薄墨

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2/7/2026, 1:48:52 AM

時間は反復だ、と誰かは言ったらしい。
昼が巡り、夜が来る。
日が昇り、沈む。
時計の針が12から進み、12に戻る。
だから時間は反復だ、と。

今日もまた、ポストには新聞が届く。
私は律儀にそれを取りに行き、トーストを焼く。
時計の針がカチッ、と一分動く。
時間通りだ。六時五分。

新聞を傍に置いて、牛乳を注ぐ。
秒針がチチチチ…と時を刻んでいる。
将来必ず直面する数々の選別に備えて、きっちりスケジュール管理されていた幼稚園児の頃からの過去は、今も私に染み付いている。

焼き上がったトーストを皿に乗せ、テーブルまで運ぶ。
トーストを齧り、牛乳を一口飲んでから、新聞を開く。
機械的に見出しに目を通す。
自分に関わりのあるニュースはないだろうか、と考えながら。

スケジュールを分単位で管理される生活が、つらくなかったと言えば嘘になる。
しかし、安心はできた。

だって、今日が上手くいかなくても、明日も同じように過ぎていく。
今日の六時五分が上手くいかなくとも、明日も同じように六時五分が反復する。戻ってくる。
これが、毎日別の行動をしていれば、予定が狂ってしまうから、やり直しはできない。
しかし、スケジュールを分単位で守っていれば、話は変わる。

もう一度やり直せるのだ。同じ六時五分、同じ八時十分、同じ十九時五十五分を。

だから、私はスケジュールをきっちり守る、窮屈な暮らしも別に嫌いではなかった。
弟妹は嫌いだったようだが。
元恋人も理解できなかったようだが。

到底完璧からは程遠く、何度も何度も反復してようやくモノを覚えるような要領の悪い私には、突発的に行動して、何もやり直せなくなることの方が、ずっと怖かった。

今の親友がまだクラスメイト、という感じだったあの日、私は初めて他人にそんな話をした。
奴は快活に笑って言った。
「お前、時計の針みたいな奴だな」
散々笑われたが、悪い気はしなかった。

それから、私は時計の針になった。
やたら自由を叫ぶ、制限がなくとものびのびと生きていける、優秀な他人の声を、さほど気にしなくても済むようになった。

私は時計の針だ。時計の針のような暮らししかできない。
しかし、時計の針にも、存在する意義がある。
時計の針にも、役目がある。

時計の針がカチリ、と動く。
新聞をめくり、トーストを一口齧る。
六時六分。今日も時間通りだ。

2/4/2026, 7:59:26 AM

傷が残ればよかったのに。
私の腕についた細い引っ掻き傷のような切り傷は、数日で塞がってしまった。

現実の傷のように、今の心の傷も、痛みも、いつか塞がってしまうのだろうか。
何も知らなかったあの頃のように、綺麗に継ぎ目も切れ目もなくなった腕を、恐ろしい思いで見つめる。

若いっていうのは、お前たちが思ってる以上に貴重だぞ。お前らくらいに若いと、筋肉痛だろうが怪我だろうがすぐに綺麗に治っちまうからな。もうおいぼれは羨ましいわ。
いつか、部活の、先生方よりちょっとお年を召したガラガラ声の外部コーチが、がなるように話していた内容を思い出す。

若くなければよかった。
ベッドの中で目が覚めると、何度もそう思う。
けれど、朝はいつも通り、何事もなかったかのように爽やかにやってきて、小鳥は軽やかに囀っている。

世界は、あの人がいてもいなくても、いつものように、異常なく回っている。
私の唯一の親友が、いてもいなくても。
そんな私を受け入れてくれたあの人たちがいてもいなくても。
毎日、平和な朝はやってきて、自動車は整備された車道を走って、私の体は痛みを修復しながら、毎日お腹を空かせる。

あの人は、悪い人だった。
それは今、正常に回っている世間の法律に当て嵌めれば、ということだけど。
自分とその周りの人のために何かを成し得ようと足掻き、他の人に無断で、今ある平和とみんなで決めたルールを覆そうと画策するあの人はやっぱり悪い人だった。

