【さよならを言う前に】
『███へ
お元気ですか。私は元気です。手紙の最初って、いつも何を書こうか迷っちゃうね。結局ありきたりになっちゃうけど、
今日は、あなたに言えなかったこと、伝えたかったこと、全部をこの手紙に閉じ込めました。ぜひ、最後まで読んで頂きたいと思っています。
まず、私と友達になってくれてありがとう。初めて会った時のあなたは、笑った顔がまるで太陽みたいに明るくて、絶対に仲良くなりたいと思ったのを覚えています。あなたは覚えているかな。一緒におままごとをしたこと。あなたの家でオセロをしたこと。すごく、すごく楽しかった。本当だよ。
それに、あなたは私の目標だった。目標っていうのはちょっと違うかな。でも、憧れだった。あなたは嘘だって思うかもしれないけど、皆とすぐに仲良くなれて、元気で、自分の意見をしっかり言えて、そんなところが本当に好きでした。
小学一年生のとき、あなたは引っ越しちゃったよね。名古屋は、あまりにも遠くて寂しかった。けど、引っ越しっていうものに実感が湧かなくて、涙は全然出なかった。それに、絶対また遊ぼうって約束したから。私はそれを信じて、だから笑顔でバイバイできたんだと思う。
年に一回しか会えなくなったけど、でもその一回がすごく楽しみだった。年賀状も、誕生日プレゼントも、いつもありがとう。あなたはセンスがいいから、プレゼント、本当に嬉しかったです。私のはどうだったかな、喜んでくれてましたか?
二人で遊ぶの、本当に楽しかったよ。あなたはどうかな、楽しかった?同じ気持ちだったなら嬉しいです。
コロナが流行り始めた頃、いや中学生になった頃からかな、一年に一回すら会わなくなったね。あなたはどうだったか分からないけど、私はずっとあなたの面影を探していました。ちょっと重いかな。でも、それだけあなたが好きってこと。
一回、あなたにそっくりな人を見かけて、思わず目で追ってしまいました。おかしいよね、あなたは名古屋にいるのにさ。こんな所にいるわけないって、でも、もしかしたら遊びに来てるのかもって、思ってた。
ふとしたときに、思い出します。あなたのこと。
また、会えるかな。会いたいな。
友達の話をしよう。テストが大変とか、高校の変な先生の話とか、しょうもない話をいっぱいしようよ。
全然会ってなかったことなんて嘘みたいに、笑いあって、それで』
涙が頬をつたっているのに気づいた。書いていた手を止めて、涙を拭う。
一筋、堪えきれなかった雫が、便箋に落ちた。水たまりみたいに、染みになって文字を滲ませる。
「あーあ、出せなくなっちゃった」
空気に向かって呟いて、ペンを置く。あともうちょっとで書きおわりそうだったのに。
でも、どっちにしろボツだったかな。もっと楽しいことばっかりで埋めるはずだったんだけど。
楽しいことで埋め尽くすには、距離が開きすぎたかな。
ひとつ、ため息をつく。
また会おうって、言いたいだけなんだけどなぁ。
もう出せなくなった手紙を、丁寧に折る。
クローバー柄の封筒に入れて、青い小鳥のシールでとめた。
じっと、それを眺める。
ただ、話したいだけ。もう二度と会えないかもしれないなら、せめて一回だけ、一回だけ会って話したい。
それだけでいい。それだけがいい。
「・・・それだけが、難しい歳になっちゃったね」
封筒を、引き出しの中にいれた。
また、さよならの振り出しに戻った感覚がした。
【終点】
「じゃあね、また今度!」
「うん、またね!」
簡単な挨拶をして、友達が電車をおりる。彼女を先頭に、老夫婦や小学生らしきグループ、様々な人達もホームへと足を進めた。さすが都市部と言うべきだろうか。
さっきまで混んでいた電車内が少し空く。周りにおじいさんやおばあさんがいないのを確かめて、空いていた端の席に座った。
帯を崩さないように気をつける。できるだけ後ろにもたれないようにしないと。
