薄墨

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3/4/2025, 10:59:49 PM

なんでって言ってしまった。
分かっていたのに。
それは疲れていた僕の、ただの油断でこぼしてしまった言葉で、人にはよくある日常的な些細なミスだった。

けれども、その些細なミスが僕たちの終わりだった。

言い訳がましいけど、言った瞬間にしまったって思ったんだ。
僕の前で、君は顔を歪めていた。

それから、君は何も言わずに部屋を出て行ったんだ。

小さな約束だった。
次の海外は一緒に行こうって
次の海外旅行は、新婚旅行にしようって
そんな些細な約束。

君は旅が好きで、よく外出した。
仕事柄、私事でも仕事でも、よく海外へ飛んでいた。
君は自由主義で、よくふらりふらりとどこかへ行ってしまう。
君は必ず帰って来てくれるのだけど、それは僕も分かっていたのだけど。

本当に君は、いつでも僕の元に帰って来てくれるのか、それが不安で不安で。

だから、あの約束を僕は持ちかけたんだ。
「次の海外は二人で一緒に行こう。次、海外に行くときは僕たちの新婚旅行だ」って。

今日、帰って来たとき、君は俯いて、疲れ切った暗い顔をして、僕を見た。
僕は、君に笑ってほしくて、いろいろと話した。
職場であった面白いことや、君の好きなギャグなんかを。

君の顔はそれでも暗いままだったけど、僕の言葉や話に小さく笑みを浮かべてくれて、僕はそんな様子にすこし安心してしまった。

夕飯が終わった時に君が切り出した。
「ごめん。次の仕事でシンガポールに行くことになった。明々後日から留守にするね」
僕は、「なんで」って言ってしまったんだ。

君の顔を見れば、分かったのに。
君が約束を守ろうと頑張ってくれたこと。
それでも約束を守れなくて、断りきれなくて約束を破ってしまったんだってこと。
僕との約束を守ろうとして、今日こんなに疲れていること。

それなのに、僕はこぼしてしまった。
君には聞こえたはずだ。
「(約束を守らないなんて)なんで」って。

僕は、君との暗黙の約束を破ってしまった。
君は確かに約束を破った。
僕は、君の信頼と安心を破り棄てた。
お互いに、大切な何かを破ってしまった。

だから、致命的だった。
どんな喧嘩よりも完全に、これが決裂だった。

なんでって言ってしまった。
分かってたのに。

3/3/2025, 10:54:20 PM

淡い風がひんやりと吹いている。
気がつくと、花冷えの中を歩いていた。
道の脇には、満開の桜が溢れている。

花びらが雨のように落ち続けていた。
ひらり、ひらり、と薄桃色の桜が、やさしく冷たく吹き付ける風の中を軽やかに落ちてくる。
花が途切れる場所は見当たらない。

これだけ花が降っているのに、頭上に広がる満開の花たちは、どの枝にもすずなりに咲いて、隙間なく咲き誇っていた。

ここの桜は無限なんだろうか。
桜はひらり、ひらり、と降り続けている。

辺りを見回してみれば、一人だった。
前にも後にも満開の桜が、ただただ降り注いでいた。
周りに人気はおろか、動物の気配すら感じない。

ただ、ほのかに淡い、ひらり、と上品に吹く冷たい風が桜の花びらを弄ぶだけだった。

花びらが降ってくる。
ひらり、ひらり、と。

先は見えない。
後ろも見えない。
ただ、寒い淡い風が、たまにどうっと急足で抜けていく。

胸の奥から、冷たい何かが込み上げてくる。
それは一度触れてしまえば、二度と帰ってこれない予感がするような、不思議な怖さを持って、心を蝕みに来た。
体が、ひらりひらりと、花の中に溶けていくような気がする。

脳が孤独を叫んでいる。

花びらが降ってくる。
ひらり、ひらり、と。

自分がどうしてここにいるのか。
ここがどこなのか。
皆目、見当もつかなくなってしまった。
枝からこちらを見つめる、大勢の桜たちは皆、沈黙していた。
耳の奥の細胞が動く音が聞こえる。
それほど、何の音もしなかった。

小さく声を出してみた。
しかし、声は土砂降りの花の中に、静かに吸い込まれていった。
もう一度、今度はもう少し強く、声を出してみた。
枝を埋め尽くす満開の桜たちに、声は吸い込まれていった。
喚いてみた。叫んでみた。歌ってみた。
泣いてみた。喉が枯れるまで、騒いでみた。

しかし、孤独が止むことはなかった。
音がこだますることはなかった。
胸から込み上げる花冷えのようにあっさりと形の無い怖さが、逃げ出すことはなかった。

花びらが降ってくる。
ひらり、ひらり、と。

淡い風がひんやりと吹いていた。
辺りは満開の桜で溢れていた。
花びらが音もなく、ひらり、と降り続けていた。

走ることも、乱暴もできずに、私はただ、花冷えの中を歩いていた。
花びらが降ってくる。
ひらり、ひらり、と。

3/2/2025, 11:05:42 PM

雨粒が激しく窓に叩きつけられている。
大雨だ。
今日は、銃後の民も前線の民もさぞかし大変だろう。
はめ殺しの窓に降りつけ、ひっきりなしに流れ落ちる雨粒を数えながら、ぼんやりとそう思う。

