また目があった。
ふとした瞬間に、視線がぶつかる。
これで相手が、いつも気怠げなダボっと服を着崩したバイト君や、疲労と責任の負の部分を全て肌に染み込ませたような店長や、パサパサに髪を染めた見た目よりずっと繊細そうなギャルちゃん、とかなら、ドラマチックな何かが始まっていたのかもしれない。
しかし残念、相手は人ではない。
バックヤード。
人けのない休憩室の、無機質な灰色の壁にへばりついた、色の変わったセロテープに汚されたポスター。
「スタッフ募集」のゴシック体と一緒に、二重の大きな目をした女性が、カメラを構えて、採用用のショートフィルムの提出を促している。
その二重の、ぱっちりとした目と、なぜだか目が合うのだ。
よく見れば見るほど、ハッとする美人だ。
くりっとした形の良い二重。
程よく高く、穏やかな鼻。
ゆるく釣り上がった赤い唇。
チャーミングに凹むえくぼ。
浅葱色の瞳と柔らかそうな髪。
特にはじけたところはないのに、見れば見るほど、そのシックな美しさから目が離せなくなる。
ポスターとデカデカと貼り付けられたゴシック体が色褪せてさえいなければ、まだまだたくさんの人の目を引いていただろう。
そんな顔だ。
そんな顔と目が合うようになったのは、あの日からだ。
なんてことはない日だった。
深夜シフト、バイト君の急なシフト変更に、休憩中、回っていない頭を抱えてシフト表を見つめていた、あの日。
ふと視線を感じて目を上げると、そこにポスターが貼り付けてあって。
あの、シックに微笑む、二重の、アーモンド型の目があった。
ふとした瞬間に、視線を感じるようになったのは、その時からだ。
強めのブラックコーヒーを淹れに、休憩室へ寄った時。
お客様へ預かっている荷物をひっぱりだしに来た時。
商品を補充しに来た時。
シフト表と勤務表にチェックを入れる時。
在庫を確認する時。
一人きりで休憩に入る時。
ふとしたそんな瞬間に視線を感じて、目を上げるとあの目がある。
美しい、くりっとしたあの二重の目が。
いつも、いつも。
ふとした瞬間に目が合うのだ。
ある日、ポスターの中のあの子に向かって呟いたことがある。
正確に数字が思い出せなくなるくらい、何連勤も働いて本当に疲れ切った日のことだった。
こんなくたびれたパートの主婦を見たって、何の肥やしにもならないわよ
煩わしくなって、バカみたいだけれど、ポスターに向かってそう呟いた。
けれども今も彼女と目が合う。
ふとした瞬間に。
あの、印象的な美しい二重の目と。
もうすっかり慣れてしまった。
ポスターのあの子からの視線を感じながら、コーヒーを啜る。
休憩室は、沈黙に満ちている。
あの子の視線だけが、くたびれた私を見ている。
後ろ姿が見えない。
声も聞こえない。
残っているのは、足跡だけ。
足跡を消さないように、慎重に追いかける。
早く追いつきたいけど、足跡は消してしまいたくない。
あなたがここにいた、という痕跡を消すことはできない。
だから、必死に、けれど慎重に、一つ一つ、あなたの実績を追いかける。
あなたが今、どこを走っているか。
どれだけ前を走っているか、分からないけど。
それでも諦めたくはなかった。
どんなに離れていても、追いかけるのだけは、やめたくなかった。
あなたは優しかった。
もっと速く、もっと美しく、もっとぐんぐん走れるのに。
あなたは後輩の足並みに揃えてくれた。
丁寧に教えてくれ、助けてくれた。
だから、あなたが大きな世界に行けることになって、
私たちという枷から解き放たれて、
自由に走れるようになって、
あなたはあっという間に遠くへ行ってしまった。
けれど私は知っている。
あなたを。
周りの人々に気を使って、足を休めていたあなたの、疲れ切った顔を。
僻みや妬みに心を砕いて、一時的に走れなくなったあなたが流した涙を。
あなたは私の憧れで、そして私が最も理解したい人だったから。
だから、私はあなたを追いかける。
必ずあなたに追いついてみせる。
どんなに離れていても。
あなたが、泣いたり、疲れ切ったりした時に、隣であなたに肩を貸せるように。
「ほう ほう ほーたるこい」
「こっちの水はあーまいぞ」
陽気な声が響く。
あちらこちらで小さな光が浮かんでは消えを繰り返している。
「こっちにこーい」
無邪気な命令口調が、静かな闇夜に飛び交う。
蒸し暑い夏の川の夜。
蛍も、恋のまたたきを繰り返して、飛び交っている。
ほのかな光が、弱々しく近づいてくる。
腕に止まるほど近くにいる蛍は、結構虫だ。
黒い滑らかな羽の下に、うだうだの脚を覗かせて、うぞうぞと動いている。
子どもたちに言われた通りにこっちに来た蛍は、力なく尻を光らせて、動いている。
「こっちに恋」なんて、脳内お花畑な誤変換で、舞い上がっていたあの日が懐かしい。
「愛に来て」なんて、バカみたいな返信を打ち込んで、浸っていたあの日が懐かしい。
失恋をしたのは、あの人が子どもを愛せる人ではなかったから。
人の子どもに余すことなく愛を注ぎたい、私の気持ちを疑ったから。