下を向くと、白の生地の中で優雅に泳ぐ真っ赤な金魚が見えた。それと、真珠みたいな帯留め。下駄はおばあちゃんから借りた、黒に赤い紐のやつ。
今日はかなり大規模の花火大会があって、電車で一時間半くらいかけて行った。
私の家は開催場所から遠いから、今まで一回も行ったことはなかった。けれど、私ももう高校一年生だ、親に頼み込んで友達と二人だけで行かせてもらった。前からテレビで見て、興味はあったのだ。
ふと、さっき撮ったばかりの写真を見ようと、スマホを取り出してアプリを開いた。友達と撮った自撮り、映えるかき氷、それに大きく咲く花火。
友達に誘われたときの記憶が、写真のようによみがえる。夏休みが始まる前に一緒に行く約束をして、お揃いの浴衣を着て行った花火大会。
「楽しかったけど、疲れたな…」
車窓の外を見ると、ビルとビルの間にある道路で車が走っていた。どこかのオフィスなのだろう、ビルの窓からは綺麗に整頓されたデスクが、歩道橋にはスーツを着て歩いている人が見える。下には居酒屋なんかが立ち並び、少し温かみのある光で客を待っていた。
そんな一瞬の景色が、心から離れなくなった。
すぐに、写真を撮ればよかったと後悔する。とても綺麗な景色だった、胸がキュッとなるくらいには。今撮っておけば、きっと後から同じ気持ちを味わえたのに。
やっぱり疲れてる。いつもならすぐにスマホを向けるのに、そんな考えさえ浮かばなかった。
軽いため息をひとつついて、横の仕切りにもたれる。
どうせ降りるのは終点だ、それまで少し寝てしまおう。
そう思って目を閉じた。
夢に誘われるのは早かった。
_ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _
『-ご乗車、ありがとうございました。次は冨永駅、終点です-』
アナウンスの声で目を開ける。周りを見ると、私の他にはもう二、三人ほどしか乗っていなかった。
どうやら、一つ前の駅を出発したところらしい。
目をこすって、スマホの画面を見る。
「あ、やば...」
そこには、お母さんからのLINEが多数入っていた。
『何時くらいに着きそう?』
『おーい、返信ください』
『今どこ?』
『(はてなマークを浮かべるくまのスタンプ)』
『(はてなマークを浮かべるくまのスタンプ)』
『(はてなマークを浮かべるくまのスタンプ)』
『いつまで経っても車出せないよ〜!』
『(怒ってるくまのスタンプ)』
『(怒ってるくまのスタンプ)』
『(怒ってるくまのスタンプ)』
『(怒ってるくまのスタンプ)』
これは、やばい。
多分、いや絶対、十中八九怒ってる。
急いで返信を打つ。
『ごめん、寝てた。今1個前の駅でたとこ』
飛行機を押した瞬間に、既読がついた。
『そんなことだろうと思った。着くの遅くなるから、待っといて』
すぐにおっけーのスタンプと、土下座してるスタンプを送る。既読だけついて、そこから連絡は途絶えた。
とりあえず、せめてもの誠意で、早く駅の外に出ておこう。
そう思い、立ち上がって出口の前まで移動する。
帯も髪型も、そんなに崩れていなかった。とりあえず胸を撫で下ろす。これで帯まで崩れてたら、めちゃくちゃ怒られていただろう。
外は暗闇でほとんど何も見えない。山が近くなってきて、電灯くらいしか明かりとよべるものはなかった。
スマホのホーム画面を見る。お母さんからLINEがあればすぐに対処できるように。
そういえば、今どこら辺なんだろう。逐一報告とかした方がいいかも。
そう思い、車窓からの景色を見ようとした。
「わっ...」
街中の光が、目に映った。
山に近づいているから、標高が少し高くて、さっきまでいた都市部が丸々見えた。淡く、くっきりした輪郭の光。地球は丸いのだと、実感してしまうほどだった。
ほとんど無意識で、シャッター音を鳴らしていた。
手元のそれには、さっき見た景色が閉じ込められる。
また、胸がキュッとなった。これは所謂、エモというやつだろうか。それか、ノスタルジー?
