目の前の獣が、大きく腕を振りかぶる。
「危ない!」
攻撃範囲に入っていそうな隣の少年を突き飛ばしつつ、躱す。
間一髪。
もんどりうった僕たちの髪の先を、獣の爪が掠めていった。
「ごめん!突き飛ばして!」
と謝ると、少年は親指を突き立てて、返答する。
よかった、怒ってなさそうだ。
反対側から、仲間が駆けてくるようだ。
僕と少年は体勢を立て直し、獣の方へ向き直る。
反撃開始だ!今日こそは絶対に狩ってやる。
真新しい剣を握りしめて、そう決意した時だった。
どこから、いや、正確には真後ろから、呆れたような、怒気をはらんだ鋭い声が聞こえてきた。
「もう、また帰って来てからゲームに張り付いて…こら!宿題やってからにしなさい!!」
母さんが帰ってきた。
今良いところなのに!
…僕が今やっているのは、国民的ゲーム、ハンターボックス。
AI搭載のNPCや他のプレイヤーと協力して、巨大なモンスターを狩る、クールなゲームだ。
うるさいなあ。せっかくここまで来たんだから、無視して続行する。
すると母さんから二言目が飛んだ。
「アンタ、それを始めたら長いんだから、やめて先にやるべきことをしなさい!…無視するんだったら無理矢理にでも終わらせるよ!」
それは困る!
このゲームはこの時代に信じられないことだが、オートセーブはないのだ。
僕は慌ててポーズボタンを押して、(今のパーティがNPCだけで良かった)母さんに向き直る。
「これだけ!」
「アンタがこれだけって言ってこれだけで済んだことなんてありません!今すぐ辞めないと電源切るよ!」
「やめて!終わらせないで!それだけは!データが消える!」
「じゃあさっさと辞めなさい!」
いくらゲームの中で強くなったところで、母さんには敵わない。
しぶしぶ僕は、メニューボタンを押して、セーブを始めた。
おにぎりがラップに包まれて、横たわっていた。
すっかり太陽が昇った昼過ぎに起き出して、食糧を漁りにきたキッチンに、それはころんと置いてあった。
握る力が弱いのか、完全に三角にならずにやたら厚みのある、歪なおにぎり。
隣にはメモ用紙が添えてある。
ちゃんとメモを見なくても、読まなくても分かる。
お昼ご飯に、姉ちゃんが作ってくれたものだって。
忙しい出勤前の朝に、急いで、でも僕のために、握ってくれたものだって。
具もきっと、僕の好きな梅干しとおかかで。
パリパリの海苔が好みだといつか僕が言ったから、今も海苔は袋に入ったまま、横に添えられているのだ。
泣きたくなった。
なんで、僕の昼ごはんなんて…
今日もだ。
最近は忙しい、早く家を出なくては行けないのだ、と言っていたのは、他ならぬ、昨日の晩の姉ちゃんだった。
でも、おにぎりを置いて行った。
今日も外に出られない、学校に行けない僕に、姉ちゃんはこんな愛情の塊みたいな昼ごはんを置いていく。
些細な僕の好みを満たす、僕の大好きなおにぎりを作って。
母さんが死んだのは、もう一ヶ月も前のことだった。
母さんが死んで、葬式で色んな人が色んなことを言って、周りの好奇の目が怖くて。
そうして僕は、外に出られなくなった。
姉ちゃんは、何も言わずにいつも通り接して、学校に通って、何もしない僕のための家事も全部やって、そうして生きている。
当たり前のように。
それはきっと、姉ちゃんにとって、母さんはいても居なくても変わらない人間だったからだ。
母さんは病んでいた。
身体が悪くて、それが精神にも障っていて。
ここ三年は、何もできない母だった。
だから、母さんが死んでも、僕が何もしなくても、姉ちゃんは、家事をして、愛情を込めて料理して、学校へ行く。
姉ちゃんの作る料理は完璧だ。
僕の細かい好みを把握して、美味しくて変わらない味の料理を作る。
愛情がこもったお袋の味ならぬ、お姉の味。
でも。
でも、本当にこれに愛情はこもっているのだろうか。
このおにぎりに込められた姉ちゃんの愛情は、真っ当な愛情なのだろうか。
いつもそこまで考えると、急に気持ちが悪くなる。
食欲が湧かなくなって、寝るまで治らない。
でもこれを食べなくちゃいけない。
姉ちゃんが悲しむから。
だから僕はいつも、姉ちゃんの作り置いた歪な愛情を、大人しくテーブルまで持っていって、食べる。
苦しい胸と喉に押し込む。
水やお茶で流し込む。
そうやって無理やり食べると、好物の味も分からない。
だけど、僕は言うだろう。
姉ちゃんが帰ってきたら。「ご飯ありがとう。美味しかった」と。
姉ちゃんは、ちょっと笑って言うだろう。
「いいのよ」って。
僕は姉ちゃんへの愛情のためにそう言うのだろうか。
姉ちゃんは僕への愛情のために家事をするのだろうか。
分からない。
僕と姉ちゃんの間にあるのは、本当に愛情なのだろうか。
