窓から冷気が漂ってくる。
温かい炬燵に足を食われながら、しんしんと舞う雪を眺める。
白い雪は、静かに、容赦なく降り続け、ゆっくりと確実に降り積もっていく。
真っ黒な夜空に、ほのかにくっきりと、白い雪が光って見える。
そうだった。
雪明かりの夜とは、こんな景色だったのだ。
明日は雪かきに出なくてはいけない、そんな憂鬱さを孕みながら、雪明かりの夜は抗い難く幻想的に美しい。
蜜柑の皮に爪を立てる。
三日月状に走った細い傷から、甘やかな瑞々しい香りがふわりと立った。
暖炉の火を閉じ込めたような橙色の皮の中から、真夏の日のような香りがするのには、毎年不思議に思う。
雪明かりは、見かけはほのかに儚いのに、強い冷気を放って、存在感を主張している。
鮮やかな色と香りを、おとなしく手の中で剥かれ、慎ましく口の中へ消えていく蜜柑とは、対照的に逞しい。
そうだ、雪ってやつはそういうものだった。
雪の逞しさ、図々しさを思い出すたびに、私はあの子を思い出す。
南から来た転校生だというのに、雪のように真っ白い色白で、異性から見たら迷わず、守りたいと思わせるような美人だった。
晴れている日が珍しいほどの雪国育ちなのに、いつの間にかすっかり日焼けしている私とは、そういう意味で正反対だった。
けれど、私たちは仲良くなった。
私を揶揄っていた男子に、余所者の分際で、あの子はチャキチャキと言い返したのが、始まりだったと思う。
あんなおとなしそうな顔をしているのに、めちゃくちゃな子だった。
雪が積もれば、犬のようにはしゃぎまわって、滑って転ぶ。
夏になれば、強風が吹いていたとしても荒波の立つ海を見に行き、泳ぎたがる。
私はもっぱら、ストッパー役だった。
あの子のおかげで、毎年、日焼けの黒さも増した。
あの子がここに帰ってこなくなったのは、もう私もあの子もずいぶん大人になって、あの子が離婚してからだった。
あんなに気が強かったのに、あの子は一族の決まりには逆らえなかったらしい。
そして、大事な婚約者にも言い返せなかったらしい。
この雪国のしきたりが、あの子の自由を損ない、傷つけていると発覚した時、私は初めて、あの子のような無茶をした。
奴がいる限り、いや、奴が居なくとも、あの子はもうここへは帰ってこない。
私がそうした。
あの子がここに帰ってくるのは、あの子がしっかり、前のような雪明かりみたいな逞しさを取り戻して、明るいあの子自身を取り戻した時なのだ。
あの子はまだ療養中だ。
ゴタゴタの実家から離れて、南の方にいる。
私は、ここに残って、あの子の一族の結末を見届ける。
それが私とあの子の最後の約束だった。
冷気を撒き散らしながら、雪はずんずん降っている。
夜闇の中に、冴え冴えと、雪明かりが降り積もっていく。
私は蜜柑を一房、口に入れる。
冷たい北の冬の中に、ほんのり、南の夏の香りがする。
僕たちには明日がなかった。
いや、僕の状況はそんな表現はおおげさで、本当のところ、明日がなかったのは、僕の彼女であり、救いであり、そして僕の故郷であるここの未来を奪った女性である君だけだったのかもしれない。
けれど、そうであったとしても、実際、僕たちにはもう明日はないのだった。
僕だって、あまり素敵な人生ではなかった。
母が父に捨てられて、僕たちはここへ来た。
父はそれなりに社会的にしっかりした外面を持った人間だったから、僕も母も、もうその町にはいられなかった。
だから僕は転校してきた。
しかし、ここもそんなに変わらなかった。
学校の中や町の中で、あることないこと流布された噂によって、ここでも僕と母は、すっかり同性には蔑まれ、異性には汚物扱いされた。
僕たちを外して罰するのは、この町では当たり前の正義の行いだった。
僕も母も、この地では悪者だった。
けれど、彼女の置かれている状況は、そんなものではなかった。
彼女は母に捨てられたらしかった。
そして、彼女の場合、父も、教師も、元カレも、周りの大人も同級生もみんなクソみたいなやつだった。
彼女は生き延びるために、周りの人間関係を破壊した。
苦しみながら、もがきながら、彼女は魔性の女だった。
彼女もまた、この町に嫌われていた。
僕たちが町の人たちにとって悪者だというなら、彼女は悪の根源のように扱われた。
だから、僕と彼女は仲良くなった。
僕たちはよく、学校終わりの放課後に、誰からの視線からも逃れたくて、町外れの海沿いにいった。
町の人たちは、そこにだけは近づかなかった。
僕たちが落ち合うのは、町の人が誰もいない、人気のない場所でなくてはいけなかった。
僕たちが2人でいると、なにしろ、悪者が連れ立っていることになる。
虐めろと言っているようなものだ。
だから僕たちが遊ぶ時は、家からは少し遠い町外れの海沿いのコンクリート建の建物の裏でだべるか、こっそり彼女が人目を忍んで僕の家にやってくるか、のどちらかだった。
町の人たちは海沿いのコンクリート建の建物には近づかなかった。
町には原子力発電所があった。
そこは発電所から出た廃棄物を処理していた。
だから、僕たちが落ち合うにはぴったりの場所だった。
