「鈍感なのかなんなのか……」
少し馬鹿にしたようなキミの声が、二人きりの部屋に響く。
「大役終えて一息ついた途端に体調崩すとか、立派なオーバーワークだぜ。」
まぁ、そう言ってくれるな。
こちとら体調不良にも気がつけない程忙しかったのだから。
そう言い返したいけれど、風邪でイカれた喉は掠れた音しか出してはくれない。
代わりとでも言うように、懐で体温計が電子音を発する。
すっとそれを取ったキミは、表示された数字を見て言った。
「三十七度九分。まぁギリギリ微熱じゃねぇの。
これくらいだったらすぐ治るだろ。」
微熱とは言っても、今まで喉風邪一つ引いたことがなかったのだから、十分しんどい。
風邪がこんなに辛いなら、今までも風邪引いた人にもっと優しくしておけばよかった。
同じ境遇になったからこそわかるものが、この世界にはあるのだ。
「買い物行くけど、なんか欲しいもんあるか?」
「……ゼリー。」
「ん、了解。」
ぽんぽんとキミの手が頭で跳ねて、少し低い温度が離れていく。
冷たくて気持ちよかったのに。
バタンと扉が閉まって、部屋には一人ぼっち。
今出ていったばかりなのに、早く帰ってこないかと思うのも、風邪のせいなんだろう。
[微熱]
「―――!見てくれ!」
こっちを見て笑うお前の姿に重なる、真昼の太陽。
眩しさに目を細めれば、手を引かれて日向に連れ出される。
「向こうに珍しい鳥がいたんだ!」
「おー、わかったから落ち着けって。」
興奮した様子のお前は、ずいずいオレを引っ張っていく。
キラキラと輝く宝石のような目は、色鮮やかな世界を写している。
その輝きが、オレには眩しい。
(……あぁ、そうだ。お前はいつだってオレの先を行く。 )
スタートは横並びだったはずだった。
一緒に走り出して、同じものを見ていたはずだった。
それなのに、お前はいつの間にかオレの前にいて、オレはお前を追いかけてばかりで。
どれだけ走っても、あと少し追いつかない。
「―――、あの木まで競走しよう!」
「いいぜ、へばっても知らねぇからな?」
二人で顔を見合わせて、合図もなしに走り出す。
ぐんぐん加速して、走るお前は笑っている。
オレは途中で走るのをやめて、お前の後ろ姿を見ている。
(……)
お前はこれからもずっと、オレの先を行くんだろう。
走って走って走り続けて、オレに追いつかせてなどくれないのだろう。
(眩しい、なぁ。)
なぁ、太陽の輝きを瞳に宿した人。
誰よりも、何よりも明るく眩しい人よ。
その光の一端を、オレに掴ませてはくれないか。
[太陽の下で]
「やるよ。」
ぽい、と投げ渡された、何やら重くて暖かいもの。
顔に直撃したそれを見てみれば、真新しい毛糸のセーターだった。
「セーター?」
「冬服欲しいって言ってたろ。いいやつ買ったから、何年か使えるぞ。」
「……何で急に。」
贈り物をされるようなことをした覚えはないし、彼は何の理由もなしに物をくれるような性格でもない。
もしや何か企んでいるかと睨め付ければ、もごもごと口ごもって顔を逸らした。
「…………だよ。」
「え?何?」
「っ〜、だから!誕生日プレゼント!察せよ!」
「……あぁ!」
すっかり忘れていたが、そういえば今日は自分の誕生日だった。
何やかんやとやる事が多すぎて、頭の中から追い出されてしまっていた。
「覚えててくれたんだ。」
「当たり前だろ。……こ、恋人の、誕生日だし。」
「……照れてる?」
「照れてねぇ!」
耳まで真っ赤になっているのに、照れていないとはこれ如何に。
口は悪いが、初心な青年である。
「くふふ……ありがとう。」
「……どういたしまして。」
貰ったセーターは品がよく、何年でも使えそうだ。
これは、彼の誕生日にとっておきのプレゼントを送らねばなるまい。
一つ、楽しみな予定が増えた。
[セーター]
「落下する、という体験は、普通に生きていれば中々しないのではないかね。」
隣に立つ胡散臭い丸眼鏡の野郎は、赤い朱い夕陽を眺めながら呟く。
そりゃあそうだろう。
落っこちるなんてことが、しょっちゅうあってたまるものか。
「そんなに頻繁に落下したら堪らない、と思っているね。」
