ワンピースの裾が揺れる。
今日は風が強い。
空は今日も青い。
雲ひとつない大空。深い、真っ青な空が頭上に広がっている。
小高い丘の上で、空を眺める。
ここでアイツと会ったのは、いつのことだったろう。
あの日も、風が強かった。
あの日、私はそっと施設を抜け出して、散歩をしにここに来た。
外出許可がいつまでも出なかったから、自力で抜け出して、ここに。
あの日も空は青くて、風が吹き飛ばす雲なんてなくて。
風のいたずらで、私の着ていたワンピースの裾が翻った。
そこにたまたま居合わせたのがアイツだった。
施設の職員で、私を追って来た、まだ新人のアイツが。
私のスカートの下を見て、アイツはどんな顔をしたんだっけ。
少なくとも、「ラッキー!」みたいな前向きな表情ではなかったはずだ。
アイツは口をつぐんで、それから困ったように私と目を合わせた。
少なくとも、被験体に向ける表情ではなかった。
アイツは甘い奴だった。
甘々の甘ちゃんだ。どうしようもないお人好しだ。
あんなのじゃ、この界隈はまだしも、他の世界でも上手くやっていけないだろうに。
私は施設に保護された負傷者で、被験体だった。
かつての任務で、下半身を失い、敵地であったあの施設に保護されて…。
培養による義体の作成の、実験体として収容された私に。
その私に対しての風のいたずらに、目が合うとアイツは、泣き出しそうな情けない顔で一言だけ言った。
「帰りましょう」
アイツは甘ちゃんで泣き虫なくせに、被験体の前でだけは泣かなかった。
「…施設側の人間である僕に、君たちの屈辱や気持ちは分かってあげられませんから」
“あげられない”の傲慢さにも気付かずに、アイツは私たちの前で、涙を堪えていた。
アイツは殉職した。
私たちの仕事では珍しくない殉職だ。
最期までアイツは、施設を守ったそうだ。
失敗した被験体の貯蓄庫だった、あの施設を守って。
今日も風が強い。
下から吹き上げる、風のいたずらの風が、強い。
ワンピースの裾が揺れる。
空は抜けるように青い。
「涙色」は赤い。
この言葉を作った昔の人は、普通の涙ではなく、感も極まりに極まった、血涙の方を語源にしたからだそうだ。
催涙弾が降る街には、血の代わりに涙が流れる。
悲嘆にくれる血の涙ではなく、生理現象の透明な涙が、後から後から流れる。
この地は異教徒の地だった。
昔は帝国との貿易地であったこの地は、帝国の宗教が広まっていた。
帝国によって、広められていた。
しかし、この地の人々とこの地の風土が、帝国の宗教の教えを歪めていた。
この地は、帝国ともこの国ともつかない、奇妙な教えと宗教観とを、脈々と伝えていた。
そのため、この地は、帝国からもこの国からも見放され、いや、むしろ厄介なものとして、憎まれ、見捨てられていた。
その一つには、帝国は自国の宗教を、侵略や治国に利用していたことも影響しているのだろう。
ともかく、この地は、帝国にもこの国にも、異教徒の地として忌まれ、暴徒の地として恐れられた。
催涙弾が絶えず降るのも、そういう、国との緩やかな対立のためだった。
この地の人々は、神がこの責苦を救ってくれることを、切望していた。
信じていた。
「神の僕である人々が、血を流しているならば、神は必ず救いの御手をもって、人を救う」
「神の僕である人々が、邪教のために血を流しているならば、神は必ずその御手をもって、邪教を退け、我々に勝利をもたらす」
というような、教えがあるからだ。
しかし、この折、僕は考える。
我らが神は我々が血を流していれば、必ず僕たちを救ってくれるそうだ。
しかし、血でもなく、血涙でもない、透明な涙に対しては、手を差し伸べてくれるのだろうか。
僕たちが今なお流し続けている、透明な涙には、御手を差し伸べられないのではないか。
血の流れない苦しみに、御手を差し伸べてくださるのだろうか。
この地には、もう何十年も透明な涙が流れ続けている。
催涙弾が降る街には、赤い血の代わりに、透明な涙が流れるのだ。
