夕方の シオカラトンボに 呟いた
またね、明日ね、さようなら
きっと君 またね、と言った はずなのに
つまんだ骨の 重さは後悔
またね、など 信じはしない 同じ日は
私たちには 二度とないから
またね、って 進んだきり針 戻らない
8月6日 8時15分
ヴィーナスは泡から生まれる。
だから私は、泡になりたかったのだ。
海は荒れ、泡立っていた。
どろどろと透き通ったミズクラゲが、海辺に打ち上げられていた。
かつて、彼は美しいあの人に向かって、口説き文句で言った。
あなたは私のヴィーナスだ、と。
私に向けてではなかったけど、確かに。
彼はモチーフを求めていた。
彼は切望していたのだ。
神でさえ魅了する美しさを。
だから私は、泡になりたい。
あなたが神に愛されるために。
あなたを神に愛させるために。
波が荒々しく打ちつけている。
海は泡立ち、白波を立てながら、クラゲを運んでくる。
高い波を眺めながら、泡になれないものかと考える。
人魚姫でもあるまいし、こんな海の中に飛び込んでも、私は泡になれないに違いない。
波が泡立っている。
私は、泡になりたい。
ようやくこの日がやってきた。
私は馬に跨り、完全に水平線の向こうに落ちようとしない夏の太陽の薄闇の中、あの細い煙を目指して、手綱を握る。
蝉はもう、ヒグラシに切り替わっている。
それにしても、この数年で、この季節はずいぶん暑くなったものだ。
もう必要のないはずの汗が、だらり、と頬をつたう。
なんで、私たちがここへ帰って来れる季節は、こんなにも暑い時期なのか。
昔から暑がりで、汗かきな私には、とても理解できない。
今年だって、この夏は、暑い、暑いと騒ぐ人々を、尻目に、私はのんびりと涼しいところで引きこもっていたというのに。
「さて、みなさん、待ちに待ちましたお盆です。今日から私どもも、お盆休みをいただきます。さあさ、みなみなさま、年に一度の機会です。ぜひご帰省なさってください」
私たちは、毎年の如くそう言われて、馬に乗り、ここへやってきた。
…いや、帰省できるのは嬉しいのだ。私は、家族とも関係が良好だったし、親戚の子や兄妹の子、かつてのご近所の子どもたちが、どのくらい大きくなったかを見守るのも、楽しみだったりする。
しかし、しかしだ。
時期が悪すぎる。
なんで、一年に一度、家に帰れるその時は、こんな夏真っ盛りのお出かけに向いていない日なのだろうか。
汗っかきで、暑がりの、夏嫌いな私にはどうしても納得できない。
もはや姿も匂いも誰にも気づかれないようになったと言っても、気になるのだ。
三つ子の魂百まで。
生前の習慣や好き嫌いは、死後何年経っても、治らないものなのだ。
文句を言いつつも、私は家族に会いたい。
だからその一心で、いつもこの暑い中、季節のない年中快適な天国をわざわざ出て、家へ向かう。
お盆は夏だから。
しょうがないのだ。
日がある程度落ちたというのに、外はまだ暑く蒸している。
毎年のことだ。
毎年のことだが、暑さは年々、酷くなっている気がする。
ただいま、夏。
私は僅かな恨みも込めて、毎年のように呟く。
今年も、夏に帰ってきた。
沈黙が満ちる。
コップに注いだソーダの泡が、弾ける音さえ、聞こえていそうな沈黙。
外はギラギラとした夏の太陽が、惜しげもなく照りつけている。
青天井。
青くて高い空が、窓から見える。
回しっぱなしの扇風機が、ぶぅぅん、と唸る。
扇風機の、テープで固定していた首が、がくん、と折れて、項垂れる。
沈黙が、私たちを支配している。
君は言葉を発しない。
私も何も言えない。
私たちは向かい合わせに座って、ただ、沈黙の支配を甘受しながら、テーブルの上に置かれた炭酸を見つめている。
このテーブルで、唯一生き生きと動いていそうな炭酸の、泡が生まれ、浮き上がり、弾け飛ぶ様をただ2人で見つめている。
君の目には光はない。
私の目にも、きっと光などないだろう。
沈黙が満ちる。
遠くからニイニイゼミの声らしき声が聞こえる。
ウシガエルの低音が混じる。
扇風機は折れた首を項垂れたまま、ぶぅぅん.ぶぅぅぅんと断末魔のように唸っている。
私はこわばった右手で、コップを掴む。
生き生きとしたこの炭酸の泡を飲み干せば、私にも命が宿る気がして。
炭酸を口に運ぶ。
ぬるい。
ぬるい。
まるで、私と無口な君の間にある、死んだ時間のようだ。
今まで、ここを支配していた沈黙もぬるかった。
結局、これを飲み干しても、私は変われないのだろう。
そう思いながらも、味気なく不味い、沈黙のような、ぬるい炭酸を飲み干す。
ぬるく緩慢な炭酸が、萎んだ喉を、ぬるりぬるりと落ちていく。
沈黙がこの場には満ちている。
もう変わることのない沈黙が。
首が折れ、断末魔すら低く静かに唸ることしか許されていない、私たちの沈黙が。
沈黙は、この部屋を支配している。
ぬるい炭酸と無口な君。
それから、哀れで愚かな私を。
砂浜に手紙を書いた。
波間のすぐそばに。
うちのような穏やかな海にも、流木は結構流れ着くようで、
波打ち際から少し離れた浜辺の奥に、満潮の、水面が高かった時刻にたどり着いたのか、丸く砂でざらざらした枝が、海藻にくっきりと線引きされた乾いた浜辺の砂地まで打ち上げられていた。
海藻や発砲スチロールやシーグラスや海ゴミに紛れて、砂浜に落ちている流木は、その一つが誰かに持ち去られても分からないくらいには、自然に、あっけらかんと、そこに落ちている。
そのうちの一本を拾って、手紙を書いたのだ。
後悔というものは、もう取り返しのつかない事に対してしか湧かない感情だ。
だから、私が手紙を書きたい、と思ったあなたのことだって、もう取り返しがつかないことなのだ。
ちょうど、波にさらわれた砂浜のお城のように。
或いは、今ちょうど波にさらわれた手紙のように。
私が、あなたに巻き込まれるようにして関わったあの事件については、いくら私が考えてみたって、もう過ぎた事であり、取り返しのつかないことなのだ。
あなたはもう、前のあなたには戻らないし、
あの人も、もう私とあなたに微笑みかけることはないのだ。
私があの時、あなたにかけたかった言葉、
あの人にして、かけてあげたかった言葉、
それらはもう、どうしたってもう、届けられないことなのだ。
だからせめて、私は、波間にその言葉を書く事にしたのだ。
波にさらわれた手紙を。
もう取り返しのつかない気持ちを。
波にさらわれてなかったことになるように。
波が、手紙をさらっていく。
砂がさらさらと、枝で刻まれた文字の窪みを、消していく。
波が、砂浜に寄せて返す。
海の波は、今日も穏やかに、寄せては返す。