頬に、触れた。
死んでしまったら、私というこの頭の中の葛藤はどうなるのか。
何度考えても、いくら考えても、結局これといってまとまった考えは出てこなかった。
痛みを失った視界が、徐々に遠くなるのに合わせて、そっと目を閉じた。
燦然と頭の中に散らばった考えや思い出や知識や何かが、水面のようにさざめき、霧散していく。
泥のような暗い何かが、意識の隅からぐるぐると押し寄せてくる。
これが死ということだろうか。
そんな気がした。
頬の位置まで持ち上げた手は、頬に触れたまでが精一杯だったというように、びたりと動かなかった。
動かせない手の指先に、ひっきりなしに透明の涙が濡れた。
拭うこともできない指に、涙はゆっくりと降り注いでいた。
手に染み込んでいく涙は温かった。
それは血を流しているようにも思えた。
悲しみも痛みも苦悩も恐怖も失って、ただ泥のように暗い何かに霧散していくことを、待ち続けている私に変わって、血を流してくれているようだった。
顔ももう見返すことはできなかった。
ただ、その柔らかな頬と温い涙の持ち主が、私を心の底から悼んでいる、ということだけは伝わってきた。
それは愛である気がした。
死に際に初めて見つけた、初めて受け取れる、小さな愛のような気がした。
何もなかった。
何もなくて、何もなかったからこそ、生死をかけたこの職務に携わった。
常に死を意識しながら生活し、そしてここで死ぬのだった。
愛なんて、期待していなかった。
なのに。
死ぬ際になって、私の指先は、小さな愛で濡れていた。
大して親しくもない、それでも少しの間、生活を共にした仲間の、小さな愛だった。
小さな愛が、私の手先を濡らしていた。
泥のような暗闇がとぐろを巻いた。
感覚は、霧散し、現れ、霧散し…まるで波のように途切れ途切れに押し寄せた。
考えは、思い出は、さざめきのようにゆらゆらと霧散し続けていた。
涙が、手を濡らした。
小さな愛が、滴り落ち続けていた。
焼き切れた靴が転がっている。
くすんだ大地に立ち、沈黙と恐怖に刺し貫かれた私たちの上に、快晴が横たわっている。
空はこんなにも青いのに。
皆、呆然と目の前の現実をただ見つめていた。
焼き切れた靴が転がっている。
ところどころ放電に黒く焦がされた服が、力なく泥に汚れている。
千切れた有刺鉄線は、水たまりに切れ端をつっこんで、放電し続けている。
一度足を止めると、もう足がすくんでしまう。
有刺鉄線はバチバチと剣呑な音を立てて、私たちを威嚇し続けている。
空はこんなにも青いのに。
雨が降ったのは、昨日のことだった。
降り頻る雨は、ボタボタと重たく、ザァザァと激しく、チャパチャパと優雅だった。
激しい雨と濡れた寒さに寄り添い、残酷な現実を耐え凌ぎながら、明日は晴れるだろう、ただその予測だけを希望にして、私たちはやっと、今日を迎えたのだった。
果たして、今日という日の空は、晴れ渡った。
昨日の雨が嘘のように、カラッとした日光が地面いっぱいに降り注ぎ、外に踏み出した途端、むわっとした暑さが顔に感じられるほど、今日の空は青かった。
空はこんなにも青いというのに。
身体の芯が、焼け落ちてしまったような気分だった。
身体の芯の芯、奥底にある、私たちが私たちであるための最も大切なカラフルな何かが、あっという間に炎に捲かれ、焼き焦げ、白黒の灰のように焼け落ちて、ものも言わず、希望を沸かせることもなく、ただただ、黙ってうず高く積もっているような気分だった。
空はこんなにも青いのに。
誰よりも仲間思いで真っ先に勇気を示した仲間は、分厚い電圧の流れる有刺鉄線の尖った切れ目に、ズック靴の横っ腹を刺し貫かれて、沈黙していた。
仲間だった物体の集合体が、ビクンと跳ね上がり、ただの物質となってダラリと落ちて、地面の泥を染みとして吸収していく様を、私たちはまざまざと目にすることに、なったのだった。
空はこんなにも青く、
そして、空はこんなにも広いのに。
水たまりの影響で多少ぬかるんだ地の中に、根でも生やしたかのように、私たちの足は、今や一歩も動かなかった。
有刺鉄線を飛び越えることも、くぐることも、元来た道を引き返すこともできず、私たちはただ茫然と、ぐったりと泥に濡れゆくばかりの私たちの一部だった仲間の果てと、有刺鉄線とを見つめていた。
根を植え付けられたまだ幼い大樹の、弱々しい苗のように。
