その地に足を運ぶのは、いつも億劫だ。
蝉が五月蝿く鳴いている。
蜃気楼のような蒸した煩わしい空気が、体に纏わりつく。
他に人の気は無い。
先生の墳墓へ御参りする時分は、何時も斯様だ。
榊と駅前の饅頭を抱えて、敷石を踏み締める。
水を汲んだ薬缶が手首に重い。
旧盆の燃えるが如き日に灼かれながら、一歩を進む。
じっとりとした空気を、無数の蝉が裂いている。
先生の田舎は西の方であった。
だから、御墓参りも、此方で主流な新盆ではなく、炎天下に灼けつく様な旧暦のこの時期となるのだった。
これは非常に先生らしかった。
天土を全て灼かん盛りに空気は蒸し暑く、しかし人のおらぬ蝉の声だけが木霊すこの時期は、私の知る限りの先生の生き様の如く、凄惨で埒外で蕪雑で、相応しいと思う。
だからこそ、この謂い知れぬ彼の地、この時期の不穏な不快にも、如何にか逃げずに迎えるのである。
この地に漂い、「嗚呼」と呻く不穏の霊も、霊鬼や墓標の纏う不和の気も。
命の恩師たる先生の人生と苦悩の一部となればこそ、私は毎年、この参道を参って、如何にか先生に一年に一度の御挨拶申し上げ、恩をお返しすることが出来るのである。
先生は私を救ってくだされた。
精神の意でも、身体の意でも。
生れ付き、見えぬものに怯え、転んで擦った傷口の血さえ固まらぬ忌子の如き私を、先生は治療し、扶け、話してくださった。
先生は私に遭ったその日から、生涯を、私の延命に捧げてくださった。
先生の偉大な御力を以ってしても、私の血が固まることは無かった。
しかし、私が今もこうして生き永らえて居るのは、紛れもなく先生のお陰であった。
私の人生に於いて、先生は正に功徳と慈愛に満ちた、情け深き善人にて、恩師足り得た。
しかし、他の者をして、そうとは言わしめられぬ。
先生が亡くなって、私は初めて自らの無知を知った。
私は知らなかった。
私の病状を識る為、先生が手づから、多くの私と同遇の孤児を検べにかけたこと。
血液凝固剤を作る為、多くの死を間近にした人から血を抜いたこと。
先生は、私と出逢う二日前に、幼い我が子を亡くされ、失意の中、横暴にも妻に責任を負わせ離縁し、それから幼児を見る度に、攫い騒ぎを起こしていたこと。
私の生は、先生の無数の罪にて重ねらるものであったこと。
私は先生が亡くなられてから知った。
先生の遺産と功績に纏わりつく、「嗚呼」とのさばる先生の縁者様から。
死した先生を遠巻きに、「嗚呼」としたり顔で頷く、看護の者や病院の者の言によって。
先生の遺体と骨と墓に纏わりつく、「嗚呼」と呻く霊たちによって。
私にも先生にも、はっきりと聞こえて居るのだ。
「嗚呼」先生や私の利無きに失望し、恨む者たちの嘆息。
「嗚呼」惨状を見物する者たちの嘆息。
「嗚呼」私や先生に無念を背負わされ、苦しむ者たちの嘆息。
この時期に、先生の墓を御参りする時は、何時もそうだ。
「嗚呼」「嗚呼」「嗚呼」
無数の「嗚呼」を背負い、咎に追われつ、私は先生にお逢いす。
空気は冴えぬ。
どんよりとした蒸し暑い空気と罪とが、私と先生とを包む。
蝉が鳴いている。
五月蝿く鳴いている。
蝉の声だけが、粘性を持つ蒸し暑い空気を裂く。
私は今日、先生に御参りする。
霊鬼も蝉もないている。
3/9/2025, 3:27:39 PM