夢を見る。
夏の景色だ。
ただ青く蒼い空にそびえる入道雲。肌を焼く太陽。生命の限り鳴き続ける蝉たち。
田舎の祖父の家を出て、じりじり焼けた坂道を駆け下って。
滅多に遮断機の下がらない踏切の手前、人の好いおばあさんがいる駄菓子屋のアイスを買って。
踏切の向こうの、煌めく海に向かって走っていた。
夢を見る。
子供の頃の景色だ。
今より色んなものが大きかった。色んなものが輝いて見えた。
虫取り網と虫かごを持って野原を駆け回って、捕まえた大きなカマキリを自慢して回った。
服も脱がずに海に飛び込んでも、上がればすぐに乾いてしまう。
その後帰って、洗濯をする祖母にお小言をもらっていた。
夢を見る。
君がまだ、手の届く場所にいた頃の夢だ。
いつも一緒にいた。何処へ行くにも二人だった。それが当たり前だった。
二人で走り回って、はしゃいで、遊んで、汗まみれになって、買ったアイスを半分ずつ食べた。
君は確かにそこにいた。
笑った顔も、悪戯が成功したときの顔も、やり返したときの顔も。
みんなみんな、覚えているのに。
(……夏、って。こんなに静かだったっけ。)
記憶の中の君の声が、蝉の声に掻き消されて霞んでいった。
[夏]
「大切なもの、くださいな。代わりにあなたのお願い1つ、なんでも叶えてあげるから。」
フードを被った幼子は、小さくて可愛らしい手のひらを此方に差し出す。
白くて柔らかそうなその手は、何かを催促するように揺れている。
「……大切なもの?」
「くださいな、くださいな。代わりにお願い、叶えてあげる。」
歌うように独特の節をつけて、幼子が言う。
フードで顔の見えないその子の声を、何処かで聞いたことがあるような気がする。
大切なもの、一体何だろうか。
家族?友人?居場所?お金?それとも、自分の命か。
どれも大切だが、どうにも違う気もする。
「大切なものって、なに?」
「大切なもの、あなたの思い出。楽しかったこと、悲しかったこと、怒ったこと、嬉しかったこと。
みんな欲しい、ぜんぶ欲しい。あなたの思い出、ぼくは欲しい。」
「思い出……」
「叶えるお願い、なんでもいい。なんでも叶う。
だから、思い出くださいな。」
早く、早くと幼子の手が急かす。
思い出。
今まで生きてきた分の思い出と引き換えに、1つだけなんでも願いが叶うという。
とても、魅力的に聞こえる話だ。
願いはなんでもいいと言う。
億万長者になることも、世界の頂点に立つこともできるのだろう。
だけれど、それは。
本当に、今までの思い出と引き換えるに値するものだろうか。
「……あげない。」
「?」
「悪いけど、僕の思い出はあげられない。どんな願いが叶うとしてもね。」
「……」
幼子が口を閉ざす。
此方を少し見上げたその顔は、相変わらずフードに隠れていて見えない。
やがて幼子は、ゆるりと口元を緩めた。
「あなたは正しい、間違えなかった。
あなたの思い出、あなただけのもの。決して忘れないで。」
幼子の姿が、だんだんぼやけていく。
姿が見えなくなる寸前、外れたフードの下から現れたのは、微笑む幼い自分の顔だった。
[大切なもの]
[1つだけ]
貴方に、幸せになって欲しいと。
そう言った君はいなくなってしまった。
思えば君は一度たりとも、「幸せにする」とは言わなかった。
聡明な君は気づいていたのだろう。
自分と私の時間の流れ方が違うことに。
ずっと一緒には、いられないことに。
君は随分色んなものを遺していった。
揃いがいいと買ってきたマグカップ、私に似ていると言った人形、よくくるまっていたブランケット。
きっともう手に取ることはないけれど、捨てることもない。
君との記憶が蘇るのも、失われるのも恐ろしいから、どうにもできないでそのままになる。
君が思っていたより、私は臆病だから。
ここには誰も来ないから、私の屋敷に人の声が響くことももうない。
君と初めて会ったとき、随分喋っていなかったから声の出し方がわからなくなった。
君は私が喋れないと思い込んでいて、暫くしてから話しかけたら随分驚いていた。
あのときの顔は面白かったけれど、もう見ることもない。
私はいつから私が在ったのかわからない。
私がいつ朽ちてなくなるのか、それすらもわからない。
恐らく私はそういうもので、君のところに行くのは気が遠くなるほど先だろう。
それでも、君は待っていてくれるだろうか。
いつものように呆れて、「仕方ないな」と笑ってくれるだろうか。
今となってはわからないから、待っていてくれるのを願うばかりだ。
ひとりになった屋敷で、考えるのは君のことばかり。
幸せになって欲しいだなんて、無責任なことを言ってくれるものだ。
私の幸せはとうに過ぎ去ってしまって、もう手の届かないところにある。
君は聡明だったけれど、最後の最期でひとつ間違えた。
君は私がひとりでも幸せになれると思っていた。
