美しいもの。
一遍の曇りなき快晴の空。跳ね回る子羊のような雲、対価なき愛を歌う風。
微睡みを包み込む黎明、大地を照らす白昼、艶やかに着飾った夕暮れ、星々が子守唄を奏でる深夜。
光に手を伸ばす草花、根が土を抱く木々、共に息づく動物たち。
自然は、美しい。
同時に人の営みもまた、賞賛し尽くせない美しさを持つ。
石畳を踏む足音のメロディ、喧騒のアンサンブル、ページを捲る静かなアクセント。
礼拝堂のステンドグラスから降りる極彩色の光、途切れないネオンの光、人の瞳に宿る光。
煌びやかなショーウィンドウ、山肌に這う家々、夜の窓辺に盛れる灯り。
自然には決して作りえない、人工的な美。
美しいものは永遠ではない。
いつかその美しさは失われ、廃れ、埋もれて消えていく。
だが、その有限の美しさを享受し、あれは美しいのだと感じることこそが。
最も美しいのだと、私は感じた。
[美しい]
この世界は素晴らしいと、貴方は言った。
何もかもが美しく輝き、生命があちこちに溢れる楽園だと。
晴天のキャンバスに白雲が映え、風は楽しげなロンドを歌い、海は波音を奏でる偉大なる演奏家であると。
そう語った貴方の顔も、同様に輝いていたように思う。
この世界はろくでもないと、君は言った。
人間の発展とよって汚された星と、箱庭のような社会があるだけの地獄だと。
ヒトとカネとのしがらみに囚われて、毎日どこかで争いが起こり、描いた夢は打ち砕かれるだけであると。
そう吐き捨てた君は、今は穏やかに眠れているだろうか。
この世界は知らないことだらけだと、お前は言った。
身の回りで起きること、目に入るもの、聞こえる音、全てがお前にとっては知らないものだと。
なぜ、どうして、なんでを繰り返し、答えを知ることが楽しくてかなわないのであると。
そう笑ったお前は、今も知ることをやめないのだろう。
この世界は、見る者によって姿を変えるのだろう。
私が見ている世界は、貴方にとっては素晴らしく、君にとってはろくでもなく、お前にとっては未知だらけ。
太陽の光を浴びて、毎日が楽しいと言う者もいる。
夜の闇に焦がれて、明日が来なければいいと言う者もいる。
見ているものが違うだけか、見ているものが姿を変えるのか。
それは誰にもわからない。
皆それぞれ、見ているものは違うのだから。
私が見ている世界を、違う誰かが完全に理解することはできない。
私も、違う誰かの世界を理解することはできない。
だからせめて、私の見ている世界が、感じているものが、少しでも誰かに触れられて、想像し得るように。
私は、文字を紡ぐのだ。
[この世界は]
「捨てないの。」
何を、と聞き返せば、これと指さされた古い手ぶくろ。
もう随分使い古して草臥れたそれは、目の前にいる君から貰ったもの。
「捨てないよ。」
「なんで。」
「君から貰ったから。」
灰色の毛糸で編まれていて、冬らしい模様の入ったそれ。
何とも可愛らしいデザインのそれは君が初めて人に送るものだと、真剣に選んでくれたのを知っている。
気恥ずかしそうに、少し乱暴に押し付けてきたことも、よく覚えている。
そっぽを向いた君の耳が赤かったことも。
「ボロボロじゃん。」
「まだ使えるよ。」
「新しいのにすればいいのに。」
確かに毛糸に隙間が空いて、寒さがじんわり沁みてくるようになった。
それでもまだまだ使うつもりだ。
例え穴が空いてもう使えなくなったとて、大事にしまっておく。
贈り物を選んでくれた君の気持ちを、捨ててしまいたくはないから。
「じゃあ、新しいのやるから。」
それなら使ってくれんの、と君は言う。
新しいものを買え、ではなく、くれるという君。
大切に思われているものだと、頬が緩んだ。
「君が選んでくれたものなら、何でも。」
不器用で、口下手で、恥ずかしがり屋な君。
あぁほら、また耳が赤くなっているよ。
[手ぶくろ]
「…………さっっっむ……」
目覚ましのアラームに叩き起された午前6時半。
ぼんやり2度寝をかましたい、と思う間もなくやって来る、寒さ。
毛布から飛び出した足や顔が、とんでもなく冷たい。
慌てて毛布の中に引っ込めば、もう外には出たくなくなる。
「さむすぎじゃん……?まだ11月じゃん……?」
布団の中でぶつくさ言いながら、スマホで今日の気温を確かめる。
午前6時、気温8度。
なんなんだ、寒すぎ。
もう一度言おう、まだ11月だろ。
いかんせん寒すぎて、何もやる気がしない。
ずっとお布団の中にいたい。
「起きたくないんじゃあ……」
起きたくはないが、起きなきゃ仕事に遅刻する。
しぶしぶ布団から這い出て床に足をつければ、ぞわぞわ這い上がってくる冷たさ。
ぴょんぴょん跳ねるように移動して、急いで靴下を履く。
去年も同じようなことしたなぁ、と思いつつ、朝ごはんの準備。
1年周期でやって来るこの寒さ、最近来るのが早いような気がしないでもないけれど、存外嫌いじゃない。
あったかいものが美味しくなる季節だ。
今日の夕飯はラーメンにしようかなぁ、とか考えながら、カーテンの隙間から差す白い光を眺めた。
[冬のはじまり]
愛情の種類は多岐に渡る。
家族愛、自己愛、庇護愛、友情愛。
好きなことに対する「好き」という気持ちも、愛情に含めるのだろう。
だけれど、キミに向けるこの「愛情」は、そのどれにも当てはまらない。
(……欲しい。)
キミのその艶やかな髪が欲しい。
手に吸い付くような、滑らかな肌が欲しい。
心地好く鼓膜を揺らす、その声が欲しい。
快晴の空を閉じ込めたような、穢れなき瞳が欲しい。
髪の一本から爪の一欠片まで、キミという存在を構成する全てが欲しい。
(欲しい、欲しい。)
キミが他の誰かと喋っているだけで気分が悪い。
輝くような笑顔を他の誰かに向けているだけで我慢がならない。
その瞳に他の誰かを写しているだけで、腸が煮えくり返る。
キミに、オレ以外の誰かを見てほしくない。
歪んでいる、それはわかっている。
こんな感情、キミに知られたらどうなることか。
気味悪がって離れていくだろうか。
近づくなと拒絶されるだろうか。
例え拒絶されたとしても、オレはキミを閉じ込めて、一生外に出さなくしてしまうだろうけど。
あぁ、キミが笑っている。
オレ以外の誰かを、その双眸に写して笑っている。
何がそんなに楽しいんだ。
どうしてオレ以外の奴を見ているんだ。
どうして、オレを見てくれないんだ。
なぁ、なぁ。
「キミは、よく笑うな。」
[愛情]