「捨てちゃうの?」
あどけない声に振り返れば、そこには幼い自分。
目の前のもの全てに目を輝かせて、好きなものを小さな腕いっぱいに抱え込んでいた頃の、無垢な子供。
薄汚い心も世の中の理不尽も、何も知らなかった頃の、馬鹿な、子供。
「捨てるよ。」
幼い自分から目を背けて、手にしていたものをゴミ袋に放り込む。
「もういらないから。」
ずっと集めていたキャラクターのカード、キラキラしたガラスの破片、何が描いてあるのかもわからない絵、友人に貰った手紙、まぁるいビー玉、ボロボロのぬいぐるみ。
全部全部、大切に仕舞っておいたものばかり。
「大切なものじゃないの?」
「……大切だよ。」
好きだから集めて、大切だから仕舞っておいた。
誰に見せるでもない、自慢するでもない。
ただ、自分の手の中にあるのが嬉しかった。
「でも、捨てないと。」
日記帳をゴミ袋に押し込む。
拙い字で綴られた頁が、ぐしゃりとシワを作った。
「捨てないと、『大人』になれないんだよ。」
「……ふぅん。」
幼い自分が、ゴミ袋の中を覗き込んだ。
せっかく捨てた色んなものを、また引っ張り出しては眺めている。
「変なの。大切なもの捨てなきゃいけないなら、僕大人になんなくていいよ。」
「……なんなきゃいけないんだよ、大人に。」
幾ら望んでいなくとも、否応なしに時間は進んでいく。
子供のままでいたいと願っても、社会はそれを許容しない。
そうして皆、子供の頃の大切なものに蓋をして、ゴミ袋に放り込んで、全部捨て去って大人になるのだ。
それが、社会の『当たり前』なのだから。
「ねぇ、捨てるなら僕にちょうだい。」
「……ぇ、」
幼い自分が取り出した、ほつれたクマのぬいぐるみ。
いつ貰ったのかもわからない、大切なもの。
本当に、大切だったもの。
「だって、いらないんでしょ?なら、僕がもらってもいいよね?」
「ぇ、あ、まって、」
色んなものを詰め込んだゴミ袋を、幼い自分が持ち上げる。
半透明の袋の中は、きらきらと色鮮やかに輝いている。
「捨てるんなら、僕がもらうよ。じゃあね。」
きらきら、きらきら。
幼い自分が持ち去っていくゴミ袋から、光がこぼれ落ちて尾を引いた。
光はどんどん遠くなり、小さくなっていく。
「待って!!」
伸ばした手は届かずに、光は闇に呑まれて消える。
後に残ったのは、空っぽな心だけ。
「……まって。」
本当に、大切だったんだよ。
[宝物]
火を灯す。
床も壁も、隙間が無いほどに敷き詰められたキャンドルに。
一つ一つ、小さな生命の火を灯す。
君はそれを、一つずつ消していく。
僕が灯したキャンドルを、乱暴に、握り潰すように。
僕が火を灯す度に君が消していくから、いつまで経ってもキャンドルはいっぱいにならない。
「どうして消すの。」
僕は尋ねた。
せっかく灯した生命の火なのに、どうしてそれを消してしまうのか。
君は、小さな火で酷い火傷になった手のひらを僕に見せた。
「少し触っただけで、こうなる。」
「だったら、消さないで。」
「できない。だって、」
君は、火傷した手で僕の手を指さした。
「お前は、自分の手が燃えてることに気づいてない。」
言われてやっと、気がついた。
キャンドルに生命の火を灯すたびに、僕の手にも火がついていたこと。
増えすぎたキャンドルが、僕自身を焼いていたこと。
今までずっと気がつかなかつた。
「キャンドルが、増えすぎた。お前の手まで燃えるほど。」
キャンドルは、小さな灯りをちろちろと揺らしている。
今まで大切に守ってきた灯りが、急に冷たく、重いものに感じた。
「だから、減らさないと。」
君は笑って、キャンドルを一つ踏み砕いた。
***
そうして、全世界に拡散した一つの感染症によって、多くのキャンドルの灯りが消えた。
[キャンドル]
全部全部、連れていこう。
鞄に詰めて、ポケットに押し込んで、両の腕にも山ほど抱えて。
どれもこれも、捨てることができなかった。
片付けようとはしてみたけれど、どうにも手が止まってしまった。
片付けられないのなら、いっそ全部持っていこう。
無くさないように、落とさないように、忘れないように。
