薄墨

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3/11/2025, 10:55:35 PM

カノープス。
水平線スレスレで遠くを泳いでいるあの星は、カノープスと言う。
嵐の前触れとばかりに、さざなみを立てるあの水平線の上で、冷ややかに白く光る、あの星は。

私は砂浜からそれを見た。
明るいカノープスはただ一星、ぽつりと輝いて、海の上に見えた。

あの星は、父さんの船が沈んだあの一夜にも出ていた。
水平線の上を、ぽつりと光っていた。

あの星は、兄さんが恋人を連れて、この町から出て行った夜にも出ていた。
水平線の上に、白く光っていた。

あの星は、母さんがここから逃げ出したいと言って、一人で船に乗り込んでしまったあの夜にも出ていた。
波立つ水平線の奥に、くっきりと光っていた。

カノープス。
その名前を知ったのは、スマホを手に入れてからだ。
それまで、あの星にこんな洒落た名前がつけられているなんて知らなかった。
あの星は、大抵いつも、「めらぼし」とか、「なまけ星」とか、「凶星」とか、「呼び星」とか、そんないろいろな名前で呼ばれていたから。

婆ちゃんは言った。
うちん人たちはみんなあのめらぼしに呼ばれてち、行ってしまうんよ
うちん人たちはぁね、昔からずっと…
けんど、残されたち、わたしらぁは困るよぉね

そう言っていつも婆ちゃんは、目尻の皺を下げて、優しく、哀しく、困ったように笑った。
そういう笑顔を苦笑と呼ぶのだというのも、スマホを持ってから知った。

本当のところ、私はこの町から出たかった。
スマホの中から知る外の世界には、この町にない色々な物があって、自由があって、世界が広がっていた。

私は、あの星の向こうに行きたいと、いつからか、強く思うようになっていた。

そうして、そんな思いを反芻するその度に、婆ちゃんの、困ったような、悲しんでいるような、あの苦笑がチラついた。

うちん人たちはみんなあのめらぼしに呼ばれてち、行ってしまうんよ

婆ちゃんの、あの声が染み付いている。

外の空気を吸いたくて、ふらふらと浜辺に来た。
すると、あの星が水平線に見つかった。
白くて一つきりのあの星、カノープス。

めらぼしは、今日も輝いている。
ずっと遠くで。

3/11/2025, 3:10:12 AM

本当に、叶ってしまった。
それだけで、その願いはもう、自分のものではないような気がした。

「願いが1つ叶うならば」
かつてはそんな問いを一笑に付した。
だってそうだろう。

悲願は自分で叶えるから初めて悲願となる。
何の努力もせずに叶って、あっさり手に入れられた願いに愛着なんて湧かない。
誰か別人に叶えられた自分の願いなんて保たない、大切にできない。
あぶく銭と同じように、儚く、浅い。

だから、「願いが1つ叶うならば」なんて問いに答えようなんて本気で思ったことがなかったんだ。
あの日までは。

あの日、私は見つけたのだ。
打ち捨てられた魔法のステッキを。

何故だか、一目見た時にそれが魔法のステッキだと分かった。
これは願いを叶えてくれるステッキだと、確信した。

つい、好奇心と誘惑が頭をもたげたのだ。
私はステッキを拾い上げて願った。
「もし願いが1つ叶うならば」そんな問いを冷笑しながら、心の裡でずっと温めていた願いを。

まもなく、その願いは叶った。
急にというわけでもなく、まるで自然に、初めからそうなるはずだったというように。

当たり前だ。
あれは一朝一夕の願いではなかった。
私はその願いを叶えるために、いろいろ考えて、動いてきたのだから。

だから。
だから、願いが叶ってしまった時、それが自分の努力によるものなのか、魔法のステッキの結果なのか、分からなくなってしまった。

私の今までの、人生の願いは、呆気なく叶ってしまった。
今までの努力も、思考もなかったみたいに。
魔法のステッキを振ったせいで。
願いが1つ叶うならば、なんて思ったせいで。

私の願いは叶ってしまった。
一つのちょっとした落とし物で。

願いは、叶ってしまったのだ。

3/9/2025, 3:27:39 PM

その地に足を運ぶのは、いつも億劫だ。

蝉が五月蝿く鳴いている。
蜃気楼のような蒸した煩わしい空気が、体に纏わりつく。
他に人の気は無い。

先生の墳墓へ御参りする時分は、何時も斯様だ。
榊と駅前の饅頭を抱えて、敷石を踏み締める。
水を汲んだ薬缶が手首に重い。
旧盆の燃えるが如き日に灼かれながら、一歩を進む。
じっとりとした空気を、無数の蝉が裂いている。