此方の考えを読んでいたかのように、眼鏡野郎は言う。
嗚呼、腹立たしい。
今すぐそのにやけ顔を張り倒してやりたいくらいだ。
「落ちる、墜ちる、堕ちる。
物が落ちる、鳥が墜ちる、信用が地に堕ちる。
考えてみれば、落下するということにも中々種類があるものだ。」
さっきから何を言っているのだ、この眼鏡野郎は。
大學なんぞを出たお偉いお方の言うことは、さっぱり理解できやしない。
「通常、落下すると言えば、落ちた地点から戻れなくなるような状態を言うが……」
眼鏡野郎は、ずいと崖下を覗き込む。
餓鬼の頃よく遊んだ近所の沼みてぇなどろどろが、どんどん上に上がってくる。
あれに呑み込まれたら……想像できねぇ分、恐ろしい。
「……君。博打はやるかい?」
「ぁあ?やるけどよ。」
「ならば、一つ賭けてみないか。
この下に飛び込んで、元の世界に戻る、ということに。」
「はぁ?」
随分、部の悪い賭けだ。
負けて当然、引き分けて万々歳。
だが、このままここでこうしていたって、何にもなりゃしない。
「……勝ち筋があるんだよな?」
「勿論。僕を信じるのならね。」
眼鏡野郎を信じるのは癪だが、仕方ねぇ。
戻ったら飯の一つでも奢らせてやろう。
「乗った。一世一代の大博打といこうじゃあねぇか。」
「思い切りのいい男は好ましいね。」
どろどろが這い上がってくる。
眼鏡野郎が先に飛んだ。
俺も続いて飛び込む。
落ちる、墜ちる、堕ちる。
落ちる最中に見た眼鏡野郎は、相も変わらず腹立たしいにやけ顔だった。
[落ちていく]
はてさて困った、どうしたもんか。
机上には「進路希望調査」と書かれた紙。
ほとんど埋まったそこにぽつんと空いた空間、
「将来やりたいこと」の枠。
この、こいつだけが埋まらずに小一時間。
クラスメイトは全員とっくに書き終えて、さっさと提出して部活に行ってしまった。
あまりにもペンが動かない自分に苦笑して、
「書けたら出しに来いよ」と言って担任が出ていってから、早一時間。
思わぬ伏兵と、丸々二時間も相対していた。
自分だって、まさかこんなとこが書けないとは思いもしなかったのだ。
そりゃあ、事前に考えていたわけではないけれど、書き始めれば何か浮かぶと思っていた。
ところがどっこい、なぁんにも浮かびやしない。
将来やりたいこと、つまりなりたいもの、就きたい職業。
これっぽっちも思いつきやしなかった。
「将来の夢がないの?」と、皆様仰るだろうか。
答えは一択、あるわけない。
だってそうだろう、夢なんか見たって叶いやしないのだから。
子供の頃に考えていたなりたいもの、実際それになるのは至難の技だ。
それに、夢を叶えるにはお金がいる。
いい大学に入るために死に物狂いで勉強して、大学に入ったらまた勉強、卒業したら就職先を探して……
大学だって、国公立ならまだしも、私立ならとんでもないお金が掛かる。
お金が掛かっても入れればいいが、そもそも受験に失敗する可能性だってあるのだ。
皆夢のことなんかそっちのけで、机に齧り付く。
そんなんやってる内に、夢のことなんか頭の隅っこにも置いておけなくなる。
夢でお腹は膨れないし、理想で物は買えないから、現実を見て就職する。
そうして、世の大多数の人間は、取り替え可能な社会の歯車になって生きていくのだ。
子供の頃の将来の夢を叶えられる人間はひと握り。
さらに、それで成功する人なんざ、指先にちょんと乗る程度だ。
それでも、夢に向かって努力できる人は偉い。素晴らしい。できる人間だ。
自分はダメだ、努力もこつこつも嫌いで、欲に流されやすく芯が弱い人間。
こんなんが将来の夢を持ったって、その重みで動けなくなってしまうだけである。
本当は自分にだって将来の夢、なかったわけではない。
だけれど、勉強と人間関係の波に揉まれすぎて、どこかに落っことしてしまったようである。
今ではちっとも、影も形も思い出せない始末だ。
さてさて、真上を向いていた時計の長針は、今や真下を向いている。
二時間半の格闘の末、軍配はどうやらあちらに上がりそうだ。
本当に全く、恐ろしい同調圧力と平均化の社会だ。
こんな社会で生きていけなんて、一体。
[どうすればいいの?]