風に、白い布がはためく。
薄い影が、カーテンの表皮をなぞるように動く。
そっとキスされたようにいつのまにかできていた、虫刺されのふくらみを、無意識にひっかいた。
カーテンが、誘うように風にはためく。
薄い影が、カーテンのひだに浮き上がるように動く。
カーテンの向こうにいる何者かたちの姿は見えない。
なめらかな曲線の輪郭だけが、まるで誘惑をするかのようにくっきりと、カーテンの表皮を滑っていた。
私はただ、その不思議な影と涼しげにはためくカーテンとを、ただ眺めていた。
私がいる方は、ひどく蒸していた。
中途半端に上がり続けた気温と湿度とが、ねっとりと絡み合い、肌に不快な空気を醸成していた。
影はなめらかに、まるで蒸している不快な肌触りの空気などないかのように、優美に動き、カーテンの中を自由に、するすると這い回っていた。
私はただ、この状況に冷静な分析も客観的な視点も持てずに、得体の知れないその影に目を奪われ続けていた。
その影は、人間の女のようになめらかで美しい曲線を持ちながらも、明らかに五体よりもずっと多い付属品を、巧みに、滑らかに操り続けていた。
その数々の腕に抱きすくめられ、撫でられている、ひかえめでなめらかな少女のような曲線が、体をすくめるようにびくり、と動いた。
なにやら、ふんわりとした香りが鼻腔をくすぐった。
そこで、私は初めて、自分が調査員であったこと、そしてこの影の主である未確認生物と、それの恋人らしい人間と、二人が暮らすという家に調査として踏み込んだことを思い出した。
あの、なめらかに優しく動く、多腕の生物を研究所に“保護”するために、ここにいることを、思い出した。
目の前では、相変わらず影が、なめらかに美しく、睦み合って、カーテンの表皮をなぞっていた。
私は唾をのんで、彼女らが満足するまで待とう、と思ったら。
カーテンを剥ぐことが、私にはどうしてもできなかった。
その石は、ひんやりひんやりと、判断力を吸い続けていた。
判断力を、遠慮していた心を、臆病な気持ちを、倫理観を、その石は静かに静かに吸い続けている。
石の奥、一番奥の芯は青く深く、ひたすら渦を巻く青が広がっている。
深い、深い青が、手の中に収まるくらいわずかな石の中に閉じ込められている。
これは永遠の幸せなのです。
誰かが言った。
その石は、青く深く、深海のように澱めきながら、青く、深く、輝いていた。
光を、日光を、色を吸い込むような青く深い闇で、強い決意を、体温を、吐き出しながら、青く深く輝いていた。
青く深く、ドクドクと脈打つ。
この石は確かに、永遠の幸せだった。
この石のために、大人になってまで私をイビリに現れた、学生時代のいじめっ子の友人を、バラバラにして鞄に詰めた。
あの薬と出会わせてくれたのもこの石だった。
青く深く脈打つ。
この石は、私に青く深く脈打つ幸せを届けてくれた。
殺しはまだバレていない。
薬もまだバレていない。
石のもたらす幸せも、誰にもバレていない。
私は自由だ。
石のおかげで、罪悪感や恐怖や毎日の悪夢と引き換えに、自由と幸せを手に入れたのだった。
今でも、犯罪がバレる悪夢は見る。
石を失い、元の生活に戻ってしまった悪夢を見る。
しかし、夢は所詮夢だ。
最近は朝が待ち遠しい。
夢から覚めれば、私は自由でそして、幸せだ。
石は深海を思わせるように青く深く脈打っている。
鮮やかに、深く、青く。
私は石を握りしめる。
私の中に幸せが、青く深く脈打つ。
夏になったら、その“選抜”は始まるのだった。
梅雨が明けた。
天気予報はこぞって、陰気で湿った雨の季節が終わりを告げたことを祝っていた。
眩しい日の光が、自宅の窓際にまで届いていた。
キーボードを押し込んでいた指から力を抜く。
窓の外は当たり前のように晴れていた。
青い空が、一面空を覆っていた。
夏になったら、“選抜”が始まるのだった。
この街が夏を終えるためには、“天使”がいる。
暑い日差しの中で、いろいろな無念や恨みや渇きを抱えたまま、スイッチを落とすように簡単に、人生を終えたありとあらゆる生き物たちのために。
あの大天災で消えた全てのものと、暑い暑い夏の太陽と、陽炎と一緒に、地の底に沈み、彼らを帰していく、
“天使”が要る、のだ。
夏になったら、“選抜”が始まるのだ。
この夏、今年の夏と共に埋葬されるに相応しい、“天使”の“選抜”が。
この街では、夏は招かれざるものなのだ。
あの大天災のせいで。
この街では、ただ暑くて陰湿で忌々しいだけの季節なのだった。夏は。
夏なんて、一生来なければいいのに。
夏になったら“選抜”が始まるのだ。
夏になったら、あの大天災がもう一度、始まるのだ。
だから、この街の人々は、みんな夏を忌々しく思いながら、夏を待っているのだった。
天気予報はこぞって、梅雨明けのニュースを伝えていた。
窓を開けた。
既に空気はからりと暑さを纏い始めていた。
空は抜けるように真っ青に晴れ渡っていた。
太陽は燦々と降り注いでいた。
夏の気配がした。
ほら、目の下を蝿が這い回っているだろう?