あの人は何も持たざる人だった。
なんども理不尽に晒されて、庇護してくれる人も物もなく、そのために泣くことも許されず、自分で、いつ崩れるともしれない居場所をやっとの思いで作り上げてきた、そういう人だった。
あの人の周りにも持たざる人はたくさんいて、両親の保護下で、教師の傘下で、ぬくぬくと苦労して生きてきた私は、自分の世間知らずさを恥じた。

あの日、あの寒い夜、平和ボケした思春期によくある、大人との進路の意識の違い、なんていうあまりにも子どもすぎる理由で、家出した私に、あの人は声をかけてくれたのだ。
そして、夜も短くなってきた春のように暖かいあの日、私はあの人と、あの人たちを見限った。

あの人は自分たちを「世直し集団」だと言った。
私はその中で、理不尽や大人へのがむしゃらな反骨という甘い汁だけを吸って、あの人たちが看過できない犯罪へ走っていく手前で、逃げた。

あの人は私と同い年だった。
けれど、あの人たちは、私より大人で、子どもだった。
そして、私はあの人たちよりずっと大人だった。

何も持たず、誰にも頼らず、しかし、正論が最後に勝つと信じていたあの人たち。
悪いことも正しい主張のためにやれば正しい、そしてそれを訴えれば必ずわかってもらえる、と思っていたあの人たちは、確かに子どもだった。

一方、教育を存分に受け、他の人間と関係を築き、目上の大人に抑圧される経験を持つ私には、理解できた。
このままここにいれば、何にもない子どものままで、とんでもない間違いを犯してしまうことを。
この平和な世では、私たちを守るルールを破り、法に触れたら最後、どれだけ正しい主張があっても、たいていは打ち消されてしまうことを。

だから私は賢く選択した。
悪賢く、無慈悲に、大人のような理不尽さで。

裏切った後のあの苦さと痛みは恐ろしいものだった。
集まりを抜けたあと、振り切るように無我夢中で走って、途中で枝に引っかけた腕の傷がズキズキと痛んだ。
ただ引っかけただけのはずの傷が、いつもよりずっと痛かった。
正体不明の苦さが、胸を詰まらせた。

私を受け入れてくれたあの人たちを、理不尽に耐えてきたあの人たちを見捨てた罪悪感は、痛みとなって私を襲った。

それでいいと思った。
それで死んでしまってもいい、と。
それが正しいと思った。
この痛みを抱えていくべきだと思った。1000年先までも。
この痛みは私に残らなくてはいけない。それが罰だ。そう思った。

しかし、腕の傷は、いつの間にか痛みが和らぎ、今ではもう塞がってしまった。
1000年先どころか、たった数日で。

心の痛みはまだある。
胸の苦さも。
しかし、あの時と同じ痛みかと問われれば、私は頷くことができない。
あの日感じたほど、激しく酷いものかと問われれば。
そうでもないかもしれない、と理性が囁く。

痛みが1000年先もあればいいのに、私は思う。
この、私が醜く酷い人間であるという証拠の痛みは、1000年先もあらねばならないのに。

私はもうそれを忘れかけているかもしれない。
それが一番、怖かった。

2/3/2026, 10:11:28 AM

真っ青な花弁の真ん中に、猫の目のような黄色の雌蕊が冴え冴えと目を惹いた。
こんな小さくて不気味な花に託して大丈夫だろうか、そんな気持ちが、私の胸で断固と固まったはずの決意にかすめる。

決行は明日だった。
このぬるま湯みたいな贋物の幸せを打ち砕く決行日は明日と決めていた。

「君を幸せにするから」
そんな言葉がずっと嫌いだった。
自分の幸せくらい、自分で決める。捻くれていて、可愛げのない私は、その言葉を聞くたびに、いつも、そう思ってしまう。
幸せは自分で感じて初めて幸せとなるのに、それを他人の力でどうにかできると思っているのは、傲慢だ、と。
そんな風に。

