絵の具を全部絞り出す。
夢見る少女のように
くすんだ色の色紙を破り捨てる。
夢見る少女のように
路上に寝ている誰かを「醜い」と一蹴する。
夢見る少女のように
気に食わない現実には目を瞑る。
夢見る少女のように
ぬいぐるみに顔を埋めて笑う。
夢見る少女のように
風が吹き荒れている。
地面は遠い。
窓の淵に足をかけて、下を眺める。
眼下には、無数の窓とコンクリートの絶壁が、下へ下へと続いている。
枕木に引っ掛けた縄がふらふらと揺れる。
ここでこうすることを決めたのは、つい一週間前のことだ。
私は道を踏み外したのだった。
残っているのは幾らかの莫大な借金と、多少の犯罪歴。
もう戻れないところまで転げ落ちてしまったのだった。
あの子と一緒に。
巻き込むつもりはなかった。
ただ、私もあの子も、冴えない、大したことのない、灰色の人生から抜け出したかったのだ。
純粋すぎるあの子の、灰色の人生に色をつけたかっただけなのだ。
ただ、ただ、一発逆転したいと考えていただけなのだ。
その考えの甘さに気づいたのは、もう後戻りできないところまで来た時だった。
だから、私たちはこうするしかないのだ。
誰にも迷惑をかけないためには。
この碌でもない人生から逃げ切るためには。
向こうの窓が開いた。
窓の淵に、あの子が足をかけている。
枕木に結んだ縄が、ふらふらと揺れている。
「さあ行こう」
私は、あの子の目を見据えて言った。
風が轟々と吹いている。
風のせいで聞こえないかもしれないが、あの子には伝わるはずだ。
縄に手をかける。
さあ行こう。
風が轟々と吹き荒れている。
ぐちょぐちょの地面の浅い窪みに水が溜まっている。
雨は止んでいる。
小さな窪みの水面に、ぽかりと雲が浮いている。
空が映っている。
いくつかの雲を抱えたまま、晴れた空が。
どこか踏んでしまえば、すぐ泥が流れ込んで濁ってしまいそうな空が、足元にある。
水たまりに映る空を踏んでやろう、空を踏みつけよう、そう思った。
仕事も上手くいかず、むしゃくしゃしていた。
だから腹いせに、水たまりに映る空を、青い空を、踏みつけてやろうと思ったのだ。
深く踏みつけてやるつもりで、足を持ち上げた。
そして…____
「この星の滅亡が決まったのは、まさにこの、かの生物が水たまりを踏んだ後であったと言われています。今から1000年前のことです」
太陽系惑星観光ツアーのツアーガイドは、水たまりに映る、濁った青い空を指してそう説明した。
「1000年前といえば、みなさんご存知のように_第一次銀河星系間戦争の只中です。太陽系は、生物が活動する星がたった一つであり、星間や銀河系間の移動技術が発達していなかったため、侵略戦争が生まれておらず、第一次銀河星系間戦争には不参加でありました。ところが」
ツアーガイドは、何千万縮小かの模型を取り出し、説明を続ける。
「ところが不運なことに、1000年前、この太陽系は、我が銀河系で開発されました妨害兵器、“分子固着装置”の軌道上に位置していたのです」
「それがなぜ不運だったのかと言いますと、それはこの星の生物の生態にあります」
「研究の結果、どうやら彼らは、分子の切り離しや結合によって得られるエネルギーを用いて、技術革新や開発、さらには生命維持までを行っていたようなのです」
「そのため、“分子固着装置”の影響を受けたこの太陽系の環境で、それまでの生物は生きていくことができず、彼らは、このように文明や生態、存在の痕跡のみ残して、滅んでしまったと、考えられています」
「この星の生物、とりわけこの足跡を残したとされる“人類”と呼ばれる種は、分子間エネルギーの利用については、深い知識と、我々から見てもオーバーテクノロジーといえる、恐るべき技術を持っていたと言われています。_最近のサブカルチャー文化でも、“もし太陽系が大戦に参加していたら…”なんてものも人気ですね」
ツアーガイドは一気呵成に説明し、観光客に向けてにっこりと笑いかけた。
「今日は、_不運にも、そして皮肉なことに_分子固着装置によって滅び、寸分欠けることなく保存されている太陽系惑星の色彩に溢れた美しい環境と、独自の発展を遂げた恐るべき技術や文化の痕跡を巡って参ろうと思います。それでは、分子エネルギーによって形作られた、太陽系地球での旅をお楽しみください」
水たまりには青い空が映っていた。
“人類の足跡”に踏みつけられ、濁りの混じった、信じられないほど美しい色彩をしていた。
I love you
エアメールの、手紙と詩の末尾に添えられたその「love」は
恋か、愛か、それともただ単なる大好き!か、
言葉の下手な私は、それを判断できないでいる。
約束だよ、小指絡めたあの日が
世界でいちばん幸せだった。
チューブに絡みつかれ、もはや病室のベッドの一部になっている君を見て、ふとそんなことに気づいた。
君の小指を、あの日のように絡めることは、もう叶わない。
無機物のように呼吸する、君の寝顔を眺めた。
こうならないように、君は私の家から出ていったのではないのか。
話が違うのではないか。
そう問いかけてみても、君はもう答えられないのだろう。
君が出ていったのは、空気の綺麗な場所で療養するためだった。
君はアレルギーが多くて、花粉症の類に散々悩まされてきたから、謎の有害物質がどこからか見つかり、徐々に汚染が進み始めている、この大都市を離れていかなければならないことは、よく分かった。
だから、私も君を送り出した。
もう少ししたら、私も君の元へ行くよ。この仕事が落ち着いたら、すぐに。
そんな話をして、そしたら君は笑って
「約束だよ」
私たちが約束をする時は、必ず小指を絡めて、ゆびきりげんまんをする。
初めて出会った小学生の頃からの取り決めだったから、私とあなたは、あの日も、例に漏れず、どちらからともなく小指を絡めた。
あの日が最後だった。
次に君と出会った時には、君はもう無機物の一部になってしまっていた。
植物状態。生命維持装置。脳死。
そんなフィクションの世界でしか聞いたことのないものを現実に突きつけられて。
君がどうしてこうなってしまったのかも、未だに分かっていない。
約束が破られたまま、私に突きつけられた現実は、受け入れ難い。
悪夢のようで、夢であってほしかった。
しかし、現実は今日も私の目の前に横たわっている。
無機物の君が、私に鋭い現実を突きつける。
君は返事をしない。
私を慰め、励ましてくれる君は、もう病室の景色の一部分となって、沈黙を守っている。
約束だよ、小指を絡めたあの日が
世界でいちばん幸せだった。