言葉を探してみたけれど、結局ぴったりくるものは見つからなかった。ただ、この感情が大切だった。
『-ご乗車、ありがとうございました。まもなく冨永駅、冨永駅です-』
アナウンスの声があって数秒で、ドアは開いた。
私はほとんど駆け足で、駅の外へと向かっていった。
【上手くいかなくたっていい】
思えば昔から、人の顔色ばかりうかがって生きてきた。だから、人の好かれるような言動ばかりしていた。
それは今から思い返せば、の話で、昔は無意識でやっていた。今だってそうだ。クラスの人達、先生の前で、私はきっと無意識に猫をかぶっている。
無意識に人がほしい返事を考えて、無意識に声色を変えて、無意識に媚びを売ったような動作をする。意識してやっていたのは好きな人の前くらいだろうか。
小学生の頃だったか、友人達に私のイメージカラーを聞くと、それぞれまるで違った色を答えたことがある。
「青じゃない?」「いや黄色だよ」「ピンクだと思うけどな」なんて言われて、心の中で薄ら笑っていた。人によって態度を変えている証拠だと、思った。
本当は、汚い灰色じゃなかろうか。
私がこうなったのは、多分幼稚園に入った頃くらい。妹が生まれて、母親がよく怒るようになった。怒り方があんまりよくない親だった。さっきまで笑っていたかと思えば急に怒りだし、私がなにか気に入らない発言でもすれば、容赦なく拳が降ってきた。
それと、人の失敗を見てよく笑う親だった。よく笑ったし、怒りもした。まだ幼稚園生なのに、分数なんかやらせて、間違えたら机を力任せに叩いて脅した。
だから、失敗した姿を見られるのは、私にとってこの世の何よりも屈辱で、嫌なこと。
恥ずかしいことだと思っていた。人の前で失敗することが。弱い部分を見せることが。
自分の失敗を人に言えない子供になった。
例えばトイレに行きたくなったとき。「なんでさっきの休み時間にトイレに行かなかったの?」と聞かれるのが怖くて、トイレに行けない子供だった。
例えば図工の時間に間違えた色を塗ったとき。それだけで顔が真っ赤になるほど恥ずかしくて、手で覆って誤魔化したりした。
小学校の高学年になれば、失敗を笑うことで少し恥ずかしくなくなることが分かった。
体育の跳び箱で失敗したとき。算数のテストで悪い点数をとったとき。習字で先生に修正されたとき。
いつも笑って、周りにその失敗を見せていた。失敗を見せることは辛くて、恥ずかしくて、その度に死にたくなったけど、それでも他人に見つかるよりは、自分から言った方が幾分かマシだった。
それを注意された時は、本当にびっくりした。
悪いことだと思ってなかったから。むしろ良いことだと思っていた。そこら辺の感覚が、鈍っているのかもしれない。思い返せば、八方美人の意味を知った時も、ずっと良い意味だと捉えていた。本当は悪い意味なのに。
とにかく、そんな先生の一言が、私にはけっこう衝撃だった。先生は多分覚えてないけど。
それからは努力した。失敗しても笑わないように。
その頃からは、委員長なんかして、前に出ることも始めた。それはしょうに合っていたようで、何かをまとめることや発表することは楽しかった。
まだ人の目を気にする子供ではあったけど、それでも殻を破るような気持ちで、大声を出して発表もした。
今の私が完璧になったかといえば、全然そんなことはない。
まだ人の目は気になるし、失敗することはこの世の何よりも怖いし、きっと八方美人のままだ。
誰に話しかけられても愛想笑いしてしまうし、自分のイメージを下げるような真似はしたくない。その癖に結構顔に出る。
劣等感の塊だし、人を攻撃することに罪悪感があまりないし、嫌いな人も多い。
けど、それでも。
「上手くいかなくてもいい」と思えるようになった。
人に弱みを見せられるようになった。
人に甘えられるようになった。
苦手な人から遠ざかれるようになった。
失敗した自分も受け入れられるようになった。