マジで死んだんだ、俺は。
ああ、そこのテーブルの皿には、マカロニチーズピザが張り付いている。食べたけりゃ食べると良い。
そこのグラスには、炭酸の抜けた、甘ったるいコークが、日光に晒され続けている。こっちを腹に入れることはおすすめしない。
「まだ見ぬ世界へ!」
見ろよ。
この状況を描写するってなら、
「一字一字切り抜かれた新聞の切れ端が厚紙の上で組み合わさって、詐欺まがいの新世界があることを主張し続けていた。」ってとこか?
君が、そうしてやってきた街は、現実と人間の欲という、既に見慣れたものの指紋でベタベタに汚れたありふれた街だった。
君だって、来るまでに薄々気づいていたはずだ。
新聞の切れ端を使って、霧よりも実態のない夢や希望なんて不確実なものを煽るような広告は、大抵、外道なリアリストの釣り餌でしかない。
頭の中がピンクと花畑で取り返しのつかないくらい一杯になっていなきゃ、どんな腐った脳でも気づける話だ。
ところがなんの因果か、君はそれに乗って来てしまったんだから、仕方がない。
よりにもよって、ヘマこいて死んだばっかりの俺の尻拭きに補充されたなんて、そこらの家なしよりも可哀想に思うよ。
…なんだって?君には選択肢がこれしかなかったって?
いいや、もっといい選択肢は他にあったはずだ。君は選択に失敗したんだ。
……失敗したから、クソみてえな人生を終えたクソみてえな幽霊にこうやって絡まれながら、そいつの死体を目の前に、途方に暮れてるんだろ?
こんなはずじゃなかった、なんて思いながらな。
まあしかし、来ちゃったもんは仕方ない。
後悔ってのは、取り戻せないから後悔っていうんだ。
どれだけ失敗を悔いようが、失敗を認めないでいようが、現実からは逃れられないのだから。
それに、その新聞のスクラップを見て来たんなら、君の選択肢は、考え方によっては、あながち大失敗とはいえないかもしれないしな。
何はともあれ、君は今までとはまた別の世界に足を踏み入れたんだ。
ようこそ、まだ見ぬ世界へ!
ゴーグルを外す。
肉体の重みが戻ってくる。
喉が渇いていたことを思い出す。
現実の質感が体を貫く。
ノロノロと手を伸ばし、水道水を飲む。
それから、2錠のカプセル剤を取り上げて、喉の渇きに任せて飲み込む。
もうすぐ、この肉体ともおさらばだ。
私の身体は、何かを飲み込むのがとても下手だった。
錠剤のような小さなものでさえ、喉に水を渇望させて、生理的な渇きにかこつけて飲まみこまなければ、喉に引っかかってしまうのだった。
昔から、自分だけできない、というのが多い人間だった。
当たり前にできるはずの当たり前は、できないことの方が多かった。
でもそれももう終わる。
メタバース技術の発展し尽くして、五感を取り込むようになり、それを利用した人類の意識の統合が可能となってから、随分経った。
そして、政府が「より良い未来」「強固な安全」を実現するために、国民の意識の統合を推奨し始めて、今日で一年になる。
最初は、もっと早く、意識を統合するつもりだった。
しかし、時間がかかってしまった。
脳を電脳データにするのにもお金がかかるのだ。
働いてお金を貯めた。
喉が掠れるまで働いて働いて働いて、私はようやく、電脳データになるための、2錠のカプセル剤を手に入れたのだ。
もうすぐ意識は薄れるだろう。
大動脈に防腐剤が流れ込み、脳には静かな睡眠剤が満ちて、私は肉体から解放される。
肉体が、自分のものでなくなるような感覚がした。
ゆっくりと意識が薄れ始めた。
いつか、全身麻酔をされた時の感覚と似ていた。
掠れた喉が、小さく声を上げた。
防腐剤に覆われ始めた私の肉体が、小さく呻いたのだった。
最後の声だ。確信した。
これが私の最後の声になるだろう。
だんだんと、肉体の重みが抜けていく。
腹や胃が、まるで自分のものでないただの袋になり、肩から力が抜け、喉が透明になり、太ももが消える。
まだかろうじて私のものである耳が、もう私のものではない、肉体の最後の声を聞いている。
意識が浮遊していく。
肉体が少しずつ、私から離れる。
意識が浮遊していく。