だから、今目の前にある幸せは、贋物なのだ。
私を不憫に思った友人が、嘘を真実に作り上げて、現実を歪めて作り上げた今日までの幸せな日々など。

友人が、私に嘘をついた気持ちは、痛いほど分かった。
こんな不幸があるのか、というほど、私の今までは、側から見れば、散々だった。

父親への冤罪から始まって、母の精神病、転校、貧乏に、諦めた進学。
私の手から零れ落ちたものは、いろいろとあった。

しかし、その不幸がなければ、私と友人は出会わなかった。
それらの過去の不幸がなければ、私は今を幸せだとは思わなかった。

私の不幸は、それこそ並大抵の苦労ではなかったけれど、私が努力して掴み取った幸せは、完全なハッピーエンドとは程遠かったけど、それでも私は幸せだった。
なにより、私のために、禁忌を犯して幸せを作り上げるほどの友人と出会う幸せは、私が不幸でなければ有り得なかったことだった。

それを友人は、歪めてしまった。
私の幸せのために。
傲慢のために。

だから、私は幸せを終わらせることにしたのだ。
現実を歪めてしまった根源の私の未来を、断ち切ることにしたのだ。

最後の幸せな日の今日、私は勿忘草で花束を作った。
幼稚園児が描くような典型的に小さく白い勿忘草は、「私を忘れないで」。
黄色い雌蕊が冴え冴えと気味悪い、青い勿忘草は、「真実の愛」。

私は明日、自分の幸せを打ち砕く。
ぬるま湯みたいな贋物の幸せを。
私の幸せは私で決める。

それが私の、私たちの幸せなのだった。

2/2/2026, 9:06:48 AM

ポツンと、ブランコだけが揺れている。
ずるりと肩から落ちてきたスクール鞄の肩紐を、揺すり上げる。
スクール鞄は、分厚い参考書と教科書で、重たく角ばっている。

公園には誰もいなかった。
いくら小学校では名高い悪ガキだったとしても、高校生の塾帰りの時間まで遊ぶような子どもは、イマドキいないのだろう。
街灯が、申し訳程度に、公園の、裸の土の地面を照らしている。

夜空が浸透したように、この一帯の空気には、夜の黒紫色の闇が染みていた。
シンとした夜の静寂に塗れた空気に誘われるようにして、僕は、公園と道路の敷居をするりと跨ぎ、揺れているブランコの横に座った。

冷たい夜風が頰を撫でた。
冬の夜らしく、鋭く冷たい風だった。

肩に参考書の重みを抱えたまま、そっとブランコを揺すってみた。
きぃ、と小さく悲鳴をあげて、ふらふらっと、ブランコは揺れた。

「寒いでしょ?」
同じようにふらふら揺れていた、横のブランコから声だけがした。
「早く帰ったら?人生でも大切な時期でしょう。風邪をひいちゃう」

「いいんだ。」
僕は俯いたまま、返事を放った。
遠い昔、小学生の頃に、怪談で、夜に1人で揺れるブランコがある、なんて都市伝説が噂になったことがあったのを思い出した。
思い出しただけだった。

「ふぅん」
隣のブランコの声は、柔らかく相槌だけを返した。

「受験生なんて、ガラじゃないんだ。一生懸命頑張るなんてさ。こんな言い方ダサいけど。でも僕なんてね。」
弾みをつけて、足元の石を蹴った。
ブランコがきぃぃ、と抗議の声を上げながら、ずいっと揺れた。

「そうかな?意外と似合うと思うよ」
声は、素直な柔らかさで、そういった。
今日の夜空と同じように、どこにでも浸透していきそうな柔らかさだった。

空気にも、僕の胸にも。

「頑張れた方が、かっこいいし、未来も周りの人も楽なんだけどね。」
隣の声に比べると、僕の声は固くて、頑なで、まるで問題用紙にきっちりと作図された鋭角みたいだった。
「でも僕は頑張れない。1日中勉強しないといけないのにさ。僕自身でさえ8時間勉強したいのにさ。今は死ぬ気で頑張りたいのに。頑張れない。頑張れないんだ。」