私たちは一歩も動けず、動かず、ただ目の前の痛々しい現実を眺め続けていた。
雨は止んでいて、快晴だった。
カラッとした日光が降り注ぎ、ムワッとした生命力旺盛な夏の暑さが、身体中を包んでいた。
それでも、私たちは立ち尽くしていた。
これからの何もかもが燃え尽きて、白と黒をした死んだ灰のような気がした。
もう私たちのこれからに関わる何もかもが死んでしまって、私たちはもう終わっているような感覚だった。
頬を水分が伝っていった。貴重な水分が体外へ流れ出していった。もうどうでもよかった。
空はこんなにも青いのに。
空はこんなにも広いのに。
私たちはただじっと、泣いていた。
足を地面に縫い付けて、ただじっと。
天使は確かに、人智を超えて美しいが、人を堕落させるために現れる悪魔もまた、息を呑むほど美しい。
それが、たとえ、私たち人間の歴史や文化を脅かす侵略者だったとしても。
フクロウ頭、が、現れ、私たちを保護すべき野生動物とみなし、扱い始めてから、数週間経つ。
猛禽類らしい、卓越したムキムキの手足を持ち、鋭い爪を備え、羽毛に覆われたフクロウ頭の人類が、辺りを闊歩し始めた時、私たちは、世界中で争いの真っ最中だった。
その当時、私は、カメラを首にかけて灰色の大地を駆け回っていた。
私は、悪魔の美しさに魅了されていた。
私は、人間が作り出した悪魔に変わり果てさせられたボコボコの灰色の大地や、静まり返って色も生気もなくなった景色に横たわる鉄条網や、悪魔に取り憑かれたものたちに破壊尽くされて原型をとどめていない廃墟のコンクリートから飛び出した鉄骨や、どこまでも灰色に感じる地獄で見る空に、なぜだかある種の魅力を感じていた。
それは、戦時に生まれた私の、子供の頃の夢だった。
この世界に溢れている、残酷で悲惨だという、でも美しいこの風景の一瞬を、カメラに捉えたい、という、子供じみた単純な、なんの思想も考えもない夢だった。
そうして、子供の頃の夢を叶えたところに、あのフクロウ頭が現れたのだった。
彼らもある種また、別の種類の悪魔だった。
フクロウ頭は、私たち「下等な野生動物」たちの、「愚劣な同種争い」をやめさせることから始めた。
家畜に、実験動物に、躾けるよう、彼らは力尽くで、私たちに争いなどするまい、という「先進的な教訓」を染み込ませた。
フクロウ頭たちは、次に画一化を求めた。
「人間は人間らしく」
彼らにとって、人間は皆等しく人間であり、多様性や思想などないただの「人間という種類の動物の群れ」だった。
彼らは悪魔だった。
そんな時に、私はどうしたか。
私は、まだカメラを握っていた。
それはただ戦場というものを奪われた未練、とか、ニンゲンの歴史を保存しようという、無謀で高尚な考え、とかではない。
私は、魅了されていたのだ。
新たな悪魔の、美しさに。
フクロウ頭の、残酷で、非道で、理屈に合わない醜い美しさに。
子供の頃の夢だった。
私はただ、ただ、自分の美しいと思ったものを、ただ一瞬を、この不格好なカメラという箱に、閉じ込めたかっただけなのだ。
私はまだ、悪魔に魅了され続けている。
私はまだ、子供なのだ。
ただただ、子供の頃の夢の中で、延々と遊び続けているだけなのだ。
天使は確かに、人智を超えて美しい。
しかし、人を堕落させるために現れる悪魔もまた、息を呑むほど美しいのだ。
乾いた硝煙と、砂埃とが、静かに引き上げた静寂の時間だった。
土埃と汗と泥に塗れた人々が転がり、その頭上には、分厚い沈黙が、のしかかっていた。
不意に、手首を掴んでいた。
白い僕の手首より、僅かに細い、ここにいる大半よりは華奢な手首を。
確かに掴んだ。
掴む立場ではなくとも。
掴む必要もきっとないのだと分かっていても。
掴む。
掴んで、握ってしまった。
握った手首の先で、驚いたような顔をしていた。
怒鳴って張り飛ばす時の鬼の形相や、こちらを宥めるように微笑む顔は見慣れていたけれど、そんな顔は初めて見た。
眉を軽く持ち上げて、不意をつかれたような、そんな素の顔は。
かわいい、と思った。
いつも、勇ましいとか、カッコイイとか、そんな風に思っていたのに。
どこにも行かないで、なんて思ってしまったのだ。
土埃と泥と汗に塗れたこの世界で。
ここに止まり、居続けること自体が、危険で、恐ろしくて、最悪なことだというのに。
