薄墨

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乾いた硝煙と、砂埃とが、静かに引き上げた静寂の時間だった。
土埃と汗と泥に塗れた人々が転がり、その頭上には、分厚い沈黙が、のしかかっていた。

不意に、手首を掴んでいた。
白い僕の手首より、僅かに細い、ここにいる大半よりは華奢な手首を。

確かに掴んだ。
掴む立場ではなくとも。
掴む必要もきっとないのだと分かっていても。
掴む。
掴んで、握ってしまった。

握った手首の先で、驚いたような顔をしていた。
怒鳴って張り飛ばす時の鬼の形相や、こちらを宥めるように微笑む顔は見慣れていたけれど、そんな顔は初めて見た。

眉を軽く持ち上げて、不意をつかれたような、そんな素の顔は。
かわいい、と思った。
いつも、勇ましいとか、カッコイイとか、そんな風に思っていたのに。

どこにも行かないで、なんて思ってしまったのだ。
土埃と泥と汗に塗れたこの世界で。
ここに止まり、居続けること自体が、危険で、恐ろしくて、最悪なことだというのに。

そして何より、彼女に一番迷惑をかけているのは、そんなことに気づかないようなフリをして、馬鹿のように死地へ向かっていく僕だというのに。

もう、どこにもいたくない。
そんな投げやりな無気力のおかげで、こんな場所でも無邪気に振る舞える、邪気まみれの僕に、振り回されているこの場所こそ、彼女が離れなくてはならない場所のはずなのに。

不審そうな顔をして、立ち止まった。
「…何かあった?いつもと顔つきが違うぞ」
そう聞いてくる口調と顔に、さっき、後片付けをしている方に向かおうとしていた彼女の横顔にあったような影は、消えていた。

どこにも行くな、は彼女のセリフだった。
実際、僕がこの地に配属になってからずっと、何度も、彼女が言っていた言葉でもあった。

やけっぱちで、無茶苦茶な突撃に向かおうとする僕の首根っこをひっ捕まえて、いつも怒鳴りつけていた。
「命を無駄にするな。人的資源を無駄にするな!勝手に出るな!どこにも行くな」

だから、その言葉が不意に、彼女に向けて、自分が心の底から湧き上がってきたのが、自分でも不思議だった。

けれど、今日の、戦況報告という名のありふれた訃報を聞いた彼女の横顔を、顔を見て、ハッと思ったのだ。

どこにも行かないで。
手首を掴んでいた。
言葉は、すんでのところで呑みこめた。

「…どうした?」
不審そうな顔から、不安そうな顔になった彼女が、私を覗き込んだ。
「…いえ!なんでも。」
喉から絞り出した。
いつものように、元気に、明るく聞こえるように。

思ったより、ずっと細くて華奢な手首だった。
僕を引き摺り込むあの時の力とは似つかない、柔らかい手首。
でも、僕を引き摺り込み、怒鳴る時のあの熱はそのままの、温かい手首。

どこにも行かないで。
どこにも行かないでくれ。
温もりも、何もかもそのままに、この場所に硝煙も血の匂いもなくなって、穏やかに生きられるまで。

できるだけ長く。
どこにも行かないで。

あの時の、手首を掴んだ時の感触とこんこんと湧き上がってきたこの気持ちを、僕は生涯、忘れられないだろう、そんな予感がした。

そして、この気持ちが僕を埋め尽くすのは、これが最初で最期なのだろう、と。そんな予感が。

怪訝そうな心配そうな瞳が、僕を見ていた。
握られたままの手首が、所在なさげに、心配そうに項垂れていた。

どこにも行かないで。
どこにも行かないでくれ。
ただ強く、そう思った。

6/22/2025, 3:18:00 PM