先生の田舎は西の方であった。
だから、御墓参りも、此方で主流な新盆ではなく、炎天下に灼けつく様な旧暦のこの時期となるのだった。

これは非常に先生らしかった。
天土を全て灼かん盛りに空気は蒸し暑く、しかし人のおらぬ蝉の声だけが木霊すこの時期は、私の知る限りの先生の生き様の如く、凄惨で埒外で蕪雑で、相応しいと思う。

だからこそ、この謂い知れぬ彼の地、この時期の不穏な不快にも、如何にか逃げずに迎えるのである。
この地に漂い、「嗚呼」と呻く不穏の霊も、霊鬼や墓標の纏う不和の気も。

命の恩師たる先生の人生と苦悩の一部となればこそ、私は毎年、この参道を参って、如何にか先生に一年に一度の御挨拶申し上げ、恩をお返しすることが出来るのである。

先生は私を救ってくだされた。
精神の意でも、身体の意でも。

生れ付き、見えぬものに怯え、転んで擦った傷口の血さえ固まらぬ忌子の如き私を、先生は治療し、扶け、話してくださった。
先生は私に遭ったその日から、生涯を、私の延命に捧げてくださった。

先生の偉大な御力を以ってしても、私の血が固まることは無かった。
しかし、私が今もこうして生き永らえて居るのは、紛れもなく先生のお陰であった。

私の人生に於いて、先生は正に功徳と慈愛に満ちた、情け深き善人にて、恩師足り得た。

しかし、他の者をして、そうとは言わしめられぬ。

先生が亡くなって、私は初めて自らの無知を知った。
私は知らなかった。
私の病状を識る為、先生が手づから、多くの私と同遇の孤児を検べにかけたこと。
血液凝固剤を作る為、多くの死を間近にした人から血を抜いたこと。
先生は、私と出逢う二日前に、幼い我が子を亡くされ、失意の中、横暴にも妻に責任を負わせ離縁し、それから幼児を見る度に、攫い騒ぎを起こしていたこと。
私の生は、先生の無数の罪にて重ねらるものであったこと。

私は先生が亡くなられてから知った。
先生の遺産と功績に纏わりつく、「嗚呼」とのさばる先生の縁者様から。
死した先生を遠巻きに、「嗚呼」としたり顔で頷く、看護の者や病院の者の言によって。
先生の遺体と骨と墓に纏わりつく、「嗚呼」と呻く霊たちによって。

私にも先生にも、はっきりと聞こえて居るのだ。
「嗚呼」先生や私の利無きに失望し、恨む者たちの嘆息。
「嗚呼」惨状を見物する者たちの嘆息。
「嗚呼」私や先生に無念を背負わされ、苦しむ者たちの嘆息。

この時期に、先生の墓を御参りする時は、何時もそうだ。
「嗚呼」「嗚呼」「嗚呼」
無数の「嗚呼」を背負い、咎に追われつ、私は先生にお逢いす。
空気は冴えぬ。
どんよりとした蒸し暑い空気と罪とが、私と先生とを包む。

蝉が鳴いている。
五月蝿く鳴いている。
蝉の声だけが、粘性を持つ蒸し暑い空気を裂く。

私は今日、先生に御参りする。
霊鬼も蝉もないている。

3/8/2025, 3:48:37 PM

秘密の場所

 夜闇増無星
 月隠雲慵起
 叱声枕欹聴
 我独包重衾
 小閣護我世
 寝台逃我現
 我秘哀在是
 我苦密集之
 重衾扶我心
 枕知深我悩
 此不変帰処
 誰寧勝可是

 夜闇は増し星は無く
 月は雲に隠れ起きるのはものうい
 叱かる声は枕を欹てて聴き
 我は独り重ねた衾に包まる
 小閣は我を世から護り
 寝台は我を現から逃す
 我が秘哀はここにあり
 我が苦しみはここに密集す
 重衾は我が心を扶け
 枕は我が悩みを深く知る
 ここは変わらず帰するところ
 いずくんぞ誰これに勝るべからんや