そして、世間では「涙色」すら、赤いらしい。
たたへて そうすは、いみじく かしこしことなれど、
うたてし このよをば おぼせば、もくすること たえがたき。
よるに かよわぬ あなたなれば、
われの こころも いさしらぬ
かような よるには たえがたき、
けがれおおき わがこころ。
あなたの こころあるを たのみけり、
ゆゆしき あなたのもとへ そうじょうす。
よもすがら。
そんじることありて うたてとおぼゆおのれに、
ふゆのよながは たえがたき。
ぬること かなわず よもすがら つきかげ ながめおるよるは わびしくすぎゆ。
このよこそ ひとはだこいし よなれど、
たよるひとなく ただ、つれづれなるよの すぐるままなるよ。
こころすごし ふゆのよに、
ひとり つきかげ ながめける。
おとは ゆきにか のまれける、
さびしき よにて さうざうし。
ゆきの あさに さすかげの
こころつよしこと あなたのごとし。
あいたき こころ たかまれば、
このよの ゆきの うたてしは、
ましてうたてく われにふる。
かしこき ほい と しりぬれど、
しかし われは すてざりぬ。
われの をこなる ほいを、
われは おもいすてざりぬ。
あなたのもとへ ちをけりて、
みずにいりて あなたのもとへ。
ゆゆしき とが とは しりぬるも、
われは おぼゆ この ほいを。
かしこみ かしこみ かしこみもうす。
われは あなたのもとへ かけたし。
あなたのもとへ ただ いきたく。
をかしき ゆゆしき わが こころ、
あなたの みこころ けがらはむ。
とく やぶりて たびたまう。
たたえて そうすは いみじく かしこきことなれど、
われは すつらぬ このほいを。
やぶりて すすぎ たびたまう。
をかしき ゆゆし わがこころ。
かしこみ かしこみ かしこみもうす。
あなたのもとへ、あなたのいもより、
かしこみもうすこと。
甘だるい香りが鼻腔をくすぐる。
手元のガラス瓶の中に溜められた、この溶解液の匂いだ。
スポイトで、そっと一雫吸い上げて、落とす。
落とした先に転がっているものが、じゅわじゅわと泡を立てながら、溶けて腐り、ゆっくりゆっくり液体になり、気化していく。
肉の溶ける甘だるい匂いがぶわっと広がる。
ぐらり、と四方の壁が揺らぐように動く。
真っ白な壁。
真っ白な天井。
真っ白な床。
扉すらないこの部屋は生きている。
私はそっとガラス瓶にスポイトを入れ、またそっと、溶解液を一滴、吸い上げる。
そして、足元に置いている死体に、そっと垂らす。
じゅわじゅわと泡が上がる。
骨と、肉が混じり合って、じゅわじゅわ溶けてゆく。
この部屋は生きている。
この部屋自体が、大きく、悍ましい化け物なのだ。
しかし、この化け物は何もしない。
何もできない。
ただ、何もない、小さな一部屋の真っ白な部屋として、この生き物はそっと、ひっそり生きているのだ。
そして、私はそれが生きる手伝いをしている。
この部屋は、私がいるこの部屋の生き物は、捕食機能と消化器官を持てなかった個体なのだ。
だからこの部屋には、扉も窓も存在しない。
…本当なら、人を捕食するために、この化け物には扉が存在するはずなのだ。
私がこの個体に出会ったのはいつのことだったか、覚えていない。
この部屋の化け物の中に入ったが最後、生きとし生けるものはみんな記憶が曖昧になってしまうのだ。
しかし、私はずっと何故だか、この化け物に同情的だった。
放っておけないのだ。何故か。
私は、この部屋が、ただひっそりと、そっと生きているこの化け物が何故だか、とても好きだった。
だから、化け物の希望にしたがって、化け物のために人の死体を運び込んで、溶解液で溶かしてやっている。
部屋が、ぐらり、ぐらりと揺れる。
喜んでいるのだ。
それで私は、この化け物が愛おしくなる。
喋れず、扉などを仕掛けて能動的に生きていくこともできず、ただ、私を待つこの化け物が、私はたまらなく愛おしくて、どうしても好きなのだった。