自分の努力は認められるようになった。
自分を肯定できるようになった。
自分を少しだけ、信じられるようになった。
それだけでも、今の所はけっこう楽しい。
【蝶よ花よ】
庭に咲いたペチュニアに蝶が集まる。白に黄色にピンクといった様々な色の花びらに、モンシロチョウやアゲハチョウがワルツを踊るみたいに舞っていた。
ヒマワリの、絵の具で塗ったように明るい黄色が空を彩る。アサガオのつるはネットに巻きついてするすると伸び、立派なグリーンカーテンを作っている。
アジサイは、土の酸性度によって色が変化するらしい。庭のアジサイは赤の混じったような紫色。「昔は濃い青色だった、きっとアジサイも歳をとっているんだね」と、おばあちゃんは言っていた。
薄い緑色のじょうろに水をたっぷり入れる。今は芽すら出ていない植木鉢にも、しっかり水を与えておいた。湿った土の匂いが鼻をくすぐる。
ホースで水を撒かないのは、足でしっかり土を踏んで雑草を生やさないようにするためだ。梅雨の時期なんかに少し庭を歩かないだけで、雑草はすぐに生い茂ってくる。根っこが土に埋まっている花もあるから、除草剤は使えない。
「ふう・・・ちょっと休憩」
じょうろを置いて、ベンチに腰かける。今日は鉢替えをしたし、水もいつもよりしっかり撒いた。
これをおばあちゃんも毎日やっていたんだと思うと、本当に頭が上がらない。いつも腰が痛いと言っていたのに、庭の手入れだけは決して欠かさなかった。私はおばあちゃんと同じ歳になっても、変わらずこれを続けられるだろうか。
思い出す。よくおばあちゃんが言っていた言葉。
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「昔、『秘密の花園』っていう本を読んでね、おばあちゃんは自分だけのお庭を持ちたくなったの」
そんな話を聞いたのは、おばあちゃんと一緒に水やりをしていたときだった。
夏休みに入る前に学校から持って帰ってきたアサガオ。クラスの誰よりも早く花が咲いて、自慢げにおばあちゃんに見せていた。
おばあちゃんはそれはもうたくさん褒めてくれて、それからはおばあちゃんの家で水をやるのが日課になっていた。
「ひみつのはなぞの?」
「そう。偏屈な女の子が、自分だけのお庭を見つけて、だんだん明るく元気になっていくお話」
そう言って庭を眺めるおばあちゃんの横顔は、なんだかいつもより若くて、まるで夢見る少女みたいだと思った。
おばあちゃんの庭の手入れは、それはもう丁寧だった。苗替えから始まって、鉢替え、水やり、剪定。全部に愛がこもっているようで、私はおばあちゃんのそんな姿を見るのが好きだった。
「花園っていうほど豪華なお庭にはできなかったし、秘密でもなんでもないけれど、それでも私はこのお庭が好きよ。お花に誘われてやってくる小さいお客様も、とても素敵だと思うもの」
「はちさんとか、ちょうちょさんのこと?」
「そうね、ミミズさんやダンゴムシさんなんかも。特に蝶々さんなんか、色んなドレスを着てるみたいじゃない?」
「うん!わたしね、あお色のちょうちょさんがすき!」
「あら、そうなの!毎日お庭のお手伝いをしてくれたら、来てくれるかもしれないわね」
「ほんと!?じゃあわたし、いっぱいおてつだいする!」
約束ね、と言って、私とおばあちゃんは指切りをした。それから二十年ほどたった今も、私はまだおばあちゃんとの約束を守っている。
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ふと見ると、ひらひらと、目の前を蝶が舞った。
「あ、」
それは、空の色を分けてもらったような、淡い青色をしていた。
まるで、おばあちゃんと話したあの蝶のように。
思わず立ち上がり、蝶の行く方へと駆け出す。蝶はふわふわと飛び、やがてアサガオの花にとまった。
「私のアサガオにとまった・・・」
