波が押し寄せては引き返す。
海の浅瀬に俺は立っていた。周りには誰もいない。それもそうだろう。この時期の海にわざわざ近づく人間は誰もいない。そもそも今は夜だ。暗闇が辺り一面を支配している。
どうしても、どうしても彼女に会いたかった。
「 」
振り返ると、月と満天の星に囲まれた彼女が泣きそうな顔で俺を見ていた。
「ごめんな。泣かせるつもりじゃなかった。一人じゃ耐えられなかった。俺はお前と生きたかったんだ。」
これで、ずっと一緒だ。
蕾が開き、花が咲く。自身の存在を主張するかのように、花弁が暗闇で燦然と輝いている。光彩を放つ満月と花の下で、女は一人の男を待ち続けていた。
急がないと。必ず今夜でなければ彼女には会えない。
一人の男が息を切らしながら夜の街を走っていた。なんとか夜明けまでに約束の場所へ辿り着いた男は、息を呑むほどに美しい情景にしばし呼吸をするのを忘れたようだった。
月と花の光の中で佇んでいる彼女は、夜の女王そのものだった。
二人は肩を寄せ合い、これまでの時間を埋めるように寄り添っていた。
やがて空が白み始め、女の体は徐々に砂のように崩れていく。
「貴方に会えて本当によかった。また会える?」
「会えるよ、きっと。ずっと待ってるから。」
とうとう太陽が顔を出し、女は男の足下に花の種だけを残して、跡形もなく消え去ってしまった。
地に伏しながら、喘ぐように息を吐く。体の至る所が激しい痛みを訴えてくる。戸惑いや怒り、燃えるような激しい痛みで次々に涙がこみあげてくる。
なんで、お前がここに。ふざけるな。普通こんなことしねぇだろ。いかれてる。いつ、どこでバレたんだ。これまでずっと気付かれなかったのに。お前は気付いた素振りすら見せなかったのに。
何が起きたかわからないって顔してる。ずっと前から気付いてたよ。あなたが私に興味がなかったことくらい。あなたのことなら何だって分かる。好きな食べ物、行きつけの本屋、家族構成、交友関係。あなたが何を考えているのかも。だからこれまでずっと騙された”振り”をしていた。それでも別によかった。
でも、ごめんね。我慢がきかなくなっちゃった。
子どものころから欲しいものはどんな手を使ってでも手に入れてきた。私は、初めてあなたを見かけたときからずっとあなたが欲しかった。
でも苦しめたいわけじゃないの。すぐに楽にしてあげる。
滲む視界で、恍惚とした表情を浮かべたあいつが刃を振り下ろすのが、やけに遅く感じた。この苦しみから逃れられる瞬間を、只々待ち続けた。
暗い、暗い闇が私を飲み込もうとする。
空には月が浮かんでいるが、すぐに雲が覆い隠してしまう。闇は私が光の下に出ることを許さない。
何度も抜け出すことを試みた。あと少しで光の中に足を踏み入れることができたことだってある。でもその度に影から手が伸びて私を逃がしてはくれなかった。
もうすぐ夜が明ける。皆に平等に降り注ぐ日差しは、私にだけは決して当たることはない。
夥しい量の赤、赤、赤。
その中心に赤い糸で雁字搦めにされた人間が両腕を左右に縛り上げられながら座り込んでいた。
もう何日経ったか分からない。判断力も鈍っている。体の自由を奪われようと、自分が愛した人間に何をされようと受け入れる以外に選択肢がない。
周りの人間はあんな女狂ってる、別れたほうがいい、なんて言ってくる。それがなんだって言うんだ。そんなのはじめからわかってた。俺はそれすらも愛しているんだ。何をされても互いに互いを捨てることはない。とっくの昔に俺たちは狂ってしまった。
俺がいる場所に彼女は帰ってくる。
既に視界には相手しか見えなくなっている。
愛に溺れるように、赤い糸が二人を飲み込んだ。