薄墨

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9/19/2024, 1:19:31 PM

現在の亡霊なんて、クリスマス・イブの深夜にしか出ないと思ってた。
緑のマントを纏った精悍な巨人の亡霊が、羊のツノを象ったグラスを握ってそこに立っていた。

いったい、こんな平日の真っ昼間に何をしに来たのだろうか。
小説の中の現在の亡霊は、祝日の、たくさんの祝福と幸せな気持ちを、行く人行く人に振り撒いていたはずなのだが。
なぜこんな平日の街中で、灼熱の空気がぐらぐらと揺れるアスファルトの中で、僅かな緑地帯の公園の方をじっと見て棒立ちしているのか、全く分からない。

何より不思議なのは、道行く人たちが、その亡霊を気にしないばかりか、動きをぴたりと止めて、まるで時間が止まったかのように静止していることだった。

空を見上げると、羽ばたいていたカラスや電線へ舞い降りようとするハトまで、一時停止ボタンを押されたように空中で静止していた。

街中は不自然に静まり返って、何もかもが停止していた。

その静かなコンクリートの街中に、出し抜けに笑い声が響いた。
ゲラゲラ、と、騒々しくてわざとらしくて、とても大きな笑い声だった。

目線を動かすと、やはり、緑のマントに身を包んだ現在の亡霊が、背を僅かに反らせて、腹式呼吸で笑っていた。

「時間よ止まれ!と望んでみたが、やはりそうだよなあ。…そんなことをしたって、何にもならない」
そう言ってまた、ゲラゲラと笑う。

その笑い声には、亡霊の、自身に向けた嘲笑と、諦観と深い悲しみが色濃く滲んでいることに気づいた。

気づいた途端、無性に、亡霊の視線の先が気になった。

私は、恐る恐る、ゆっくりと亡霊の背中から回り込んで、視線の先を覗いた。
背中を汗が滴り落ちた。
私は息を呑んで、立ち尽くす。

…視線の先では、あの子が蹲っていた。
いくつもの無碍な足蹴りと、乱暴な拳と爪と、泥に晒されて。

「時間を止めたところで、救えるわけでもないのになあ」
背後から、亡霊の重たく低い声が響いた。


…そこで目が覚めた。
背中を汗が伝っていた。
枕はぐっしょりと濡れていた。
頭が痛い。目が腫れぼったかった。

私には分かっている。
あの日の夢だ。あの時の…
あの、あの子がまだ子供だった頃の…
私があの子のために、「時間よ止まれ!」と、ただ祈ってしまった時の、あの瞬間の。

私は自分から動けなかった。
私はあの子を救えなかった。
私はあれを止められなかった。
許せないと思っていたのに、私が実際にしたことは、祈ることだけだった。

私は、あの子も、あの子を虐めていた子も、救えなかった。

ぬるく熱を持った湿ったタオルが、額から布団の上にずり落ちた。
昨夜の熱が下がらなくて、私は今日、休みを取って眠っていたのだった。

…昨夜、あの子が死んだことを遠い遠い知り合いのSNSから人伝に知った時からの、この熱を下げるために。

あの瞬間は、私の中では今も今のことだ。
紛れもない現在の出来事だ。
「時間よ止まれ」と祈った時から、私の心の片隅で、あの一瞬の時間は永遠に止まったままなのだ。

頭が重たくて、痛かった。
目も四肢の節々も、ぐったりと怠く項垂れていた。
タオルを掴む。喉がひりつくような渇きを感じた。
時計の分針が、カチリ、となった。

のろのろと掛け布団を剥ぐ。
蛇口から水が一滴、シンクに落ちた。
ボトリ、重たい水の音が、一人の手狭な部屋いっぱいに響いた。

9/18/2024, 2:09:20 PM

夜風が吹き抜けていく。
夜は随分涼しくなった。

チカチカと光る信号機が見える。
仄かにオレンジの街灯が照らす漆黒のアスファルト。
向こうのビルの窓から、蛍光灯の光が漏れている。

ぼんやりと夜景を眺めて、飲み物を一口飲む。
冷たいアルミ缶の曲線を撫でる。
カフェインの甘ったるい苦味が、喉に染みる。

色とりどりの灯りで彩られた地上から、空を見上げる。
星一つない真っ暗闇だ。

西日で目を覚まして、夕焼けで空が真っ赤に染まる頃に家を出て、ここまでやってくる。
書類をまとめて、時計のネジを巻いて、今日の仕事の段取りをして、デスクに座る。
そんな、完璧な夜行性の生活を始めて、もう2年が経つ。

