おもむろに舞台の上で、音が鳴る。
静かなホール内にA音が響く。
オーボエのラ。
バイオリンのラ。
チェロのラ。
トランペットのラ。
フルートのラ。
ラララ
音の重なりが広がっていく。
ピッタリと重なる、とても澄んだラの階段だ。
腕の素晴らしい奏者ばかりなのだろう。
オーケストラのチューニング。
まだ音楽は始まっていないのに、統率の取れた旋律が、空間を包む。
ホール内の空気が、心地よい音の渦に包まれる。
この瞬間が私の夫は好きだった。
ホールのふかふかな観覧席にもたれて、何オクターブものラの重なりに耳を傾ける、この瞬間。
私はかつての夫のように、背もたれに体を預け、目を瞑った。
…
「…さん、おばあさん!」
目を開けると、ホールの管理人ががこちらを揺さぶっていた。
舞台の上はすっかり無人になっており、演奏は終わっている。
隣の若い利かん気の強そうな若者も、帰り支度をしていた。
管理人と話していたのか、指揮者も後ろに見える。
「おばあさん、お帰りください。演奏が終わりましたよ」
管理人は親切に言う。
それを遮るように、突然、隣で帰る準備をしていた若者が口を挟んできた。
「この老害め。ただ寝に来るんだったらそのチケット、他のやつにやればよかっただろ」
私は若者をじっと見つめた。
若者は暗い瞳でこちらを見ていた。
もしかしたら、彼は他の誰かとこのコンサートを見に来る予定で、チケットが取れなかったのかもしれない。
指揮者も、恨めしそうな目でこちらを睨んでいた。
それはそうだろう。自分の精魂込めた仕事を、寝過ごされたなんて聴けば、腹が立つのも当たり前だ。
「ごめんなさいね」
私は言った。
「うちの夫はね、不眠症気味で。ほら、あの戦争で従軍してからというものね。どうしても眠れなかったの。」
「…だけど、ここで、ここの演奏を聴いている時はよく寝付けたから…」
「…今日はね、夫の命日なのよ」
私は二人に微笑みかけた。
二人は唖然としてこちらを見つめていた。
どちらもあの戦争を知らぬ若さだ、無理もない。
私は指揮者に向かって微笑んだ。
「とても良かったわ。チューニングのラララ、ぴったりとあっていて、とても素晴らしかった。演奏もきっと素晴らしかったのでしょうね。今日は夫の真似をして眠って聴いていたけれど。素敵な演奏をありがとう」
バツが悪そうに、指揮者は頭を下げた。
若者は、居心地が悪そうに肩を揺すった。
年配の管理人だけは、馴染みの客である私たちの事情を知っていたので、にっこりと、佇んでいる。
次に、若者に向き直り、言葉を伝えた。
「今度は、寝ずに聴きに来るわ。ごめんなさいね。数ある席を取ってしまって。…貴方、ここのチケットを取るなんて、とても良い耳をされているのね」
そして管理人にいつものように挨拶をした。
「相変わらず、素晴らしい音響でしたわよ。また来るわ」
「はい、またお待ちしています」
管理人の声を背に、私はホールを後にした。
今日聴いた、あのチューニングの音を思い出す。
統率の取れた、美しい、ラララのあの旋律。
目を瞑って聴いたあの美しい旋律は、素晴らしい子守唄だった。
代が変わっても、素晴らしいオーケストラであるようだった。
あのホールで、隣に座っていた、あの人のあの柔らかな寝顔を思い出した。
あのラララの旋律で。
私は帰路を辿り出す。
美しいチューニングのラララと、それにうっとりと目を閉じていたあの人の記憶とを、反芻しながら。
3/8/2025, 12:48:35 AM