込み上げる吐き気と一緒におにぎりを齧って飲み込む。
もちもちとしたご飯が押し寄せる。
お茶で一気に流し込む。
ご飯粒たちは、ざらざらと喉の奥を流れていく。
酸っぱい味だけが微かに舌に残った。
僕の好きなカツオ梅の、しょっぱい味が。
指先が冷たい。
頬にその指先を当てる。
仄かな頬の火照りが、指先に気持ちいい。
布団から離れられないほどのしんどさはないけれど、立ち上がるのは億劫。
だから、毛布に包まったまま、ぼうっと座り込んで、夕焼けを眺めていた。
微熱がある休日は、生温い。
時間が早く過ぎているようには見えないのに、何もできない。
微熱のぼんやりとだるい体を、時間がずるずると溢れおちる、そんな感じ。
朝から頭がぼんやりと鈍かった。
脇に固い体温計を挟み込んで、熱を測った。
微熱があった。
私はもう、休日の微熱に狼狽え、落ち込むほど若い人間ではなかった。
微熱で誰かに頼りたいと思うほどの可愛げもなかった。
だから淡々と、体温計をしまって、べちゃべちゃのレトルト粥をあっためて食べ、途中で、塩気の強いハムをちぎって混ぜ込んで飲み込んだ。
あとは毛布に包まった。
なんとなくだるい体にかまけて、スマホで動画をつけて、窓なんかを見つめた。
薬は飲まなかった。
風邪薬や熱冷ましは、なんだかお門違いな気がした。
なんとなく、知恵熱だとか、疲れだとか、そんな感じに思えたからだ。
最近は確かに忙しかった。
予期せぬ、そしてあまりに早すぎる異動があって、振り回されたのだ。
しょうがないのだ。あそこに欠員が出そうだという話は前々からあったのだ。
しかし、あちらの都合のことだったから、思うことがないわけではなかった。
思えば、今月はずっと、モヤモヤしたものが胸につかえていた。
それが今日出たのだろう。
今日は朝から、体は、膨らます直前に薄く伸ばされたフウセンガムに覆われたように鈍く、脳がぬるま湯に茹っていた。
おかげで、今日の予定はポシャった。
髪を切りに行こうと思っていたのだけど。
ついでにカフェなんかに寄っちゃったり…
勤務日の平熱の中では眩しく見えたそれらの予定は、休日の微熱の中では、魅力を失っていた。
微熱には、ちょっとオシャレなお店や外の空気を吸って歩くよりなにより、毛布の中で流し見する動画が魅力的だった。
まあ、こんな日もあって仕方ないか。
弱い痛みを訴える、ぼんやりと鈍い頭でそんなことを考える。
夕日がゆっくり傾いている。
今日が終わっていく。
空は、微熱の頬のように赤く、赤く染まっていた。
この星は、影で覆われている。
起きたらまず、“サンシャイン”を手に取る。
筒状の入れ物に、太陽の光の成分をたっぷり含んだ光の素だ。
それを“サンセット”にセットする。
これはシャワーみたいな見た目をした器具で、サンシャインの中身を丁寧に撹拌して、出来た光を健康的に浴びせてくれる。
この星には、太陽の光は届かない。
100年前までは、この星には太陽の光が眩しく、当たり前のように降り注いでいたらしい。
そして、そんな、太陽の下で進化してきた僕たちの身体は、未だに、太陽の光がなくては、上手く機能しないらしい。
ある日、星の空気の層の上に、影が被さった。
太陽の下で生きるつもりで進化してきた、たくさんの生き物はゆっくりと滅びていった。
そして、太陽の光を要しない、暗闇で生きるさまざまな生き物が、台頭してきた。
しかし、僕たちは変わらなかった。
太陽の下で、環境を作り変える技術という知能を得ていた僕たちの種族は、太陽の光を十分でないにしろ、代用できてしまったのだ。
“サンシャイン”と“サンセット”。
これは僕たちの救世主であり、命の源なのだ。
これを開発、作り出した工場の長は、一瞬にして、この星上の、すべての僕たち種族の、英雄となった。
そして、その長が、僕たちの命を握ることになった。
奴は、この星で全てを手に入れた。
今では、彼の一族による星を私物化した独裁が、続いている。
聞けば、初代、つまりこの太陽の光を開発した彼はもともと、太陽の下では、あまり地位はなかったらしい。
太陽の下で、彼は永遠の命の研究をしていた。
命を伸ばす光の研究をしていた変わり者だったという。
太陽の光の再現も、その副産物だったようだ。
しかし、当たり前のように太陽の下で過ごす世界では、誰も相手にしなかった。
彼は常に孤立した、寂しい研究者だった。
それが覆った。
星が影に覆われて、太陽の光が届かなくなってからだ。
太陽の下では、名誉も富も持たない独りぼっちだった彼は、暗がりでは、誰からも尊敬の目で見られる指導者となったのだ。
しかし、彼は長年の独りぼっちの期間で、卑屈になっていた。
そんな利己的な“みんな”は信用しなかった。
信じたのは、己と己の遺伝子だけだった。