おばあちゃんが枯れないようにと、ネットに巻き付かせたアサガオ。昔、私が持って帰ってきた、あの夏休みの、アサガオ。
まるで秘密の花園のコマドリのようだと、思った。
それとも、おばあちゃんが褒めてくれているのだろうか。
少し羽を休めたあと、蝶はすぐに羽を広げて飛んだ。
どこに行こうか迷うように、蝶はひらひらと宙を舞う。と思うと、行先が決まったのか、一直線に飛び始めた。
上を見上げる。そこには二、三羽ほど、同じ青色の蝶が飛んでいた。
太陽の光に透けて、羽の青色が地面を照らす。薄く染まった土は、きらきらと輝いて見えた。
「また、来てくれるかな」
今度は、あの蝶たちも一緒に。
気づけば、さっきまでの疲れが嘘のように吹き飛んでいた。
思わず笑みがこぼれる。今日はいつもより、頑張れる気がした。
『人生はごくたまに、自分がいつまでも永遠に生きられると確信できる瞬間が訪れる』
【最初から決まってた】
「運命論って知ってる?」
冷房の効いた教室で、あなたが私に言った。夏休み中の学校。選択式の補習で、哲学を選んだのは私達だけ。だから、先生もプリントだけ渡して職員室に戻ってて、ほとんど自習みたいなものだった。
「それ、資料集に載ってたやつでしょ」
「当たり。世界の全ての事柄は運命によって定められていて、人間の意志や努力では全く変更できないっていう人生観のことね」
ノートの端にマルを書きながら、頬杖をついたあなたが言う。真っ黒な柔らかい髪の毛が、あなたの顔を隠した。
もったいないな、せっかく綺麗な目をしてるのに。
少しぼうっとした頭でそう考える。
窓も扉も閉め切っているのに、蝉の声がやけに鮮明に聞こえた。涼しいはずの教室で、なぜか少しだけ汗ばむ。
「・・・どうしたの?」
気づけば、あなたの髪の毛に手を伸ばしていた。
「いや、なんていうか、邪魔じゃないかなって、思って」
驚いたような顔が目に映る。あなたの、海の底みたいな深い青色の瞳と、焦点があった。
「へえ、優しいんだね。」
そっと、宙に伸ばしていた手の平をあなたの指が絡めとる。
顔に熱が集中するのを感じる。きっと今、あなたの目には真っ赤な顔をした私が映っているんだろう。
「ねえ、君が私の髪に手を伸ばしたのは、必然?」
細く、陶器みたいに滑らかな指に導かれて、私の手が、あなたの頬に触れる。手に移る温度。あなたの視線。
「この補習を選択したのは?私と二人きりになったのは?」
目を逸らそうと思うのに、逸らせない。あなたの視線が微かに、でも確かな熱をもって絡みつく。
思い出す。初めてあなたと会ったとき。今にも神様に攫われてしまいそうな、そんなあなたに目を奪われた。
それすら、必然だったのだろうか。
「・・・きっと、違うよ。私は私の意思で、この補習を選んで、あなたと二人きりになった」
あなたは黙り込んでいる。二人の息遣いだけが教室を支配した。
ゆっくり、あなたが頬から私の手を離そうとする。
「けれど」
あなたの動きが、止まる。
「人生における大事なことは、きっと既に決まっていて、私にとってのそれはきっと、あなたと出逢ったこと。私があなたを好きになったのも、きっと必然」
空いていた左手で、あなたの髪の毛をとる。まるで約束をするように、それに口付けた。
そっと顔をあげる。あなたはまるで乙女みたいに、頬を薄く染めて笑みをこぼした。
あなたの指が離れる。と同時に、あなたが首に抱きついてきた。
あなたの香りでいっぱいになる。近くに来ないと分からない、むせかえりそうな程に甘い香り。
私も、ゆっくり腕を回す。熱どうしが混じって、このまま境界線が溶けてしまいそうだった。
「ねえ、本当にそう思うなら、君の意思で私を奪ってくれる?」
「うん。あなたのためなら」
唇を近づける。目を瞑ったあなたの睫毛にさえ、触れてしまいそうだった。
あぁ、きっとこれも、最初から決まっていたんだろう。きっとあなたを好きになった瞬間から、私の運命は定められた。
あなたの唇が触れる。
蝉の声はもう聞こえなかった。