今日もお隣の幹事室は忙しい。
最近、苦しい戦況が続いているそうだから、統治に参加する大臣たちは、気を抜けないのだ。

私はここから出ることを許されていない。
この国の“精神的支柱”だからだそうだ。

私は、かつてこの国を統治していた王族の末裔だ。

と言っても、もう政治はしていない。
時代の変化と共に、国の形も複雑化した。
気づけば王族だけが統治をするには、何もかもが専門化しすぎたのだ。

しかし、政治のこの急激な変化に、平民はついていけておらず、そのために王族を政治の舞台から完全に下ろしてしまうわけにはいかなかった。

そこで王族は、形骸化した国の飾りになった。
政治はせず、人々に笑顔と権威を振り撒いて、民たちに勇気と元気を与える。
国の民たちを纏めるための、マスコット的一族。
それが私たち王族だ。

かつての政治家たちによって作り出されたこの仕組みによって、うちの国は、強い団結を保ちながら強い国になることができた。
かくして、私たちは専門的な政治家たちに守られる、国の精神を支える存在に、なった。

そのために、今のように荒れた時代は部屋から出ることが出来なくなった。
かつての王は、兵を率いて戦うこともあったようだが。

今は、私が死んでしまえば、国全体の戦意を喪失させてしまう恐れがあるために、この部屋にいることを、全国民から、約束させられている。

しかし、こんな国の一大事に、私には…そして私の父にも…何もできることがないというのは、如何なものなのだろうか。
悶々とした気持ちを抱えたまま、窓を眺める。
窓の外では、激しく強い雨が降っている。
壁の向こうでは、大臣たちの話し合いの気配がしている。

……突然、部屋の扉が開いた。
「姫様!」
扉の前で声を上げたのは、我が国の制服を着た男だった。
幹部クラスを証明するバッジと、数々の勲章を、誇らしげに胸からぶら下げた彼は、素早く敬礼をして、ハキハキと言葉を捲し立てる。

「状況が変わりました!姫様に是非ともしていただきたいことが……」
それから彼は、雨の音を掻き消すような力強い話ぶりで、如何に私たちがこの国の窮地にとって必要な人材か、如何に私たちの存在がこの国にとって大切か、滔々と語り続けた。

貴女はこの国を救うことができる。貴女はこの国の支柱であり、王に比肩する精神的な支柱だ。
だから。
「だから、私と一緒に来てください、姫様!」

熱意のある彼の言葉とは裏腹に、私の心は急速に冷えていった。
ああ、名ばかりの国の精神的支柱とは、こういう存在なのだ。
こんな舐められ方をするのだ。
国のために生きているというのに。

真面目を取り繕って腕を広げる彼の顔には、勝ち誇ったような喜色が滲み出ている。
その顔に向かって、その目に向けて、私はゆっくりと語りかける。

「ねえ」
「あなた、誰かしら?」
彼の顔がぴくりと動いた。

「私、王宮を守ってくださる民の皆様の顔は全て覚えているのですけれど」
「王族の当然の義務として」追い討ちのようにそう付け加え、もう一度聞く。
「ねえ、誰かしら?」

外では、雨が激しく降り続けている。

3/1/2025, 2:42:06 PM

赤い固い芽がぴょこぴょこと顔を出している。
今年も、この地に芽吹きのときがやってきた。
柔らかい土のあちらこちらには、まだ真っ白い雪が僅かに残っている。

芽吹きのときはやってきた。
たった一種族の生き物の傲慢と凶行の結果に汚染された、この地にも。

一種類の…僕たちの思い上がった思想からもたらされた高効率、高エネルギーの技術はこの世界を瞬く間に席巻した。
そして、深い過ちを犯した。

この技術は、その使用によって僕たちに凄まじいリターンを与える一方で、僕たちの環境を脅かすものでもあった。
この技術が広がっていくたびに、この技術による汚染が広がっていくのに、僕たちは気づいていなかったのだ。

最初の悲劇はここで起こった。
例の技術に使っていた魔法陣が暴走し、この地は瞬く間に汚染された不毛の地になった。
なったはずだった。

事故後のこの地は、そりゃあ、凄まじいものだった。
植物という植物は枯死し、生物という生物は無機物に成り果てた。
破壊し尽くされたこの地には、灰色に燻る、焼け残った生物の死骸しかなかった。

