ひったくるようにティッシュを引っ張り出す。
ぐずぐずの鼻に、一枚のティッシュを当てがい、思い切り鼻をかむ。
今日は風が強い。
風が運ぶものに過剰に反応しやがって。
この時期になって、ティッシュが欠かせなくなると、自分の体にそう苛立つ。
しょぼしょぼと涙をこぼす目に二枚目のティッシュを当てる。
ぐすっと音を立てた鼻から、二、三回くしゃみが飛び出す。
薬を忘れたのが敗因だった。
しかし、薬があったとしても、ここでは気休めにしかならなかったかもしれない。
開けはなした窓からはひっきりなしに風が花粉を運んでくるし、室内は室内で照る日差しの中に、細かい埃が踊っている。
花粉症で鼻炎持ちには地獄みたいな環境だ。
こんな時期にこんな場所を掃除しようなんて馬鹿なことを考えたのは誰だ。俺だ。
ここは山間の伐採所へ向かう林道の隅に、ぽんと建てられた、林業者のための倉庫だ。
小さな掘建小屋に、安全に木こりをするための様々な器具や用具がこれでもかと詰め込まれている。
かつてはこの道には、たくさんの重機や人が行き来し、この山の伐採所も賑わっていた。
しかし、時が経つにつれ、木材や木を使う人が減り続け、伐採所も荒れ果てた。
今では閑散とした静かな山間に、ただ閑古鳥の声が響くだけの林道となっていた。
そんな山が、急に俺のものになったのは3か月前のことだった。
山を持っていた父が往生を遂げ、俺の手元に転がり込んできたのだった。
実は、父は林業者や木こりが少なくなっても、よく山の手入れに出かけていたそうだ。
俺を連れて行ったり、教えてくれたりはしなかったが。
母によれば、この小屋にもよく行っていたようだ。
しかし、歳と病気で動くのが辛くなった時期から、この山は長らく放置されていたらしい。
そんな山を手入れしようかと、俺はやってきたのだった。
しかし、時期が悪かった。なぜ俺は花粉の多い春先にこの小屋に足を運んでしまったのか。
風が運ぶものは他にもいろいろあるはずなのに、ここの風は、スギ花粉と埃だけを運んでくる。
これじゃあ、ろくに掃除もできやしない。
掃除がてら、父が俺にこの山のことを教えてくれなかった理由を探ろうと思って、ここまで登ってきたのに。
今日はそれどころじゃない。
鼻も目もぐずぐずだ。
マスクもティッシュも手放せない。
ぐしゃん!
けたたましいくしゃみが、立て続けに飛び出す。
風が運ぶものに過剰反応しやがって。このボンクラ!
父が口癖のように使っていた悪態を追加して、心の中でひとり、自分に悪態をつく。
今日は、風が強い。
question
聞け!
話せ!
私たちに質問の余地などない
走れ!
進め!
私たちに疑いの余地はない
従え!
動け!
私たちに可能性の余地はない
今に疑問を持てるのは
明日が約束されているものだけ
人に教えを請えるのは
誠実な師がいるものだけ
questionは贅沢品
questionは貴族
questionは高貴なる生まれの言
しかし
また、可能性でもある
questionは時に社会を変える
questionは時に世界をも動かす
そして、我々を救うこともある
弱い者を助けることもある
questionは高貴なるものの義務を果たす
高貴に 無邪気に その真っ直ぐな性質で
我々にはquestionの余地はない
しかしquestionはいつか
我々の方を向いてくれるかもしれない
だから、今はただ、進め
進むのだ
question
Listen!
Talk!
Can't we have a question
Ran!
Go!
Can't we have a question
Obey!
Move!
Can't we have a question
They need tomorrow
in order to call into question
They need good tedcher
in order to ask a question
Question is luxury item
Question is noble
Question is nobly born
But
It is question
Question can change society
Question can move the world
Question have possibility
To save our
To save weak
Question have noblesse oblige
Question is noble
Question is inocent
We can't have a question
But question can save our
Go!