だから、私は今日も、ありったけの愛おしさを込めて、そっと溶解液を垂らす。
真っ白な部屋の、真っ白な化け物に。
そっと、ひっそり、自分の意思すら伝えられない、哀れな生き方をしているこの生き物に。
私はそっと食べ物を運び込み、そっと溶解液を垂らす。
そっと、そっと。
この生き物を壊さないように。
この生き物を生かすために。
私は今日も、溶解液と愛を垂らす。
そっと生きている部屋に。
そうっと。
雨が上がった時に出る、虹の麓には宝物があるらしい。
虹の根元には、幸せという宝物があるらしい。
…虹がなんなのかは分からないけど。
僕は今日も空を見上げている。
埃がうっすら窓枠に溜まった、ガラスが白く曇った、はめ殺しの、僕たちの目線よりもいくらか高い窓から、空を見上げている。
重たい雲が、窓の外の空を覆っている。
僕の背よりも、大人の背よりも、この建物よりも、うんと高い、高い、空の上で、雲はずどんと重く垂れている。
ランプを置いて、読みかけの本を閉じる。
雨の音が、鬱々と、建物の外壁に打ち付けている。
隙間から雨の冷たさが、空気になって染み込んでくる。
肌寒くて、僕は膝を抱える。
ふわっと、白く細やかな埃が舞う。
この建物に閉じ込められてから、どのくらい立つだろう。
顔のない大人ばかりのこの建物に囚われて、どのくらいが。
町を外れたのは、仕方がないことだった。
噴火に巻き込まれて、お父さんとお母さんが死んで、逃げた先には人買いがいて、必死に逃げているうちに、いつの間にか、人里外れたこんな森にいた。
町を外れるのは危険なこと。
小さい頃、お父さんとお母さんに教わった。
この世界は、はるか昔の科魔戦争の名残で、魔障に侵されている。だから、人里外れた魔障の濃い地域に入れば、化け物になってしまう。
そんな話を、僕たちは当たり前に聞かされて育った。
だから、こんなことがなければ、僕は一生こんなところには来なかったはずだった。
町の外は、僕たち町の子にとって、そしてこの世界を生きる人間にとって、まだ見ぬ世界だった。
僕は、まだ見ぬ世界を彷徨った。
何も分からなかった。怖かった。
いつの間にか一緒にいた、年下の少女と手を繋いで、僕たちは見知らぬ森を歩き回って、そして。
顔のない、ひょろひょろと背の高い大人たちに見つかった。
顔のない大人たちは、僕たちに優しかった。
町から逃げてきた僕をこの建物に迎え入れてくれて、温かいご飯をくれて、服やおもちゃや本を用意してくれて…。
顔のない大人は、町の大人と変わらずに、僕を愛してくれた。
安心をくれて、いろんなことを教えてくれた。
お父さんやお母さんのように。
今まで見てきた世界のことも。まだ見ぬ景色のことも。
虹について教えてくれたのも、顔のない大人たちだった。
顔のない大人たちは、僕たちに自由に、子どもらしく生活させてくれた。
ただ、この建物の外へは絶対に、僕たちを出さないようにしていた。
確かにこの森では、いつまでも紫の雲が重苦しく垂れて、細くて冷たい雨がずっと降り続けていた。
それなのに。
それなのに、顔のない大人たちが語る、外の話はどれも楽しそうで、美しそうで、僕たちはまだ見ぬ世界に憧れた。
僕たちがまだ見ぬ世界に憧れてはしゃぐと、顔のない大人たちは、嬉しそうにいろいろ話してくれた。
だから僕は今も、こうして大人たちにねだった、外の話の本を読んでいる。
まだ見ぬ景色に想いを馳せて。
…外の話を教えてくれる時に、大人が少し痛そうに見えるのを、見て見ぬふりをしながら。
僕は虹を見たい。
虹の麓に行きたい。
そして虹の麓で、顔のない大人たちの、一緒に笑ってくれるあの女の子の、僕の、みんなの幸せを見つけたかった。
僕は、まだ見ぬ景色に憧れ続けている。
この古ぼけた、寒い雨の中で。
雨はまだ降り続いている。
冷たい風が、染み込んでいる。
僕は立ち上がる。
まだ見ぬ景色について書かれた本を持ち上げて。
窓の外ではまだ、紫色の雲が、空に重たそうに垂れていた。