夥しい量の赤、赤、赤。
その中心に赤い糸で雁字搦めにされた人間が両腕を左右に縛り上げられながら座り込んでいた。
もう何日経ったか分からない。判断力も鈍っている。体の自由を奪われようと、自分が愛した人間に何をされようと受け入れる以外に選択肢がない。
周りの人間はあんな女狂ってる、別れたほうがいい、なんて言ってくる。それがなんだって言うんだ。そんなのはじめからわかってた。俺はそれすらも愛しているんだ。何をされても互いに互いを捨てることはない。とっくの昔に俺たちは狂ってしまった。
俺がいる場所に彼女は帰ってくる。
既に視界には相手しか見えなくなっている。
愛に溺れるように、赤い糸が二人を飲み込んだ。
エアコンが点けっぱなしの部屋でスマホのアラームが鳴り響いている。一人の男が気怠そうにタオルケットをめくり起き上がる。
外ではセミが鳴き、空には入道雲が浮いている。何をするでもなく外に目を向け、入道雲がいくつも重なっては離れていくのをただ眺めていた。キャンバスに描かれたような雲に吸い込まれそうな感覚に陥る。
夏特有の心が躍る様な心地とほんの僅かな寂寥感が胸に溢れては消えていく。
男は無性にその場所から逃げ出したくなり、重量感のある入道雲に手を伸ばし、雲を掴もうとした手が虚しく空を切った。
高い、高い真っ青な空から二人の人間が落ちていく。絶望的と思われる状況だが二人の表情は晴れやかで希望さえ抱いているようだった。
「ねぇ!ほんとに現れたよ!」
「あははっ!だから言ったじゃん!」
この世界には、様々な条件が揃った時にだけ現れる別世界へと人間を連れて行ってくれる巨大な鯨が存在する、という言い伝えがあった。
互いにこの世界で居場所を無くした二人はその言い伝えを信じてこの瞬間を待ち続けていた。そして。
「あの鯨が連れてってくれるんでしょ!」
「そう!絶対に手を離さないでね!」
ぐんぐんと鯨に近づいていく。鯨が空を見上げ大きな口を開き二人を呑み込んだ瞬間、風が吹き上がり二人の意識は闇に消えた。
「いったい、どこで何をしてる。」
指輪を握りしめながら、誰に言うともない独り言が無機質な部屋の中に落ちていった。
あの日、目が覚めたとき目の前には指輪だけが置かれていた。俺があいつに贈った指輪だった。お前を守るための最善を選んだつもりだった。でも結局は俺達の独りよがりだったんだ。お前を失いたくはなかった。
ひと目でもいいから無事な姿を見せてくれ。それだけで、もう、十分だから。
目が覚めたら私の傍で倒れているあなたがいた。あのとき居たはずの他の二人の姿は見当たらなかった。眠りに落ちる前の記憶を思い出し、やるせない思いと、それでも燃え尽きることのない愛おしさが胸の中を支配した。わかってる。私の病気を治すためだったって。でも、約束したのに。最後はみんな一緒だって。どうして私に相談してくれなかったの。裏切られたのに恨みきれない私はどうしようもなく彼を、彼らを愛してしまっていて。
でも、どうしても赦すことができなくて。
訴えるような痛みを見ないふりをして、贈ってくれた指輪をまだ目覚めていない彼の前に置いた。
彼に背を向け歩き出す。私の後を追うように、地面に雫が落ちていった。
失敗なんて許されなかった。常に完璧を求められた。幼少期にそんな生活を強いられればどうなるかなんてわかりきったたことだった。
あの日、俺の中で何かが切れた。俺を守ろうとしてくれた母さんが傷だらけで倒れていたのを目にした瞬間、全てがどうでも良くなった。あの後俺は家を出て、表の世界で生きることを諦めた。
新しい世界は驚くほど穏やかで、自由に生きることができた。子供の頃の俺には思いつかないことも色々できた。何をしても誰にも怒られなかった。
だから俺は、ある計画を立てた。
暗い空に不釣り合いな色が浮かび上がる。全てを燃やし尽くす様な炎に呑まれた古巣を、俺は見下ろしていた。
そして、輝く星空を見上げ、世界の奥底へと深く、深く落ちていった。