「死ぬ気で頑張れない」
声は、相変わらずの調子で柔らかく復唱した。
輪郭のなさそうな、柔らかい声だった。

「偏差値も点数も足りてるんだ。足りなかったことがない。でももうたくさんなんだ。」
僕の声は、ざらざらとけばだっていた。
頑なに、まるで肩に下げられたスクール鞄のように、角ばっていた。

「…素敵な才能だと思うけど」
柔らかな声が、柔らかな闇に溶けていく。
「あなたには自由がある」

「そう、僕には自由がある。」
僕の声は夜闇にくっきりと掠れていた。
「でも僕は罰当たりにも欲張りなんだ。努力に相応の結果が欲しかったんだ。努力に見合う結果で良かったんだ。」

柔らかな声は、何も言わずに続きを促した。
それで、僕は言葉を継いだ。
身じろぎすると、ブランコがきぃと鳴った。

「父さんも母さんも死んでしまった。けれど、兄さんは、僕ばかりを大学に行かせようとするんだ。」

月明かりが、公園の時計を照らした。
「そろそろ帰るよ。兄ちゃんが心配する。」
肩からずり落ちてきた肩紐を揺すり上げて、僕は言った。

かたん、と隣のブランコが軽く跳ねて、止まった。
「明日もこの時間にここにいるから」
柔らかな声が、ふんわりとこちらに放られた。

「ありがとう。」
僕が立ち上がると、ブランコはきぃ、と泣いて、それから、かたん、と一度跳ねた。
付け足すべきではなかったけど、愚かな僕は、どうしても伝えたくて、その一言を付け加えてしまう。

「愛してるよ。ずっと」
君はきっと、寂しそうに笑った。

1/30/2026, 8:44:04 AM

好きだ。
それは人間としてなのか、恋愛対象としてなのか、それともただの憧れなのか、執着なのか、恋愛経験のない私には分からなかったけど、とにかく好きなのだ。

その人のことを考えれば、自然と微笑んでしまうほど。
一緒に撮った写真や画面越しにやりとりしたログを見ていた私に、「なに、嬉しそうな顔をして」と家族がからかい気味に声をかけるくらいに。

世の中ではあまりにありふれていて、そこらの歌詞に軽々しく使い古されている“好き”という言葉が果たしてこの想いに適切かも分からないほどに、好きな人が私にはいるのだ。

人生を変えるほどの想いは言葉にできないから、人は表現しようとするのだと思う。
そんな想いすらも人はわざわざ、想いを言葉の型にはめて長ったらしく架空の物語を書き、目覚めるような色彩や歪んだ図形という型にはめて絵を描き、記念日なんていう型をわざわざ生み出してプレゼントをこさえ、人間とはかけ離れた命である花にさえ、言葉の意味を紐づけようとする。

そんな愛しくも愚かしい人間の欲望に、例に漏れず私も引き摺られていた。

目の前にはすっかり溶かし切ったチョコレート。
お湯をたたえたひと回り大きなボウルの中に、ちょこんと浮いた、チョコレートいっぱいのボウル。

大人たちの血の滲む企業努力によって、すでに美味しくできていたはずの既製品をわざわざ溶かしてしまうなんて、私らしくない。

でも、私はチョコレートを溶かし、型を用意する。
仕方がないのだ。私も人間なのだから。
愚かな人間である私は、言葉にできない溢れそうなこの想いを、そっとしまってはおけないのだ。
人間らしく、言葉にできなくても、それを型にはめて、形にして、伝えようとせずにはいられないのだ。

私はチョコレートを型に流し入れる。
型はみるみるいっぱいになる。
「I LOVE...」
あまりにもありきたりすぎて、笑ってしまうような型に、市販品を溶かしただけのチョコレートは、流れ込んで、流れ込んで、流れ込んで…

やがてトロドロと溢れ出る。
チョコレートは型の側面にトロリとした線を書き、やがて型の下に敷いたバッドに落ち、銀のバッドを侵食していく。

私は、バッドを茶色く染めゆくチョコレートを眺めながら小さく呟く。
それがどんな想いか知らぬまま。
「I LOVE...」

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