僕たちは、汚染されるのなんて怖くなかった。
そんなのより、スクールカースト上位の“勇者”と呼ばれた格闘技の有段者の同級生に殴られることや、町の人たちにまことしやかに不純性交友だ、と囁かれる方が苦しかった。
僕たちはそこで、殴られて腫れた頬同士で、ボロボロの制服のままで、明日がないことを嘆き合った。
希望なんてなく、当然、祈りなんてものもなかった。
僕たちに明日はなかった。
あるのは絶望的な今だけだった。
僕らの中に祈りが生まれたのは、彼女が、僕の家にあったある古いSF小説を読み終わってしばらくしてからだった。
あの小説は大した名作ではなかったが、彼女はいたく感銘を受けた。
原子力を使うようになった世界で、社会に蔑まれ苦悩する主人公が、原子力を利用したエネルギー工場が暴走させ、国家転覆を狙う話だった。
その小説の世界の結末には、すっかり社会が荒廃した、静かな終末がやってくるのだった。
あの小説を熱心に読み込んでいた彼女はある日、言った。
「私たちの世界でアレをしたら、私たちもきっと全てを終わらせられるね」
僕たちの町には原子力発電所があった。
それから、僕たちにとっての原子力発電所は、祈りの対象になった。
ただの溜まり場だった、あの寂れて人通りすらない廃棄施設の裏手は、僕たちにとって教会になった。
けれど、僕たちは痛いほど知っていた。
祈りを捧げるだけじゃ、誰かに頼っているだけじゃ、明日は世界は変わらないということを。
僕たちは祈りを捧げて、捧げて、捧げながら、計画を進めた。
念入りに、丁寧に、そして用心深く、計画を進めた。
幸い、学校の平和教育とやらが、あの施設がこの町に終末を与えるには十分すぎる力を持つことを、保障してくれた。
反戦、反原子力という正義で書かれたあらゆる書物が、皮肉にも、僕たちに知識を与えてくれた。
僕たちは世界の終末を祈った。
僕たちにはない明日を楽しみしている人々から、平等に明日を奪い、ただ、この苦しみを終わらせたかった。
この町の未来を、完膚なきまでに破壊するのだ。
そして、祈りを完遂した。
決行日、僕と彼女は僕の部屋で、窓の側に並んで、あの光を直視した。
僕たちに明日はない。それは他の人の明日を破壊したところで変わらないことだ。
僕と彼女は今も並んで、僕の家の中にいる。
僕たちの捧げた祈りは、この町の明日を平等に、ズタズタに破壊した。災害のように。
主犯の僕たちの未来すら、関係なく平等に。
震えが止まらない。
身体に力が入らない。
髪が抜ける。
咳も出る。血も。
歯だってもうぐらぐらだ。
死への恐れが静かに、確実に僕のたちの中に満ちていた。
そんな状況でも、犯人探しは行われている。
他の街は無事だし、明日が崩壊したのはこの一帯だけなのだから。
気は抜けない。体調も芳しくない。
僕たちに未来はない。
しかし、それこそが僕たちの祈りだった。
今日も絶望にあふれている。
防護服に身を包んだ人や、あるいはこの町で生き延びた人間が、合法不法問わず、毎日乱暴な家宅捜査にやってくる。
この町に明日はない。
しかし、それこそが僕たちの、彼女の捧げた祈りだった。
家宅捜査に来た僕の同級生が帰っていく。
静かな廃墟に、彼の運転する生き残りのバイクの音がする。
僕たちには明日がない。
「サンタさんへ」 まだ読みづらい字が 愛おしい
手紙を読んだ 遠い日のぬくもり
「サンタさんへ」 鉛筆の芯を 折りながら
真似して書いた 遠い日のぬくもり
「サンタさんへ」 子の横で書く お手本は
ひらがなだらけの 遠い日のぬくもり
「サンタさんへ」 兄の手紙を 真似て書き
ヒーロー届いた 遠い日のぬくもり
セロハンの 向こうで揺れる キャンドルの
暖かき光 雪を色づけ
芯の先 揺れるキャンドル 灯火は
北風をかわし のらりくらり
真っ白な壁に、溢れるような光が反射している。
歩くたびに足音がやけに鋭く響く。
白紙のようなこの回廊では、自分がどこを歩いているのか、見当もつかない。
ただ、まっすぐ歩くだけだ。
壁も床も窓枠も、一面、真っ白。
それらが真っ白な光を受けて、より一層白く輝く。
潔癖なほどの清潔さを体現した回廊だ。
毎日のことなのに、毎回、この回廊に一歩足を踏み入れる時は、得体の知れない天敵に見つかった時のような怖気を感じる。
しかし、僕は歩かねばならない。
それが僕の仕事だからだ。
僕の雇い主、偉大な芸術家とも世界一の変わり者とも呼ばれる中年の彼は、自分の作った館に閉じこもっている。
彼は、自分で設計した館の中程にある、この、「光の回廊」という作品からから外へは出てこない。
だから、彼に拾われて雇われ、館の従業員としてここで暮らし始めた僕にとって、彼のために、この光の回廊の先に食事を持っていくのが生きるための義務だった。
真っ白に輝く光の回廊を、恐る恐る歩きながら、僕は毎日考える。
彼とは何者なのだろうか。
僕を拾ったはずの彼の顔を、僕は見たことがなかった。
光の回廊は、真っ白に輝いている。
今どこを歩いているのか、分からなくなるくらい。
僕はゆっくりと歩く。
彼の部屋の、固く閉め切られたドアを目指して。