そして何より、彼女に一番迷惑をかけているのは、そんなことに気づかないようなフリをして、馬鹿のように死地へ向かっていく僕だというのに。
もう、どこにもいたくない。
そんな投げやりな無気力のおかげで、こんな場所でも無邪気に振る舞える、邪気まみれの僕に、振り回されているこの場所こそ、彼女が離れなくてはならない場所のはずなのに。
不審そうな顔をして、立ち止まった。
「…何かあった?いつもと顔つきが違うぞ」
そう聞いてくる口調と顔に、さっき、後片付けをしている方に向かおうとしていた彼女の横顔にあったような影は、消えていた。
どこにも行くな、は彼女のセリフだった。
実際、僕がこの地に配属になってからずっと、何度も、彼女が言っていた言葉でもあった。
やけっぱちで、無茶苦茶な突撃に向かおうとする僕の首根っこをひっ捕まえて、いつも怒鳴りつけていた。
「命を無駄にするな。人的資源を無駄にするな!勝手に出るな!どこにも行くな」
だから、その言葉が不意に、彼女に向けて、自分が心の底から湧き上がってきたのが、自分でも不思議だった。
けれど、今日の、戦況報告という名のありふれた訃報を聞いた彼女の横顔を、顔を見て、ハッと思ったのだ。
どこにも行かないで。
手首を掴んでいた。
言葉は、すんでのところで呑みこめた。
「…どうした?」
不審そうな顔から、不安そうな顔になった彼女が、私を覗き込んだ。
「…いえ!なんでも。」
喉から絞り出した。
いつものように、元気に、明るく聞こえるように。
思ったより、ずっと細くて華奢な手首だった。
僕を引き摺り込むあの時の力とは似つかない、柔らかい手首。
でも、僕を引き摺り込み、怒鳴る時のあの熱はそのままの、温かい手首。
どこにも行かないで。
どこにも行かないでくれ。
温もりも、何もかもそのままに、この場所に硝煙も血の匂いもなくなって、穏やかに生きられるまで。
できるだけ長く。
どこにも行かないで。
あの時の、手首を掴んだ時の感触とこんこんと湧き上がってきたこの気持ちを、僕は生涯、忘れられないだろう、そんな予感がした。
そして、この気持ちが僕を埋め尽くすのは、これが最初で最期なのだろう、と。そんな予感が。
怪訝そうな心配そうな瞳が、僕を見ていた。
握られたままの手首が、所在なさげに、心配そうに項垂れていた。
どこにも行かないで。
どこにも行かないでくれ。
ただ強く、そう思った。
記憶の中の君の背中は、いつも、乾いた硝煙と砂埃の向こうに見えた。
土埃と、汗と、泥とに塗れた人々の上に、分厚い銃声がのしかかっていた。
君の背中を追っていたのは、私が惚れたというわけでもなく、君が優れた上官だったというわけでも、勇気に溢れていたわけでもなくて、ただ君が、現場を知らない無能の命令にすら忠実に、無鉄砲に突進する、素直だけが取り柄な忌々しい新兵だから、という理由だった。
前時代的な老兵が語る武勇伝や英雄譚に屈託なく目を輝かせるアホンダラな君の襟首を掴んで、塹壕に引き摺り込む必要があった、或いは、君の死角のカバーのために、君の背中を追って君の元までいく必要があった、というだけだった。
土埃に似合わないむつかしい方程式を解ける頭を持っていて、体力はないのに無駄に愛嬌があって、色白で、女みたいだ、なんて可愛がられて、その冗談の勢いで、私の部下になった奴だった。
性懲りも無く、無邪気に戦線へ向かっていって、私はその度に君の背中を追って一走りせねばならなかった。
そんな数年間だった。
怒鳴られれば首をすくめて、目が合えば屈託なく笑い、命令を受ければ張り切って敬礼をした。
そんな君の背中を追わずによくなって、もう10年が経とうとしていた。
君の背中を追わなくなって、私の前方は随分静かになった。
君のように、騒がしくて無鉄砲で向こう見ずな奴、そうそういないからだった。
私の前方は随分静かになった。
ちょっとの油断、ちょっとの隙が致命的になる。
土と汗と泥と血に塗れたここは、そういうところだった。
時折、向こうの土埃の中に、君の背中を見る時がある。
もう10年も経ったというのに、君の背中は相変わらず無鉄砲で、生気に満ちていて、元気で、まだ若いままだ。
もう追う必要も、私が心配する権利もない、君の背中。
それでも、時折、私は君の背中を追ってしまうのだ。
土埃の中に、勢いよく駆け出す君の背中を。