途中でいくつか転がっていくかもしれない。
僕はそれに気づかないかもしれない。
ころころ、ぽろぽろ、置いていかれてしまうかもしれない。
そんな時は、貴方が拾い上げてほしい。
返してくれようとしなくて構わない、僕は貴方の足を止めたくないから。
思い出そうとしてくれなくて構わない、僕は貴方の心を煩わせたくないから。
ただそっと拾い上げて、落としていったよ、莫迦な奴と笑っていてほしい。
そうしてどうか、心の隅に置いておいてほしい。
貴方にとっては、ただの過去の記憶かもしれない。
けれど僕にとっては、何よりも輝いて見える宝物だから。
いつかこの日が来ることは、出会ったときにわかっていた。
僕と貴方では、時間の流れが違うから。
僕は貴方に笑っていてほしい。
たとえそれが、顔をぐしゃぐしゃにした泣き笑いだったとしても。
ねぇ、僕の声が聞こえますか。
きっと貴方に僕の言葉は通じていないけれど、それでも僕は伝えたい。
貴方に出会えてよかった。
僕は世界で一番の幸せ者でした。
さぁ、もう行かなくちゃ。
止まることはできないから、全速力で走っていこう。
たくさんたくさんの宝物を、みんなみんな持っていこう。
走り出す前に、これだけは言わせてください。
「さよなら!!」
もう、僕は一人で大丈夫。
***
―――わんっ!!
あぁ、ちゃんと聞こえたよ。
お前の声は、届いているから。
「……さよなら。」
また会う時は、空の上で。
[たくさんの思い出]
「ばいばい。」
君がこの言葉を使う時は、僕の前からいなくなる時。
通学路の別れ道で、偶然会った外出先で、はたまた電話の切り際で。
君の口がその四文字を紡げば、君と僕の距離は遠くなる。
それでもいつも、「ばいばい」の次には「またね」があった。
そうすれば、君はまた僕の前に現れる。
「ばいばい」は、僕に次の機会を与えてくれる呪文でもあった。
けれどもう、「またね」はない。
思えばいつも、「ばいばい」と言うのは君からだった。
僕は君と過ごす時間が過ぎ去ってしまうのが惜しくて、言い出せないでいた。
君は困ったように眉を下げて、鈴の転がるような声で、僕に別れを告げた。
僕は、また次があるからと、安心してそれを聞いていた。
「ばいばい」は、一時の別れでしかなかったから。
今度は僕から、言わなければならない。
君はもう二度と、僕に次を与えてはくれない。
その口で別れの言葉を紡ぐこともできない。
だから、僕から君に、最上の別れの言葉を贈ろう。
「……ばいばい。」
白い棺の中、花に埋もれて眠る君へ。
永遠の別れを、四文字の呪文で。
[はなればなれ]
みゃおん。
小さな鳴き声に視線を上げれば、塀の上の子猫が此方を見下ろしている。
生まれてから大体二、三ヶ月程度か。
少し汚れた黒い毛並みに、星のように輝く金の瞳。
どうやら野良ではないようで、首に小さな鈴が括られていた。
「……何処の子?逃げてきたの。」
手を伸ばせば、逃げることなく擦り寄ってくる。
指先が鈴に触れて、ちりんと可愛らしい音がした。
「お前の飼い主、きっと探してるよ。」
そう言えば、反論するようにみゃおと鳴く。
苛立ったように首を振るその仕草に、見覚えがあった。
「……お前、あいつに似てる。」
此方の都合はお構いなし、考えなしで強引で、人の人生を散々狂わせて。
それでいて、呆気なく死んでしまったあいつに。
気に入らないことがあると、首を振って文句を言う、猫のようなあいつに。
みゃぁお。
嬉しそうに目を細めて、手の平に顔を擦り付ける姿が、あいつと重なって仕方ない。
あいつはもういないのに。
こんな小さな猫に、死んだ男を重ねて何になる。
「……ねぇ、お前。海行くの、好き?」
訊ねる声が震える。
あいつは海が好きだった。
何処までも、際限なく続く海の広さが好きなのだと。
そう言って笑うあいつが、好きだった。
確かに、好きだったのだ。
にゃあ。
「……ふ、はは。」
ゆらりと子猫の尻尾が揺れる。
思わずこぼれた笑い声、子猫の姿が涙で滲む。
「おまえ、わざわざ、あいにきたの。」
子猫は機嫌良さそうにもう一度、にゃあ、と鳴いた。
[子猫]