私もそう思っていたのだけれど、どうやらそうではないらしい。
嗚呼、もういなくなってしまった君よ。
私の幸せと一緒に、戻ってきてはくれないか。
[幸せに]
「あら、何書いてんのよ?」
「日記。」
「日記?飽き性のアンタが?」
「やかましーわ。続けるし、多分。」
「多分って。なんで急に日記なんて書こうと思ったの?」
「別に。何となく書きたくなっただけ。」
「ふーん、すぐ飽きるわね。」
「うるせ。」
そんな会話をしたのが、もう遠い昔のことに思える。
アイツが死んで一週間、忙しすぎて日記のことなんてすっかり忘れていた。
クローゼットから引っ張り出した、樟脳の匂いがする喪服のまま、安っぽいノートを開く。
五冊一組で売られているようなノートの一番初めには、お世辞にも綺麗とは言えない字が綴られていた。
『今日病院に行ったら、脳に腫瘍が見つかった。
もう手術でもどうにもならないくらいになっているらしい。
余命は一年半。入院するか聞かれたけど断った。家にはそんな金ないから。
いつ死ぬかわからんし、とりあえず今日から日記をつけよう。
俺の飽き性が発揮されないことを祈る。』
「……飽き性って自覚はあったんだ。」
日記は、一日か二日おきに書かれていた。
普通日記って毎日書くもんじゃないだろうかと思ったが、飽き性のアイツのことだ。
ぱらぱらと捲っていくと、その日あったことや食べたものが綴られている。
時々、病院へ行ったときの記録もあった。
『頭痛と吐き気が酷い。朝起きられないし、食欲もない。入院を勧められたけど、しない。
死ぬなら家で死にたい。』
「頑固な奴……」
日記は次第に飛び飛びに、内容も短くなっていった。
筆跡も乱れ、読めない字も増える。
何か水分が垂れ落ちて、滲んだ字もあった。
『怖い 痛くて眠れない こわい、いたい。
しにたくない』
「……そんなこと、一言も言ってなかったじゃない。」
死の直前まで、アイツはあの飄々とした腹の立つ態度を崩さなかった。
なのに、本当は死ぬのに怯えていた。
一言だって弱音は吐かなかったし、弱った姿すら見せなかったのに。
死の一週間前、日記は途切れた。
強い筆圧で文字を書いて、そのページを破りとった痕跡だけがある。
ぐしゃぐしゃになったページを流し見していく。
四分の一ほど残ったノートを閉じようとしたとき、一番最後のページに文章があるのに気がついた。
『多分お前はこの日記のこと覚えてるだろうから、お前宛に書いとく。
病気のこと隠しててすまん。でもホントに、もうどうしようもなかったんだよな。
何しても死ぬっぽかったし、お前に知らせてジメジメすんの嫌だったから。
お前多分、怒ってるよな。イライラしたまま喪主とかやってくれてんのかも(てかやってください)。
怒って周りにあたって、それで抜け殻みたいになってんだろ。俺にはわかる。
お前は不器用だから、俺がいなくなってどうすればいいかわかんねぇと思う。
なので、言いたいことが一つある。
俺のことはさっさと忘れること。それがお前の幸せのため。
わかったらこの日記は捨てて、俺の私物も全部捨てて、もう一回歩いていくこと。
そうすればお前は、一人で立ち直れるから。
最後に、これだけ。
一回も言わなかったけどお前のこと、めっちゃ好きだから。』
「…………馬っっっ鹿じゃないの!!!」
ノートを閉じて、投げ捨てようとして、やめる。
否、出来なかった。
だって、だって。
自分はアイツの異常に気が付かなかったのに、アイツは自分のことを、こんなにも。
「馬鹿じゃない……馬鹿よ、ほんと……忘れさせる気、ないじゃないの……」
視界が滲む。嗚咽が漏れる。
どうして、アイツが死んだ。
世界中に数多いる人間の中で、どうしてアイツが選ばれた。
どうして自分は、一人になった。
喪服がぐしゃぐしゃになるのも構わずに、その場に蹲った。
『まぁまぁ、そんなに泣かねぇで。』
自分の泣き声に紛れて、呆れたようなアイツの声が聞こえた、気がした。
[閉ざされた日記]
「はじめまして。」
何度繰り返したか、何度振り出しに戻ったか。
顔を見る度にお前は俺を忘れて、余所行きの笑顔で笑いかけてきた。
俺の名前を何度も教えた。その度にお前は漢字も覚えようとした。
同じ話を何度もした。その度にお前は笑った。
いつでも同じものを持っていった。お前は飽きることなく喜んだ。
「はじめまして」を告げられる度、胸の奥がきりきりと傷んだ。
覚えていてほしかった。忘れないでほしかった。
「はじめまして」を聞くのは、もう嫌だった。
けれど、それでも。
「はじめまして」を聞くのは、確かに嫌だったけれど。
「さようなら」が聞きたいわけじゃあ、なかったんだ。
ひゅうと木枯らしが駆け抜ける。
冷たい風、如何なる者にも平等で、無慈悲な風。
頬を刺すそれはどこまでも乾いて、寂しかった。
[木枯らし]