Go straight ahead
Until that time
なんでって言ってしまった。
分かっていたのに。
それは疲れていた僕の、ただの油断でこぼしてしまった言葉で、人にはよくある日常的な些細なミスだった。
けれども、その些細なミスが僕たちの終わりだった。
言い訳がましいけど、言った瞬間にしまったって思ったんだ。
僕の前で、君は顔を歪めていた。
それから、君は何も言わずに部屋を出て行ったんだ。
小さな約束だった。
次の海外は一緒に行こうって
次の海外旅行は、新婚旅行にしようって
そんな些細な約束。
君は旅が好きで、よく外出した。
仕事柄、私事でも仕事でも、よく海外へ飛んでいた。
君は自由主義で、よくふらりふらりとどこかへ行ってしまう。
君は必ず帰って来てくれるのだけど、それは僕も分かっていたのだけど。
本当に君は、いつでも僕の元に帰って来てくれるのか、それが不安で不安で。
だから、あの約束を僕は持ちかけたんだ。
「次の海外は二人で一緒に行こう。次、海外に行くときは僕たちの新婚旅行だ」って。
今日、帰って来たとき、君は俯いて、疲れ切った暗い顔をして、僕を見た。
僕は、君に笑ってほしくて、いろいろと話した。
職場であった面白いことや、君の好きなギャグなんかを。
君の顔はそれでも暗いままだったけど、僕の言葉や話に小さく笑みを浮かべてくれて、僕はそんな様子にすこし安心してしまった。
夕飯が終わった時に君が切り出した。
「ごめん。次の仕事でシンガポールに行くことになった。明々後日から留守にするね」
僕は、「なんで」って言ってしまったんだ。
君の顔を見れば、分かったのに。
君が約束を守ろうと頑張ってくれたこと。
それでも約束を守れなくて、断りきれなくて約束を破ってしまったんだってこと。
僕との約束を守ろうとして、今日こんなに疲れていること。
それなのに、僕はこぼしてしまった。
君には聞こえたはずだ。
「(約束を守らないなんて)なんで」って。
僕は、君との暗黙の約束を破ってしまった。
君は確かに約束を破った。
僕は、君の信頼と安心を破り棄てた。
お互いに、大切な何かを破ってしまった。
だから、致命的だった。
どんな喧嘩よりも完全に、これが決裂だった。
なんでって言ってしまった。
分かってたのに。
淡い風がひんやりと吹いている。
気がつくと、花冷えの中を歩いていた。
道の脇には、満開の桜が溢れている。
花びらが雨のように落ち続けていた。
ひらり、ひらり、と薄桃色の桜が、やさしく冷たく吹き付ける風の中を軽やかに落ちてくる。
花が途切れる場所は見当たらない。
これだけ花が降っているのに、頭上に広がる満開の花たちは、どの枝にもすずなりに咲いて、隙間なく咲き誇っていた。
ここの桜は無限なんだろうか。
桜はひらり、ひらり、と降り続けている。
辺りを見回してみれば、一人だった。
前にも後にも満開の桜が、ただただ降り注いでいた。
周りに人気はおろか、動物の気配すら感じない。
ただ、ほのかに淡い、ひらり、と上品に吹く冷たい風が桜の花びらを弄ぶだけだった。
花びらが降ってくる。
ひらり、ひらり、と。
先は見えない。
後ろも見えない。
ただ、寒い淡い風が、たまにどうっと急足で抜けていく。
胸の奥から、冷たい何かが込み上げてくる。
それは一度触れてしまえば、二度と帰ってこれない予感がするような、不思議な怖さを持って、心を蝕みに来た。
体が、ひらりひらりと、花の中に溶けていくような気がする。
脳が孤独を叫んでいる。
花びらが降ってくる。
ひらり、ひらり、と。
自分がどうしてここにいるのか。
ここがどこなのか。
皆目、見当もつかなくなってしまった。
枝からこちらを見つめる、大勢の桜たちは皆、沈黙していた。
耳の奥の細胞が動く音が聞こえる。
それほど、何の音もしなかった。
小さく声を出してみた。
しかし、声は土砂降りの花の中に、静かに吸い込まれていった。
もう一度、今度はもう少し強く、声を出してみた。