しかし。
しかし、果たして、今年も芽吹きのときは訪れた。

燻り黒焦げた木の枝には、赤く固くしまった新芽が顔を出している。
グスグスと煮立った黒々とした土の中には、新緑の小さな双葉が目を出している。

芽吹きのときはやってきたのだ。
こんなに汚染され、捨て置かれたこの地にさえも。

温かな日差しが、黒々と生気を失った土に投げかけられている。

その土の下には、芽吹こうと固い土を持ち上げる、若緑色の芽があるのだ。

2/28/2025, 2:24:48 PM

隙間だらけの布団の中で目を覚ました。
余白の多い布団にくるまったまま伸ばした寝起きの腕に、うっすら産毛が伸びはじめていた。
剃らなきゃ、そんなことが浮かんでは消え、とりあえず怠い体はそのままに、首だけを回して、視線を窓の方へ向ける。

空の色はトーンダウンして、怪しげな暗闇を作りはじめていた。
街には、三大欲求をただ安っぽく扇情する、赤提灯の艶やかな光がもう膨らみつつある。
コンクリ借家のアパートの窓の向こうに取り付けられた錆びれた誘蛾灯には、すでに蛾が何匹か群れて、目玉のような翅を忙しなく動かし、鱗粉をばら撒き続けていた。

起きなきゃ、鈍い頭で踏ん切りをつけ、重い体を布団から吐き出す。
そのまま、着替えとカミソリを抱えて、風呂場へと進む。

借家築何十年のアパート風呂場。
飾り気もロマンスもない、生活感剥き出しのくたびれた浴室がそこにある。

蛇口を捻り、姿見に写る自分の白い肌を眺めながら、シャワーに打たれる。
セルロイドみたく、ソフトに引き締まった身体の表面を、水の玉が滑ってゆく。
水は透明なままで、床のタイルを濡らす。
時々、馬鹿みたいに跳ね上がって、固い浴槽の肌を叩く。

もう何年も使っていない浴槽に視線を滑らせて思う。
私のお客は大抵、これで死ぬのだ。
こんなものじゃなく、もっと豪華で綺麗で卑近な浴槽で。
窓の外に見えるあの提灯のような、欲望を欲望のまま、実に薄っぺらく扇情する光と空気に包まれた浴槽で。
人肌ほどのぬるま湯に包まれて。

本当の人のぬくみを抱いていた後に。
じっとりと熱を持ったやわらかさを、触れ合わせて、撫ぜ合わせた後に。

この街は、人生という局面が、二進も三進も行かなくなって、「参りました」と言った後の人のための街だった。
古くからの自殺の名所が至る所にある、この地域に作られた宿屋街、商店街、遊廓街。
それは、この世界にすっかり打ちひしがれた人々の、死ぬ前のひとときの憩い場だった。

詰みまで追い詰められた人間が、誇りや夢を捨て、責任や恨みやそのほかの面倒ごとを律儀に背負い込んだ丸まった背中で、青くやつれた力ない顔の落ち窪んだ眼差しに残った一縷の欲望滾らせてやってくるのが、この街なのだ。

もはやこの街に訪れる人間に、三大欲求以外の希望や渇望なんてありはしない。

そんな街が好きだった。
正確には、そんな街にやってくる人が好きだった。
異性にしろ同性にしろ、お客になってくれる人はみな、他人や情慕の前に、矛盾を抱いていた。

この世界に打ちのめされ、この世に居たくない、という望みを抱えた絶望の人間なのに、この世に命を残し、命を繋ぐための三大欲求を追い求めていた。

死にたいと望みつつも、生まれ持った本能には逆らえず、死ぬ間際に繋がりを求める。
そんな愚かで健気な願いを持つ人々が、ただ愛おしかったのだ。

そんな人間を愛し、見届けるために、この身体は役に立った。
生まれ持って出た、長いまつ毛も、血色の良い唇も、華奢い肩も、全てが味方をしてくれた。

悲しいサガを持ってここに辿り着いたというだけで、ここのどんな人にも、どんなチープな三文芝居にも、応えてやりたいと、その想いだけだった。

腕の産毛を剃る時間さえ、寒さを我慢できなくて、シャワーに背を向けて座った。
腕にカミソリを走らせる、丸まった自分の肌に、シャワーの人肌ほどに温い水が弾ける。

こういう瞬間、あの日の温もりを思い出す。
初めてお客をとった時、布団の中で包まれた温もり。
ある日の仕事終わりに、涙を流しながらお礼を述べるお客が、握った手の温もり。
一昨日の寒い一夜を過ごすためだけに、死を語り合いながら分け合った温もり。

数え切れないほどの悲劇、数え切れないほどの哀しい矛盾の、愛おしい温もりが、今の私の肌の芯に残っている。

残っているのだ。

あの日の温もり。
きっともう帰ってこない温もり。
人間を辞められなかった哀しい人間の温もり。

私は、そういう、あの日の温もりを、一生、肌の下の体温に大事にしまって、生きていくのだ。

シャワーのお湯が、肌を伝う。

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