貴方に、幸せになって欲しいと。
そう言った君はいなくなってしまった。
思えば君は一度たりとも、「幸せにする」とは言わなかった。
聡明な君は気づいていたのだろう。
自分と私の時間の流れ方が違うことに。
ずっと一緒には、いられないことに。
君は随分色んなものを遺していった。
揃いがいいと買ってきたマグカップ、私に似ていると言った人形、よくくるまっていたブランケット。
きっともう手に取ることはないけれど、捨てることもない。
君との記憶が蘇るのも、失われるのも恐ろしいから、どうにもできないでそのままになる。
君が思っていたより、私は臆病だから。
ここには誰も来ないから、私の屋敷に人の声が響くことももうない。
君と初めて会ったとき、随分喋っていなかったから声の出し方がわからなくなった。
君は私が喋れないと思い込んでいて、暫くしてから話しかけたら随分驚いていた。
あのときの顔は面白かったけれど、もう見ることもない。
私はいつから私が在ったのかわからない。
私がいつ朽ちてなくなるのか、それすらもわからない。
恐らく私はそういうもので、君のところに行くのは気が遠くなるほど先だろう。
それでも、君は待っていてくれるだろうか。
いつものように呆れて、「仕方ないな」と笑ってくれるだろうか。
今となってはわからないから、待っていてくれるのを願うばかりだ。
ひとりになった屋敷で、考えるのは君のことばかり。
幸せになって欲しいだなんて、無責任なことを言ってくれるものだ。
私の幸せはとうに過ぎ去ってしまって、もう手の届かないところにある。
君は聡明だったけれど、最後の最期でひとつ間違えた。
君は私がひとりでも幸せになれると思っていた。
私もそう思っていたのだけれど、どうやらそうではないらしい。
嗚呼、もういなくなってしまった君よ。
私の幸せと一緒に、戻ってきてはくれないか。
[幸せに]
3/31/2024, 3:57:33 PM