カノープス。
水平線スレスレで遠くを泳いでいるあの星は、カノープスと言う。
嵐の前触れとばかりに、さざなみを立てるあの水平線の上で、冷ややかに白く光る、あの星は。
私は砂浜からそれを見た。
明るいカノープスはただ一星、ぽつりと輝いて、海の上に見えた。
あの星は、父さんの船が沈んだあの一夜にも出ていた。
水平線の上を、ぽつりと光っていた。
あの星は、兄さんが恋人を連れて、この町から出て行った夜にも出ていた。
水平線の上に、白く光っていた。
あの星は、母さんがここから逃げ出したいと言って、一人で船に乗り込んでしまったあの夜にも出ていた。
波立つ水平線の奥に、くっきりと光っていた。
カノープス。
その名前を知ったのは、スマホを手に入れてからだ。
それまで、あの星にこんな洒落た名前がつけられているなんて知らなかった。
あの星は、大抵いつも、「めらぼし」とか、「なまけ星」とか、「凶星」とか、「呼び星」とか、そんないろいろな名前で呼ばれていたから。
婆ちゃんは言った。
うちん人たちはみんなあのめらぼしに呼ばれてち、行ってしまうんよ
うちん人たちはぁね、昔からずっと…
けんど、残されたち、わたしらぁは困るよぉね
そう言っていつも婆ちゃんは、目尻の皺を下げて、優しく、哀しく、困ったように笑った。
そういう笑顔を苦笑と呼ぶのだというのも、スマホを持ってから知った。
本当のところ、私はこの町から出たかった。
スマホの中から知る外の世界には、この町にない色々な物があって、自由があって、世界が広がっていた。
私は、あの星の向こうに行きたいと、いつからか、強く思うようになっていた。
そうして、そんな思いを反芻するその度に、婆ちゃんの、困ったような、悲しんでいるような、あの苦笑がチラついた。
うちん人たちはみんなあのめらぼしに呼ばれてち、行ってしまうんよ
婆ちゃんの、あの声が染み付いている。
外の空気を吸いたくて、ふらふらと浜辺に来た。
すると、あの星が水平線に見つかった。
白くて一つきりのあの星、カノープス。
めらぼしは、今日も輝いている。
ずっと遠くで。
3/11/2025, 10:55:35 PM