枝を埋め尽くす満開の桜たちに、声は吸い込まれていった。
喚いてみた。叫んでみた。歌ってみた。
泣いてみた。喉が枯れるまで、騒いでみた。
しかし、孤独が止むことはなかった。
音がこだますることはなかった。
胸から込み上げる花冷えのようにあっさりと形の無い怖さが、逃げ出すことはなかった。
花びらが降ってくる。
ひらり、ひらり、と。
淡い風がひんやりと吹いていた。
辺りは満開の桜で溢れていた。
花びらが音もなく、ひらり、と降り続けていた。
走ることも、乱暴もできずに、私はただ、花冷えの中を歩いていた。
花びらが降ってくる。
ひらり、ひらり、と。
雨粒が激しく窓に叩きつけられている。
大雨だ。
今日は、銃後の民も前線の民もさぞかし大変だろう。
はめ殺しの窓に降りつけ、ひっきりなしに流れ落ちる雨粒を数えながら、ぼんやりとそう思う。
今日もお隣の幹事室は忙しい。
最近、苦しい戦況が続いているそうだから、統治に参加する大臣たちは、気を抜けないのだ。
私はここから出ることを許されていない。
この国の“精神的支柱”だからだそうだ。
私は、かつてこの国を統治していた王族の末裔だ。
と言っても、もう政治はしていない。
時代の変化と共に、国の形も複雑化した。
気づけば王族だけが統治をするには、何もかもが専門化しすぎたのだ。
しかし、政治のこの急激な変化に、平民はついていけておらず、そのために王族を政治の舞台から完全に下ろしてしまうわけにはいかなかった。
そこで王族は、形骸化した国の飾りになった。
政治はせず、人々に笑顔と権威を振り撒いて、民たちに勇気と元気を与える。
国の民たちを纏めるための、マスコット的一族。
それが私たち王族だ。
かつての政治家たちによって作り出されたこの仕組みによって、うちの国は、強い団結を保ちながら強い国になることができた。
かくして、私たちは専門的な政治家たちに守られる、国の精神を支える存在に、なった。
そのために、今のように荒れた時代は部屋から出ることが出来なくなった。
かつての王は、兵を率いて戦うこともあったようだが。
今は、私が死んでしまえば、国全体の戦意を喪失させてしまう恐れがあるために、この部屋にいることを、全国民から、約束させられている。
しかし、こんな国の一大事に、私には…そして私の父にも…何もできることがないというのは、如何なものなのだろうか。
悶々とした気持ちを抱えたまま、窓を眺める。
窓の外では、激しく強い雨が降っている。
壁の向こうでは、大臣たちの話し合いの気配がしている。
……突然、部屋の扉が開いた。
「姫様!」
扉の前で声を上げたのは、我が国の制服を着た男だった。
幹部クラスを証明するバッジと、数々の勲章を、誇らしげに胸からぶら下げた彼は、素早く敬礼をして、ハキハキと言葉を捲し立てる。
「状況が変わりました!姫様に是非ともしていただきたいことが……」
それから彼は、雨の音を掻き消すような力強い話ぶりで、如何に私たちがこの国の窮地にとって必要な人材か、如何に私たちの存在がこの国にとって大切か、滔々と語り続けた。
貴女はこの国を救うことができる。貴女はこの国の支柱であり、王に比肩する精神的な支柱だ。
だから。
「だから、私と一緒に来てください、姫様!」
熱意のある彼の言葉とは裏腹に、私の心は急速に冷えていった。
ああ、名ばかりの国の精神的支柱とは、こういう存在なのだ。
こんな舐められ方をするのだ。
国のために生きているというのに。
真面目を取り繕って腕を広げる彼の顔には、勝ち誇ったような喜色が滲み出ている。
その顔に向かって、その目に向けて、私はゆっくりと語りかける。
「ねえ」
「あなた、誰かしら?」
彼の顔がぴくりと動いた。
「私、王宮を守ってくださる民の皆様の顔は全て覚えているのですけれど」
「王族の当然の義務として」追い討ちのようにそう付け加え、もう一度聞く。
「ねえ、誰かしら?」
外では、雨が激しく降り続けている。