぁ、うぁ……ぅぐぁ』
「んー、やっぱりなに喋ってるか分かんないや。でも、楽しそうでなにより」
二人で時間を共有できることに私は幸せを感じていた。きっとこれは私が過ごしたかった日々なのだろう。私が何者であるかわからないが、涙が出るほど彼女と過ごす日々が幸せだ。夢の中でふわふわと漂っている様で、目が覚めないことを祈るばかり。
「ふぁあ、私もう疲れたからもう寝るね。おやすみ」
彼女はベッドに入りリモコンで電気を消していた。
私は彼女の横に座り込み、ベッドに横たわる彼女を見つめる。彼女にとってはこの生活は非日常で、私は早く消えなければならないだろう。きっとこの現実は彼女にとっての悪夢だろう。でも、今だけは彼女の目が覚めるまでにこの我儘を許してください。
『病室』
ふと気がつくと目の前にはベッドがあり女性が横たわっている。周囲は暗く私と目の前の女性以外誰もいなかった。小さな個室の病室にぽつんとベッドが置いてあり、それ以外は申し訳ない程度に小さな床頭台と水の入った吸い飲みが置いてあった。その女性に見覚えがあったため近づいた。近くで見ても呼吸をしているのか分からない。誰だっけと顔を見つめ、もっとよく見ようと顔にかかった髪の毛を横に払った。
「あれ、私に憑いてるお姉さん?」
病室外がから慌ただしい足音と話し声が聞こえてきた。ばたばたと数人が入ってきた。赤い四角いカートの引き出しを弄る人がいれば、電子カルテを弄って指示を出す人、その女性の周りに群がり何かをしている人など様々だった。
誰も私のことには気が付かず、更には私をすり抜けていく始末。私は段々と何が何だか分からず怖くなって逃げようとした。
「家族はどれぐらいで到着できそうですか?」
逃げ出そうとしたら、目の前から白衣を着た人が入ってきた、そこにいる人たちに状況確認したり、指示を出していった。私は驚いて避けようとしたが、相手はすり抜けていった。その時、すり抜ける直前でその人と私は目が合った気がした。
私は廊下に出てどちらが出口だか分からぬまま走った。走って走って永遠に思えるような廊下にも終わりが見えた。角を曲がった先には扉があり、やっとここから逃げられると思う一心で、力いっぱい扉を開けた。眩しくて目を閉じて開けたら、見慣れた天井があった。周りを見回すと、私の部屋でベッドで寝ていたたげだった。
「あれ、何か怖いものを見た気がしたんだけど何だったっけ?」
何か嫌なで不安な気持ちだけが残っていたが、それ以外何も思い出せなかった。何か大切なことだった気がするのに何だったんだろうなと、思い出そうとした。
『うぁ、あぅぁ……』
しかし、背後霊の女性が私を心配したような目で見つめてくるため、考えるとをやめた。
「ごめんね、変な夢を見たみたい。シャワーを浴びたらご飯にしよっか」
今日はお姉さんの好きなもの作るから教えてねと言ったら、バンザイして何をリクエストをしようかとフワフワと漂っていた。今日も背後霊の女性はいなくなることなく存在している。
『明日、もし晴れたら』
「あっついな~、雨降ってくれないかな」
太陽が真上で燦々と光り輝いている。季節は夏で今年は猛暑続きだ。
『あぁ……うぁ、あぁ』
「うおっ冷たっ、あーきもちいいー癒されるー。視覚的にも触覚的にも涼むなー」
私には背後に女性の霊が憑いている。夏場はよく首筋に彼女の手を当てて、熱った身体を冷やしてくれる。視覚的にも白く涼しげで存在が怪異でもあり、涼しく過ごすことができている。
「先週も晴れ、昨日も晴れ、今日も晴れ。晴れが続いて気温が上がるし、湿度も高い。もう嫌だー、仕事したくない。営業回りなんて真っ平ごめんだ‼︎」
茹だるような暑さで思考回路はショートした。もう、何も考えられない。そもそも、不要不急の用事でない限り外出を控えろとニュースでも言ってる。何故、私は炎天下の中スーツ姿でいるのだろう。
『ぅうぁあ、うあ』
背後霊が全身で抱きついて私を冷やしにきている。キミって本当に優しいな、何言っているか分からないけど同情してくれてるんだろうな。背後霊によって冷やされた体温と、彼女の心の温かさを知り冷静さを取り戻す。
「明日、もし晴れたら対面じゃなくてオンライン通信でやり取りしよう」
うん、そうしよう。背後霊もそうした方がいいって頷いている。そうだよな、取り憑いてる人間が死んだらたまったもんじゃないもんな。よし、人間生きててなんぼだ。
「帰りにかき氷食べて帰ろうか」
彼女は両手をあげて喜んでいる。表情は髪の毛で隠れて分からないが、その様子が何だか可愛いなと思ってしまった。
『だから、一人でいたい。』
「君ってよく独り言いってるよね」
何か心配なことある?何かあれば話聞くよと、昼食をとっている時に職場の先輩が話しかけてきた。
「えっと、そんなに独り言ありましたか。あんまり意識したこと無かったんですが」
「うーん……さっきコンビニでそのお弁当を選んでた時、オムライスと迷ってたよね」
現在食べているのは醤油がしっかりかかった海苔弁だ。おかずには磯辺揚げが2本乗っている。私はこれが堪らなく好きでよく買っている。
「ど、どうしてそれを知っているんですか」
「だから、独り言の話になるんだよ。偶には他の味が食べたいだの、これが好きだの言ってたよね。私も今日はお昼持ってこなかったから、コンビニに寄ってたの」
不味い、大変に不味い。あの時のやり取りを見られていた。あの時、変なことを言っていなかったか心配になったが、きっとそれ程変なことは言っていなかったと脳の片隅に置いておくこととした。きっと、この心優しき先輩は本当に心配してくれているのだろうが、大丈夫だと言えば無遠慮に更に踏み込んでくることは無いだろう。
「あー、あの時は内なる心がどちらにしようかと迷ってて、つい。時々、独りごちてるかもしれませんが、大丈夫なんで。もし、何かあれば先輩に話します」
「そう?そこまで言うなら引くけど、何かあれば言っね」
独り言の話はここで終わり、先輩と二人で談笑しながら昼食を終えることができた。先輩が他部署に用があった為、途中で別れた。
はぁ、と大きなため息をついた。
「お前がいけないんだからな。他人から見れば私は変人に見えるようだよ」
背後を振り返り、私に憑いている女性の霊を見つめた。彼女は悪びれた様子もなくどこ吹く風かの如く、ふよふよと漂っている。
私と彼女の味覚は通じているため、私が食べたものは彼女に伝わる。それが、彼女の娯楽になっているのか、しょっちゅう他の食べ物をせがまれる。
「もう、恥ずかしいなぁ。あんなやり取り見られるなんて」
あれも、これも背後霊が憑いているせいだし、私以外がこの霊が見えないことが原因だ。私はほてる顔を両手で押さえて廊下にしゃがみ込む。既に前後ともに誰もいないことを確認済みだ。
「あーもう。だから、一人でいたい」
蚊の鳴くようなか細い声でそう独りごちた。