この時間の外は、寂しい。
賑やかな灯り以外は、何もかも夜の帷に包まれて、すっかり沈黙を守っている。
星も月も夜に埋もれていて、夜の空気は静かに張り詰めている。

遠くから、土木作業の点検車の音が聞こえる。
最寄りの駅では、回送列車の点検でもしている頃だろうか、夜の張り詰めた空気に、低い駆動音がかすかに響いている。

この寂しい、人気のない夜景は嫌いじゃない。
夜の街、この夜景の、蝙蝠のような主張のない静けさが、むしろ好きだ。
そして、この仕事も俺はすっかり気に入っている。

缶を傾けて、中身をすっかり飲み込んでしまう。
ランドマークがぼんやりとライトアップされている。

そろそろ仕事に戻らなきゃな、休憩は終わりだ。
カフェインを一滴残らず飲み干して、そう思う。
まだ、翻訳しなくてはいけないメールが幾つもあるのだ。
それにあんまり遅くなると、向こうで定時が来てしまう。あの国は、みんな定時が来ればさっさと帰ってしまうから、至急の仕事は早くやってしまわなくては。

缶の腹に親指を添えて、グッと力を込める。
ぐしゃり、と音を立てて、アルミ缶が撓む。

俺の仕事はメールの翻訳だ。
仕事場に着いたら、時差の少ない国から順に、外国から届いた問い合わせメールやビジネスメールをできるだけ分かりやすく、自然な正しい日本語に翻訳し、逆に外国人向けに日本語で書かれたメールを、分かりやすくて自然で正しい外国語に直す。
日本語に直したメールは、それぞれの宛先の受信ボックスに、原文メールに添付してしまう。
外国語に直したメールは、時差を考慮して、現地の常識的な時間に間に合うように送りつける。

翻訳は、簡単なようで難しい。
そして、結構楽しい。
送り主のメールから、送り主が伝えたいことを読み取る。
文化や言い回し、単語の微妙な違いを踏まえて、送り主の伝えたいことをピタリと言い表せる言葉を探す。
メールを組み立てて、送信する。

そうしてやっと作り上げたメールを読み返して送信する時には、達成感と愛着が心を満たす。
試行錯誤して出来たメールが、送り主の伝えたいことを巧く表せていれば表せているほど、それは俺の言いたいことではないはずなのに、メールがなんとも愛しくて、俺の芸術や表現という感じがして、なんだか作品のような気さえする。

自分で一から何かを書こうとは思わない。
なぜか俺には、ピタリと単語がハマって、誰かの言葉を巧く綺麗に取り持てた時が、一番楽しいのだ。

変わっているな、と知り合いや友人からはよく言われる。
夜勤なんて寂しいな、と言われることもある。
だが、俺はこの仕事が、生活が好きだ。
寂しい夜景に彩られた、孤独の地味なこの仕事が。

天職なんだと思う。
俺は、夜景が肌に馴染む人間なのだ。
帳を、黒子の衣装を纏っていたい人間なのだ。誰がなんと言おうと。

空は相変わらず真っ暗だ。
アルミ缶をゴミ箱に投げ入れて、踵を返す。
蛍光灯で眩しい、自分の仕事場に向かって歩き出す。

夜景は相変わらず、独りぼっちで静かに、とても眩しく瞬いていた。

9/17/2024, 1:43:39 PM

一面に花が綻んでいた。
風が吹く。
ふわり、と、柔らかい花弁が舞い、甘ったるい香りが広がる。
羽音を震わせて、マルハナバチが花の中を飛び回っている。

涼しい風が吹き抜ける。
花の茎は何の音も立てずに、静かに撓んで、萼が揺れる。
花びらが舞う。

僕のキツネはどこにいるんだろう、と思う。
満開に咲き誇る花は、どれも幸せのように、美しく、華やかで、儚くて。でも、どれも僕の大切な花ではない。

この素晴らしい花たちは、僕ではない誰かが慈しんで咲かせた、満開の花畑だ。
誰かの、誰かによる、誰かのための花畑。
僕を楽しませてくれるけど、僕だけのための花ではない、有象無象たち。

マルハナバチが低く飛んでいる。
湿った空気の匂いが、甘い花の香りの中に、僅かに混じっている。
切ないくらいに真っ青の空が、高く深く広がっている。
風が、肌を刺してゆく。
花びらが、また舞う。

