赤焼けの空に、童謡のメロディを奏でるチャイムの音が高らかに響く。
午後5時だ。
真っ黒なカラスのシルエットが、陽気なチャイムともの悲しげなヒグラシの喧騒の中を、突っ切っていく。
晩夏の蒸し暑い夕暮れは、のろのろと過ぎていく。
私は、動かしていた手を止めた。
雑巾は、拭き取っていた液体を十二分に吸い上げて、ぶくぶくと太っていた。
爪の間から指先の第一関節までを、赤黒いものが染め上げている。
今日は8月31日だった。
そして、今、目の前で、赤黒い内容物に塗れて、物言わないただの物体になれ果てている彼は、8月31日を、死ぬほど嫌っていた。
彼は、面倒くさいほど繊細で、優しい人だった。
洗剤の泡が残っているのが許せず、いつまでも丁寧に皿を流しているような人だった。
よく「眠れない」と唸るように言いながら、パラパラと錠剤を飲み干すような人だった。
そして、「死にたい」が口癖のような人だった。
彼は、この家から外の、世の中のありとあらゆる何もかもを憎んでいた。
自分の身体を外の奴に触らせたくない、といつも言っていた。
だから、私は今こうして、部屋の掃除をしているのだった。
身体を屈めて、一人で、午後5時の童謡を聴き流しながら、彼の遺した痕跡を拭き取っているのだった。
今日は8月31日だった。
8月31日、午後5時。
私は今も、彼を拭き取っている。
呑気にノロノロと、童謡を模ったチャイムの音が流れている。
ヒグラシが鳴いている。
カラスが、夕日を横切っていく。
戦争は終わった。
勝利の知らせは既に国中に広がり、街は、なんだか現実味のない喧騒で湧いていた。
ふたり分の生活用品の詰まった買い物袋を肩に下げて、道をゆっくりと歩く。
しばらく見ないうちに、この辺りも随分と様変わりしたような気がする。
少女たちが和やかに話しながら、横を通り過ぎてゆく。
自分が変わったのだろうか。
肘しかない腕の丸い断端にはめて固定した杖に、身体の半分の重さを預ける。脚が軋む。一歩を踏み出す。
戦争でこの街を出てから、もう5年が経っている。
かつては自分の庭と呼べるほど知り尽くした故郷だったこの街も、今では私を余所者だと思っている気がする。
焦土と化した町で、爆発を逃れるために引き摺り込まれた物陰で、戦闘終了の命令を言い渡された時、私は確かにホッとした。
不思議なことだが、私は衛生兵に引きずられている自分の状況も忘れて、故郷であるあの街を、かつての記憶の通り意のままに歩く様子を、脳裏にありありと描くことができた。
私は、どうしてだかあの時、無邪気に戦後に希望を抱くことができていたのだった。
しかし、あの時私を引きずっていた兵は違った。
彼女はこわばった顔で、ぼんやりと私の顔の方に俯いていた。
彼女は知っていたのだろう。
戦争が終わるということを。
兵士が帰るということがどういうことかを。
戦争が終わった。
その事実は私たち兵士よりも早く、故郷へ伝わって、その現実味のない高揚感は、今も街を覆っている。
戦争裁判が始まった。
引っ立てられるのは、運の悪いことに、大衆の情を引くほど負傷をしていなかった兵士たちだった。
戦争を始めた文民たちや私たちのトップは、戦争の泥や血を被らないばかりか、責任すらも取ってくれないのだった。
人道的な戦争など、かつて歴史上に存在したのだろうか。
甚だ不明だったが、非道な戦いをしたとして、戦犯は裁かれ続けた。
足と腕のちぎれた私を助けてくれた、あの日私を引きずって物陰に飛び込んだ彼女も、そんな戦犯の1人だった。
彼女は犯罪者になった。
しかし、彼女が私の命を救ったのも事実だった。
だから、私は、彼女とふたりで故郷に帰ることを決めた。
故郷の街の平和な片隅で、ふたりぼっちの暮らしを送ることにした。
実際、故郷の街は、私にとっては、記憶からすっかり変わり果てていた。
平和な日常は、私たちにとっては、サイズの合わなくなった服を着たときのような居心地の悪さを纏っていた。
戦争を知らない街は、私たちの困難を孤立させているような気がした。
けれども、ふたりの暮らしは思ったよりも悪くはなかった。
戦争は終わった。
街は、戦勝の現実味のない喧騒で包まれていた。
私は、家へ向かう。
杖に身体の重さの半分を預ける。
脚が軋む。
私は、ふたりぼっちの家へ向かう。
一歩一歩、戦争を知らない街を踏みしめて。
独歩遺焦道
咳舞砂塵芥
今無緑勿鳥
生心中風景
独り遺り焦げた道を歩く
咳すれば砂塵芥が舞う
今は緑無く鳥は勿けれど
心の中の風景は生きている
ダンボール 運び出す庭 夏草や
夏草を かき分けかき分け 虫籠と
踏みつけた 夏草の匂い 夏の暮れ
ここにある ただそれだけで 温かい
心の奥を 大切にして
今ここに あることが重要 そう言って
私たちの師は 宿題を集め
いつでも ここにあるから そう言って
私に肩かす あなたの温もり