「落下する、という体験は、普通に生きていれば中々しないのではないかね。」
隣に立つ胡散臭い丸眼鏡の野郎は、赤い朱い夕陽を眺めながら呟く。
そりゃあそうだろう。
落っこちるなんてことが、しょっちゅうあってたまるものか。
「そんなに頻繁に落下したら堪らない、と思っているね。」
此方の考えを読んでいたかのように、眼鏡野郎は言う。
嗚呼、腹立たしい。
今すぐそのにやけ顔を張り倒してやりたいくらいだ。
「落ちる、墜ちる、堕ちる。
物が落ちる、鳥が墜ちる、信用が地に堕ちる。
考えてみれば、落下するということにも中々種類があるものだ。」
さっきから何を言っているのだ、この眼鏡野郎は。
大學なんぞを出たお偉いお方の言うことは、さっぱり理解できやしない。
「通常、落下すると言えば、落ちた地点から戻れなくなるような状態を言うが……」
眼鏡野郎は、ずいと崖下を覗き込む。
餓鬼の頃よく遊んだ近所の沼みてぇなどろどろが、どんどん上に上がってくる。
あれに呑み込まれたら……想像できねぇ分、恐ろしい。
「……君。博打はやるかい?」
「ぁあ?やるけどよ。」
「ならば、一つ賭けてみないか。
この下に飛び込んで、元の世界に戻る、ということに。」
「はぁ?」
随分、部の悪い賭けだ。
負けて当然、引き分けて万々歳。
だが、このままここでこうしていたって、何にもなりゃしない。
「……勝ち筋があるんだよな?」
「勿論。僕を信じるのならね。」
眼鏡野郎を信じるのは癪だが、仕方ねぇ。
戻ったら飯の一つでも奢らせてやろう。
「乗った。一世一代の大博打といこうじゃあねぇか。」
「思い切りのいい男は好ましいね。」
どろどろが這い上がってくる。
眼鏡野郎が先に飛んだ。
俺も続いて飛び込む。
落ちる、墜ちる、堕ちる。
落ちる最中に見た眼鏡野郎は、相も変わらず腹立たしいにやけ顔だった。
[落ちていく]
11/24/2023, 7:20:22 AM