込み上げる 切なさ呑み込む ための歌
鼻唄混じりに さよならと言い
君のため そんな誤魔化し 許さない
lalala Good 「bye」とは言わせない
恋人は、ほんのり磯の香りがする。
どこまでもどこまでも広がる、海の匂い。
すべらかな肩のくぼみに鼻をうずめる。
温かい皮膚の奥から、匂いがふんわりと香る。
体をすぼめて、できるだけ体温を感じられるように抱きしめた。
香水も清涼剤もつけない君の体は、ボディソープと素朴な、君自身の匂いがする。
体をすくめて、目をつむる。
飾り立てのない、清潔で柔らかな君の匂い。
それが、私にはとても心地いい。
こうして君とくっつきあっている間は、あちらこちらの関節がほぐれて、体が幸せに、柔らかくなっている気がする。
君の細い指が、夢うつつに私の背骨をなぞる。
眠っている君の温かさが、私の夢を招いている。
私は目を閉じたまま、ゆっくりと意識を沈めはじめる。
深く、深く、どこまでも。
君の横でなら、私はどこまでも安心して眠れる。
どこまでも続く、広い海の匂いの染みついた、君の横でなら。
遠く向こうで、煙突から伸びた煙が、雲につながっている。
私の足は交差点に差し掛かっていた。
知らない道だった。
どこへ行くとも決めないまま、私はただ、ぶらつく足に任せて歩いていた。
今日は本当は予定があったはずだった。
とある行事に参加するため、私は朝から準備を整えて家を出た。
しかし、電車に遅れてしまった。
駅に着いた時点でその行事には参加できないほどの遅刻だった。
駅に降り立って途方に暮れた。
もう用事は無くなってしまった。かと言って、ここまで来たのに何もしないで帰るのは、なんだか不真面目なようで気が咎めるし、損をしたようで癪だ。
だから、私は歩くことにした。
足に任せて、駅からでたらめに歩いてみた。
何度か来ているはずの駅周辺なのに、知らないところは結構あるものだ。
私はなるべく、通ったことのない道や方向をでたらめに選んでは、歩いた。
未知の横断歩道を渡り、未知の交差点を未知の方向に曲がり、未知の店を目印に、辺りを見回す。
歩けば歩くほど、方向感覚は失われていく。
どこをどう歩けば駅まで戻れるのか、既にわからない。
さっき通ったはずの道筋や目印は、一足進むごとに記憶から朧げに消えていく。
それでも私は歩き続けた。
不安と好奇とモヤモヤとした何かを抱えたまま。
靴底をすり減らしながら。
私の足は未知の交差点に差し掛かる。
一輪の コスモスの花 咲き誇る
墓跡の前の 一輪だけが
鳴き交わす カラス会議を 仰ぎ見る
一輪のコスモス 一つの空き缶
肌寒さを感じて、腕をさする。
秋の夜は、絶妙に冷える。
遠くで、人を探す人の声が聞こえる。
蚊帳の中から、だらしなく空を見上げていた。
外の騒がしさは依然として変わっておらず、私の待ち人はまだ見つからないようだった。
私の四肢は、力を抜いて、布団の上に投げ出されていた。
まるで、高熱が引いたばかりの子どものように、私はぼうっとして、空の白い月を眺めていた。
街角で罹患し、ここまで私を突き動かしてきた熱は、とっくに引いて、冷徹な寂しさと退屈さが、だるさとなって私の体にのしかかっていた。
この郭町の街角で、私は人生初の恋とも言えない恋をした。
街角の埃っぽい道の隅で、堂々と物語る、その面白さと切迫した演技と香りのようにひかえめに映る華やかさとは、恋に不感を貫いていた私の脳に、強い衝撃を与えた。
その衝撃は高熱となり、私を突き動かして、とうとうここまでやってきたのだった。
しかし、目当ての彼はいなかった。
それを気にした店主の気遣いで、私は今ここにいる。
あてがわれた部屋はずいぶん広く、そして静かだった。
彼を探す人の声も、あちこちで鳴いている鈴虫の声も、遠く聞こえる。
もうかれこれ一時間くらい、一人で秋の夜長を担当しているが、未だに外の騒がしさに変わりはなかった。
そして今、秋の夜特有の寂しさは、怠さと眠気となって、私を苛んでいた。
人恋しい秋の夜でも、私は独りで寝てしまえるのだった。
もういいか、なんて考えて、薄く目を瞑る。
既に慣れない体験で、無意識にこわばっていた身体がほろり、と解ける感覚がした。
瞼の裏から眠気が込み上げる。
先ほどまであんなに孤独を苛んで疎ましかった月の光や鈴虫の声が、心地良い。
私はその心地良さに身を委ねた。
意識が次第に真っ黒な闇に呑まれ、遠のく。
疲れによる安堵が、秋の夜の孤独を呑み込んでいく…
…
…気づいたら、眠っていた。
意識が自分の元に戻ってきても、私はしばらく目を瞑っていた。
ぼんやりとした頭には、ここが何処かわからなかったし、
何より、真横で人の気配がした
目を薄く瞑ったまま、私はひとしきり考えた。
堂々巡りの考えが二周くらいして、私はようやく目をゆっくりと開いた。
目の前に、あの人がいた。
街角で見た、あの物凄い語りを見せた彼だった。
柔らかそうな睫毛を伏せて、静かに目を閉じて、その彼は眠っていた。
一瞬、息が止まり、時間も止まったような気がした。
ぼんやりした頭の中で思考はもつれ絡まって混乱し、ぐちゃぐちゃのまま霧散した。
遅れて、衝撃がまた脳裏を駆け抜けた。
彼は彼のままでも美しく、物凄かった。
そして、その彼が他でもない私のすぐそばで寝息を立てている、という現状に、貫くような恥ずかしさと喜びが駆けずった。
…結果として、私はネズミのような素早さで飛び退き、したたか蚊帳に頭を打ちつけ、絡ませた。
それが、私の恋の始まりだった。
初恋である秋恋の。