こうして、彼は、偉大なる独裁者一族になったのだ。
…これが、僕の一族に伝わる、我が一族の歴史だ。
僕こそが、第三代目のサンセット工場の長なのだ。
サンセットの取っ手を捻り、作り物の太陽の光を浴びる。
小さな作り物の太陽の下は、眩しくて、暖かくて、そして、孤独だ。
僕らはもはや、この太陽の下で生きていくしかないのだ。
僕は密かに願っている。
太陽の下でなくても生きられる、暗闇に強い僕らの近縁が進化して、僕らを覆してくれることを。
僕らの“進化”を。
僕のおじいちゃんが作った太陽はあまりに小さい。
そして、あまりにひね曲がっている。
僕は、サンシャインを浴びながら、窓を見る。
真っ暗に塗り込められた闇が、外に広がっている。
サンシャインは強く、強く、孤独に輝いていた。
起きたら、布団から出るのを戸惑うくらい寒かった。
隣にはもちろん、誰もいない。
窓の外はまだ暗かった。
そういえば、今月に入ってから、太陽の出ている時間もだいぶ短くなった。
冬がすぐそこまで来ているらしい。
お湯を淹れて、インスタントスープを啜りながら、寒空を見た。
暗い空にゆっくり、ゆっくりと陽が昇り始める。
スープの温かさがお腹に落ちると、じわじわと脳が覚醒し始める。
ああ、今日が休みでよかった。冬服が出せる。
脳が目覚めて真っ先に頭に浮かんだのは、そんな考えだった。
スープを飲み終えて、立ち上がる。
箪笥を漁り、すっかり奥まで押しやられた冬服を、一着また一着と引き摺り出す。
箪笥の材木と防虫剤が混じった独特の匂いをくっつけた服が着々と引き摺り出されていく。
冬服を出すと、洗濯物が途端に片付かなくなる。
冬服で一番可愛くてあったかいセーターを着る時は、夏秋に使う薄手のシャツの上に着ているからだ。
冬は単純に、使う服が2倍になる。
セーターのチクチクは、乾燥肌でアトピーで掻きむしった痕があちこちに残る人肌には、刺激が強すぎるのだ。
しかし、この習慣は慣れるとなかなか楽しい。
何が楽しいって、セーターだけでなく、下地も選んで楽しむことができるから。
下地…つまり、セーターの下に着るシャツの色を変える。
すると、セーターから覗くシャツの色でちょっと雰囲気が変わるのだ。
重ねの楽しみ。下地選びは、センスと個性の見せ所で、一人でいる時の密かな楽しみの常套手段になっている。
…まあ、そうやってアレコレ出して選ぶおかげで、冬場は服が片付かないのだけど。
まあしょうがないよね、と一人ごちながら、足元に積み上がった服の山を眺める。
とりあえず、冬服を引き出すターンはひと段落したので、引っ張り出したセーターを並べてみることにして、
てっぺんに乗せられた…つまり一番奥にしまいこまれていたセーターを手に取って、思わず動きが止まってしまった。
薄いグレーのカミシアセーター。
洗濯を何度も着て着古したものか、縮んだ上に、裾や袖にほつれが見える。
…昨日、とうとう絶交してしまった、あの人がいつかのクリスマスにくれたはずのセーターだ。
お気に入りで着ていて、でも一昨年の冬汚してしまって、念入りに洗濯したら縮んでしまったあれだ。
その時、あの人は、しょうがないなあ、と苦笑いして、また、新しいの買おうよって笑って…。
そのまたはもう来なかった。
寝起きのぼんやりとした眠気の奥にしまい込んだはずの、昨日の嫌な記憶が引き摺り出された。
苦い、苦い記憶。
あの人の嫌いなところ、嫌なところ。
昨日の晩、散々した一人反省会の脳内議事録。
あの人と出会った時から昨日までの疲れ、呆れ、あれやこれや…
ダメだ、
頭を振って、気持ちを切り替える。
こんなんじゃダメ、これをこのまま残していたら、気持ちは沈むばかりだ。
今日やるべきことが決まった。
まずはこのセーターの形をなくす。原型が分からないくらいに作り替えてしまおう。もう思い出すことのないように。
捨てるにはせっかくのカミシアが勿体無いし。
それから、コンソメスープを作ろう。インスタントじゃないやつを。
関係が終わってしまった時には、うんと手間がかかって、うんと難しい料理を作るに限る。
料理中は、嫌な思い出や嫌な記憶を振り返って沈む暇なんてないし、
食欲がなくてご飯を食べられなくても、惨めに思うこともない。
コンソメスープならピッタリだ。
一番コンソメの香りを思うと、胸がスッとした。
さあ、今日は忙しいぞ。
髪をまとめて、立ち上がる。
まずはこのセーターを切り取ってしまおう。
それから、コンソメスープの材料を買い込もう。セーターの処遇は、その買い物の間に決めてやる。
ちょっと堅めのカーペットを、厚めの靴下で踏みしめながら、部屋を練り歩く。
陽はゆっくり登っている。
木枯らしが、窓に跳ね返されて弱々しく、逃げ帰っていった。