引率で連れてきた子どもたちは、無邪気に蛍を呼んでいる。
その蛍が近づいたらこんなに醜いなんて。
蛍たちが光っているのは、自分の遺伝子を残したいだけの、下心満載の、ごちゃごちゃした生存競争であるなんて。
蛍を眺める、彼らにはまだ分からないことだろう。
「ほう ほう ほーたるこい」
「こっちの水はあーまいぞ」
陽気な声があちこちで飛び交っている。
「こっちにこーい」
無邪気な命令口調が響く。
ポルボロンは、口の中で砕ける。
ほろほろした欠片を噛み、飲み込む。
ポルボロンを口に入れて、「ポルボロン」と言えたためしがない。
私の願いを叶える気がないのだろう。
けれども、アーモンドプードルが香るほのかな砂糖の甘みが口の中で解けた時、一瞬でも幸せだ、と思ってしまう。
悔しくもあり、嬉しくもある。
ポルボロンが口の中で砕ける時は。
この妙な名前のお菓子を定期的に食べるようになったのは、当然ながら、スペイン旅行へ行ってからだった。
ふらりとお菓子屋さんに入ったその日が、お店を挙げてのお祝いの日だったのだ。
そこでいろいろ教えてもらった。
ポルボロンの言い伝え。
口の中で崩れる前に3回「ポルボロン」と唱えれば、願いが叶うということ。
ポルボロンの味。食感。
ちんすこうみたいに、ほろほろに崩れるのだ、ということ。
そして、人を想う切実な願いが叶いそう、という希望はどんなに胸を焦がすか、ということ。
願いが、願望が、どれだけ胸を焼くか、ということ。
「気に入ってくれてよかった。このポルボロン、僕が作ったんだ」そう言って笑う、まだ修行の身の青年の笑顔の眩しさ。
そしてポルボロンが砕ける前に、口の中で「ポルボロン」と3回唱えるのが、どれだけ難しいか、ということ。
毎日通った。
ポルボロンのお菓子屋さんに。
店長さんともすっかり仲良くなって、お店に私的なお手紙を出せる栄誉までいただいた。
当然ながら、帰国しても私はその巡り逢いに、ポルボロンに囚われていた。
今でも定期的にお手紙を書き、定期的にお手紙をもらい、ポルボロンを食べる。
店長は何もかも分かっていたみたいで、毎回、あの青年がこしらえたポルボロンが、いくつか届く。
そうして、私は懲りずに毎回、チャレンジをする。
ポルボロンを崩さずに、「ポルボロン」と唱えることを。
あの巡り逢いを、一期一会で終わらせたくない、と願いながら。
毎回、ポルボロンをそうっと口の中に入れる。
けれども願い虚しく、いつもポルボロンは、口の中で解ける。
アーモンドプードルの香りを纏った、砂糖の甘味を衣のように脱いで。
いつ、私は「ポルボロン」と唱えられるようになるのだろう。
公園の葉桜を眺めながら、私はもう一つ、ポルボロンを手に取って、そっと口に入れる。
ポルボロンはそっと砕ける。
甘くて美味しい味がふんわりと広がる。
「珍しいものを食べてますね」
ふと、声をかけられた。
久しぶりに聞く、ポルボロンを食べるたびに焦がれた声が、いきなり。
どこまでも行ける気がして、むしろワクワクしながら、「どこへ行こう」と呟けたあの日。
それが本当の幸せだったことに気づけなかったのは、若いということだったのかもしれない。
「どこへ行こう…」
地図を開いて、途方にくれたままで呟く。
僕には居場所がどこにもない。
おたずねものであり、もう人ではない僕には。
ずっと生きていたいだなんて、そんな馬鹿げた願いを抱いたのは、僕の持病が悪化してから。
今夜が峠、なんて言葉を何度も聞いて、しかし、気力だけで生きていた僕に、ある晩、何かが囁いた。
「永遠の命をあげようか」
僕は頷いた。
ほしいと願った。
あの日の僕は、刹那ばかりを生きていて、永遠の本当の長さを知らなかった。
僕は奇跡的に生きた。
僕の回復を祝う煩雑なてんやわんやを経て、自由と永遠を手に入れた僕は、あの日、ワクワクしながら呟いたんだ。
「どこへ行こう!」
いろいろなところへ行った。
旅行で行ってみたかったところ。
やってみたいことをしているワークショップ。
見たかったものを所蔵している館。
一度見てみたかった景色。
一度体験してみたかったこと。
一度生きたかった生き方。
いろんなことをして、いろんなことを見た。
そのうち、時間を持て余すようになって、
他にもっといろんなことをした。
なにしろ時間はたっぷりあった。
なんでもできた。どこへ行こう。
経験してみたいとは思っていなかったけど、誰かが良いものだ、と言っている経験をとりあえずしてみた。
一度やってみたことをもう一度してみた。
何度も周回してみた。
やっているうちに分かった。
一度やってみたかったことは、本当に“一度”やってみたかったことなんだ、と。
二度目以降は完全に蛇足で、辛さや楽しさを知っているからこそ、うんざりするものなんだ、と。
人間の精神は、一度ぶんの経験に耐えうる強さしか持っていないんだということが。
僕には時間があった。
永遠に。
「どこへ行こう」
僕は途方にくれて、呟く。
僕には時間がある。
僕はどこにだっていける。
永遠に。