僕は、この花畑の中で、自分だけの花を探していた。
自分だけの一輪に出会いたかった。

石造りの壁はどれも崩壊して、陽の光に当てられている。
ボロボロの石レンガの隙間にも、たくさんの花が顔を出している。
小さな花も。大きな花も。

花畑の真ん中で、僕は独りぼっちだった。
変わらない物はなく、世の中の物は全ていつか壊れるのだ、と僕は知っていたはずだった。
どんな熱烈な愛も、溢れる願いも、爽やかな尊敬も、いつかは変わるのだ、と。
人徳は一番アテにならないものだ、と。
僕は知っていたはずだった。

胸の奥から、切なさが迫り上がってきている。
鼻にツンと染みる。

誰でも良かった。
僕の一番大切なものを悟らせてくれる誰かが欲しかった。
変わってしまった人々に追われ、全てを捨ててしまった僕が、本当は何を大切にしたかったのか、誰かに教えてもらいたかった。

僕は、自分だけの一輪の花を見つけたかった。

でも僕は、独りぼっちだった。

風は振り返らずに、僕の肌を掠めて通り抜けていった。
花は見向きもせず、僕の足元で風を浴びていた。
この花畑にある全てのものは、みんな僕など気にしていなかった。

僕は、独りぼっちだった。

ふわり、と、風が抜けていった。
一歩後ろを、花びらと香りがふわりと通り過ぎた。
マルハナバチの翅が、低くハミングしている。

真っ青な空から何かが落ちて、頬を触った。
湿った空気が、もうすぐそこまでやってきていた。

9/16/2024, 2:45:34 PM

お社じゃなくて、あっちの山に神様がいるような気がした。
“空”を見上げる。
頭上には、抜けるほどの青がどこまでも美しく広がっている。
コンクリートが灼熱に焼けている。

鳥居の向こう、真っ白な入道雲が、むくむくと肩を広げている。
蒸し暑い空気が、ゆったりと周りを取り巻いている。

飴を舐め溶かす。
こんな炎天下の天気には、とても合わないなと思いながら。
空腹が頭を揺らす。

ここからどこへ行こう。
アテはなかった。たった今、ここに来た理由を失ったところだった。

白い雲はまだまだ大きく育っていた。
あの雲がこの頭上を覆い隠せば、次期にここでも空が泣く。

今日はここで友達と待ち合わせのはずだった。
けれど、彼女はまだ来ない。
空が泣いたから。

私たちの頭上には、大きな瞳がある。
私たちを覗く目。
私たちの太陽の目。
私たちの日常の外側に繋がる目。
空。私たちの空。

きっと目の持ち主の空は幼いのだろう。
この大きな大きな瞳は、視界を隠されると泣くのだ。
駄々っ子のように、大声で、激しく。

私たちは雨の日だけは、あの瞳から解放される。
あの瞳の目線を外れる。
あまりに激しく泣くものだから、瞳の存在自体は忘れられないし、逃げられないのだけれど。

入道雲がむわりと、太る。
鳥居の奥で、際限なく広がって、瞳を隠そうとする。
今日、空が泣く。

カバンにつけた鈴が、ちりん、と呟いた。

9/15/2024, 2:29:38 PM

頭がぐわんぐわんと揺れる。
原因は明らかだ。
普段飲まない酒をたらふく飲んだからだ。

視界が揺れる。
でも僕の心は訴え続けている。
君が悪いんだ。
君が、君からのLINEが悪いんだ、と。

吐き気がする。
頭が揺れる。
視界が揺れる。

飲みすぎたんだ。そんなこと、自分でもわかってる。

でも君からのLINEが悪いんだ。

私は今まで、あなたと一緒に何かするのが好きだった。
毎週待ち合わせて、楽しく遊ぶのが好きだった。
あなたの遅刻や欠席も、黙認し続けた。
私と同じ社会人だったあなたの、休日は少ないと知っていたから。

でも違った。
今わかった。
私とあなたは、同じことをしているようで、実は全く違うことを理想としていたこと。
あなたの目指す未来と、私の目指す未来は違ったこと。

それは、あなたからのLINEを見れば、一目瞭然だった。

頭痛を押し込めるために、無理やりアルコールを喉へ流し込む。
アルコールで消毒しなくては生きていけない。

酒を煽る。
喉がえずく。
無理やり飲み込んで、天井を見上げる。
小さな明るい光が、わずかに揺れている…。

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