隙間だらけの布団の中で目を覚ました。
余白の多い布団にくるまったまま伸ばした寝起きの腕に、うっすら産毛が伸びはじめていた。
剃らなきゃ、そんなことが浮かんでは消え、とりあえず怠い体はそのままに、首だけを回して、視線を窓の方へ向ける。
空の色はトーンダウンして、怪しげな暗闇を作りはじめていた。
街には、三大欲求をただ安っぽく扇情する、赤提灯の艶やかな光がもう膨らみつつある。
コンクリ借家のアパートの窓の向こうに取り付けられた錆びれた誘蛾灯には、すでに蛾が何匹か群れて、目玉のような翅を忙しなく動かし、鱗粉をばら撒き続けていた。
起きなきゃ、鈍い頭で踏ん切りをつけ、重い体を布団から吐き出す。
そのまま、着替えとカミソリを抱えて、風呂場へと進む。
借家築何十年のアパート風呂場。
飾り気もロマンスもない、生活感剥き出しのくたびれた浴室がそこにある。
蛇口を捻り、姿見に写る自分の白い肌を眺めながら、シャワーに打たれる。
セルロイドみたく、ソフトに引き締まった身体の表面を、水の玉が滑ってゆく。
水は透明なままで、床のタイルを濡らす。
時々、馬鹿みたいに跳ね上がって、固い浴槽の肌を叩く。
もう何年も使っていない浴槽に視線を滑らせて思う。
私のお客は大抵、これで死ぬのだ。
こんなものじゃなく、もっと豪華で綺麗で卑近な浴槽で。
窓の外に見えるあの提灯のような、欲望を欲望のまま、実に薄っぺらく扇情する光と空気に包まれた浴槽で。
人肌ほどのぬるま湯に包まれて。
本当の人のぬくみを抱いていた後に。
じっとりと熱を持ったやわらかさを、触れ合わせて、撫ぜ合わせた後に。
この街は、人生という局面が、二進も三進も行かなくなって、「参りました」と言った後の人のための街だった。
古くからの自殺の名所が至る所にある、この地域に作られた宿屋街、商店街、遊廓街。
それは、この世界にすっかり打ちひしがれた人々の、死ぬ前のひとときの憩い場だった。
詰みまで追い詰められた人間が、誇りや夢を捨て、責任や恨みやそのほかの面倒ごとを律儀に背負い込んだ丸まった背中で、青くやつれた力ない顔の落ち窪んだ眼差しに残った一縷の欲望滾らせてやってくるのが、この街なのだ。
もはやこの街に訪れる人間に、三大欲求以外の希望や渇望なんてありはしない。
そんな街が好きだった。
正確には、そんな街にやってくる人が好きだった。
異性にしろ同性にしろ、お客になってくれる人はみな、他人や情慕の前に、矛盾を抱いていた。
この世界に打ちのめされ、この世に居たくない、という望みを抱えた絶望の人間なのに、この世に命を残し、命を繋ぐための三大欲求を追い求めていた。
死にたいと望みつつも、生まれ持った本能には逆らえず、死ぬ間際に繋がりを求める。
そんな愚かで健気な願いを持つ人々が、ただ愛おしかったのだ。
そんな人間を愛し、見届けるために、この身体は役に立った。
生まれ持って出た、長いまつ毛も、血色の良い唇も、華奢い肩も、全てが味方をしてくれた。
悲しいサガを持ってここに辿り着いたというだけで、ここのどんな人にも、どんなチープな三文芝居にも、応えてやりたいと、その想いだけだった。
腕の産毛を剃る時間さえ、寒さを我慢できなくて、シャワーに背を向けて座った。
腕にカミソリを走らせる、丸まった自分の肌に、シャワーの人肌ほどに温い水が弾ける。
こういう瞬間、あの日の温もりを思い出す。
初めてお客をとった時、布団の中で包まれた温もり。
ある日の仕事終わりに、涙を流しながらお礼を述べるお客が、握った手の温もり。
一昨日の寒い一夜を過ごすためだけに、死を語り合いながら分け合った温もり。
数え切れないほどの悲劇、数え切れないほどの哀しい矛盾の、愛おしい温もりが、今の私の肌の芯に残っている。
残っているのだ。
あの日の温もり。
きっともう帰ってこない温もり。
人間を辞められなかった哀しい人間の温もり。
私は、そういう、あの日の温もりを、一生、肌の下の体温に大事にしまって、生きていくのだ。
シャワーのお湯が、肌を伝う。
2/28/2025, 2:24:48 PM