 夜闇は増して、星は無く
 月は雲に隠れて、起きるのには億劫だ
 叱責は枕に耳を傾けて聴き
 私は一人、重ねた布団にくるまる
 小さな部屋は私をこの世から守ってくれ
 布団は私を現実から逃してくれる
 私の秘めたる哀しみはここにあり
 私の苦しみはぎゅうぎゅうにここに集まっている
 重なった布団は私の心を助け
 枕は私の悩みを深く知っている
 ここはいつまでも変わらず帰るところであり
 誰がこの秘密の場所に勝てるというのだろう、
 いや、ここが私の最高の秘密の場所だ

 It's good night, That night have no stear
 Moon hide cloud, I don't try to wake up now
 I cover my ears with pillow
 I hide my body in many comforter
 This room protect me from actual
 This bed defend me from real
 My sorrow exist my comforter
 My sadness exist my pillow
 This comforter helps my mentality
 This pillow helps my mind
 I like here,and Here is where to go eternally
 This is No.1 place for me

3/8/2025, 12:48:35 AM

おもむろに舞台の上で、音が鳴る。
静かなホール内にA音が響く。
オーボエのラ。
バイオリンのラ。
チェロのラ。
トランペットのラ。
フルートのラ。

ラララ
音の重なりが広がっていく。
ピッタリと重なる、とても澄んだラの階段だ。
腕の素晴らしい奏者ばかりなのだろう。

オーケストラのチューニング。
まだ音楽は始まっていないのに、統率の取れた旋律が、空間を包む。
ホール内の空気が、心地よい音の渦に包まれる。

この瞬間が私の夫は好きだった。
ホールのふかふかな観覧席にもたれて、何オクターブものラの重なりに耳を傾ける、この瞬間。
私はかつての夫のように、背もたれに体を預け、目を瞑った。


「…さん、おばあさん!」

目を開けると、ホールの管理人ががこちらを揺さぶっていた。
舞台の上はすっかり無人になっており、演奏は終わっている。
隣の若い利かん気の強そうな若者も、帰り支度をしていた。
管理人と話していたのか、指揮者も後ろに見える。

「おばあさん、お帰りください。演奏が終わりましたよ」
管理人は親切に言う。
それを遮るように、突然、隣で帰る準備をしていた若者が口を挟んできた。
「この老害め。ただ寝に来るんだったらそのチケット、他のやつにやればよかっただろ」

私は若者をじっと見つめた。
若者は暗い瞳でこちらを見ていた。
もしかしたら、彼は他の誰かとこのコンサートを見に来る予定で、チケットが取れなかったのかもしれない。
指揮者も、恨めしそうな目でこちらを睨んでいた。
それはそうだろう。自分の精魂込めた仕事を、寝過ごされたなんて聴けば、腹が立つのも当たり前だ。

「ごめんなさいね」
私は言った。
「うちの夫はね、不眠症気味で。ほら、あの戦争で従軍してからというものね。どうしても眠れなかったの。」
「…だけど、ここで、ここの演奏を聴いている時はよく寝付けたから…」
「…今日はね、夫の命日なのよ」

私は二人に微笑みかけた。
二人は唖然としてこちらを見つめていた。
どちらもあの戦争を知らぬ若さだ、無理もない。

私は指揮者に向かって微笑んだ。
「とても良かったわ。チューニングのラララ、ぴったりとあっていて、とても素晴らしかった。演奏もきっと素晴らしかったのでしょうね。今日は夫の真似をして眠って聴いていたけれど。素敵な演奏をありがとう」

バツが悪そうに、指揮者は頭を下げた。
若者は、居心地が悪そうに肩を揺すった。
年配の管理人だけは、馴染みの客である私たちの事情を知っていたので、にっこりと、佇んでいる。

次に、若者に向き直り、言葉を伝えた。
「今度は、寝ずに聴きに来るわ。ごめんなさいね。数ある席を取ってしまって。…貴方、ここのチケットを取るなんて、とても良い耳をされているのね」

そして管理人にいつものように挨拶をした。
「相変わらず、素晴らしい音響でしたわよ。また来るわ」
「はい、またお待ちしています」
管理人の声を背に、私はホールを後にした。

今日聴いた、あのチューニングの音を思い出す。
統率の取れた、美しい、ラララのあの旋律。
目を瞑って聴いたあの美しい旋律は、素晴らしい子守唄だった。
代が変わっても、素晴らしいオーケストラであるようだった。

あのホールで、隣に座っていた、あの人のあの柔らかな寝顔を思い出した。
あのラララの旋律で。

私は帰路を辿り出す。
美しいチューニングのラララと、それにうっとりと目を閉じていたあの人の記憶とを、反芻しながら。

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