海の底には楽園がある。
海を深く深く落ちていった先には、楽園があるのだ。
平安時代末期、平家方の武士たちや女房たち、それから女御たちは時の天皇と一緒に、海の底の楽園へ行くために身を投げた。
近代小説の、現代に幸せを見出せない登場人物たちは、罪を償って自分の幸せを掴むために海へ入った。
サスペンスドラマだって、追い詰められた人は、海に導かれるように波打ち際に現れる。
落ちていく海の底の楽園は、よっぽど素晴らしいところらしい。
現に、海の底の楽園へ辿り着いた人々は、もうこちらへは戻って来ない。
海から上がる死体だか、意識不明者だかは、そこへ行き損なったのだろう。
海の底の楽園に辿り着いた人はみんな、きっとこんな苦しい地上の世界には帰って来たいと思わないのだ。
帰ってくるのは、子供騙しの御伽話の主人公だけ。
浦島太郎は、よっぽどのイレギュラーなんだ。
海の底には楽園があるのだ。
私たちは今日、その楽園に行く。
ブレーキをゆっくり踏んで、車を止めた。
遥か眼下から、微かに海の細波が聞こえた。
助手席を見ないようにして、私は呟く。
「本当に、いいの?」
「うん。楽園に、行きたいの」
助手席でシートベルトを締めたあなたが、ゆっくりと瞬きをしながらそう言った。
「そっか」
後悔しない?、の言葉を飲み込んで、私は頷く。
波が、岩に打ちつける音がしていた。ここまでも聞こえてくる、力強い波のはずなのに、妙に穏やかな気持ちになれた。
目は合わせないように頷いた。
あなたの顔を正面から見たら、いよいよ決意が揺らいでしまいそうな気がするから。
不意に、ギアレバーに掛けていた左手を、あなたの手が握った。
白くて、細くて、傷だらけで、仄かに冷たくて、でもあたたかで、柔らかい手が。
手首に触れた、あなたの白い手首のふにふにした凹凸が、心地よくて、切なかった。
「大丈夫だよ」
あなたは言った。
「ここまでで、大丈夫。ここからは私一人で大丈夫だから。送ってくれてありがとう」
その声で、覚悟が決まった。
「大丈夫」
私は言った。
「言ったでしょ。一緒に行くんだ。あなたと居れるなら、どこだって大丈夫なんだから」
あなたの目を見て、あなたの手を包みながら、ゆっくりと言う。
「大丈夫。一緒に行こう?」
あなたは少しだけ淋しそうな顔で微笑んだ。
それでも、それは、あなたがこの一年で見せた中では、一番の笑顔で、私も笑い返した。
満たされたような、胸を刺すような痛みを抱えて笑った私は、きっとあなたと同じように、少しだけ寂しく見えたかもしれない。
「じゃあ、行くよ」
私は手を解いて、ハンドルを軽く握った。
「うん」
あなたは手を膝に乗せて、微かに頷いた。
エンジンを踏み込む。
視界の隅で、あなたがシートベルトを確認している。
窓は少しだけ開けた。ちゃんと落ちていけるように。
エンジンは唸りを上げて、それから車体は急スピードでスタートダッシュを決めた。
タイヤが軋み、大地を踏みしめて、それから空を切った。
あとは、
落ちていく
落ちていく
落ちていく
私たちは、楽園へ行く。
海の底にある楽園に。
私たちは落ちていく
落ちていく
落ちて…
使い込んだ急須でお茶を入れる。
かつて、一年目の結婚記念日にいただいた夫婦湯呑みは、古びて所々欠けていたけれど、清潔で愛らしかった。
お茶を注いで、ガラス戸を見る。
もう動かすだけでガタピシと音を立てるようになったガラス戸は開けていない。
ガラス戸の向こうでは、柿の大木が、赤い実を重たそうに下げている。
「今年もとうとう秋が来ましたねぇ。ほら、柿ができていますよ」
私はとりあえずそんなことを言う。湯呑みを引き寄せながら。
返事はない。
私はお茶を啜る。
下に温い、渋めの液体が、口の中に広がり、喉の奥へ落ちていく。
返答をしてくれるはずのあの人は隣の部屋。
起きることはまだ出来ないだろう。
夫婦になって、十五年の月日が流れた。
その間には、色々なことがあった。
一緒に1日を過ごすようになって、喧嘩して、仲直りして、お互いにお互いを深く知って、子どもができて…
その子どもが、夫に拳を振り翳したのは、一年前のことだった。
確かに、夫は仕事一筋。家庭を顧みず、子育てには無関心な、典型的なダメ親だった。
今時、時代遅れなくらい家事のできない、どうしようもない人だった。
しかし、それでも私の夫で、愛する人だった。
あの人のためならなんでも出来るから、私は夫婦になって、家族になったのだから。
しかし、あの子はそうではなかった。
それだけの話だ。
それは仕方ない。だってあの子にはあの子の気持ちがある。それを組めなかったのは、私たち夫婦の責任だ。
お茶を啜る。
あの子は今何をしているのだろうか、と考えながら。
あの子は仲間たちを引き連れて、私たち夫婦から全てを奪って、私たちの手の届かないところへ消えてしまった。
あの子は、お縄について、それから少年院へと行った。
夫は、一命は取り留めたものの、寝たきりでずっと向こうの部屋に寝ている。
そして、私は…
私は母から妻に戻った。
そして今も、昔の通りに暮らしている。
夫婦としての日常をなぞるように。
昔と違うのは、隣に夫がいないこと。
夫はもうこの家の外には出ていけないこと。それだけ。
私はあの子を憎んでいる。
思えば、私もまた良い親ではなかったのだろう。
私たちはずっと夫婦だったのだ。
昔も、今さえも。
父母にも両親にもなり損ねたのだ。
私たちはずっと…
ガラス戸がガタピシと音を立てる。
今日は少し、風が強いらしい。
枝先の柿の葉がゆうらゆらと揺れている。
柿の実も、重たそうに揺れている。
柿の実、落ちて潰れて終えば良いのに。
私はお茶を啜る。
重たそうな柿の実は、枝先でまだゆっくりと揺れていた。
すっきりしない。
5つは多すぎる。指にしても四肢にしても。
五体満足なんて、多すぎる。
左手を固定する。
指を開いて、中指をピンと伸ばす。
右手にほっそりとした小刀を握る。
側では、縫合針を用意した医師見習いが立ち会っている。
部屋の出入り口付近では、途方に暮れた顔で、何人かが立ち尽くしている。
どいつもこいつも、顔色が「どうすればいいの?」と訴えている。
医師見習いも、この部屋にたまたま居合わせた面々も。
途方に暮れている。
まるで、平和な時分の私のようだ。
欲望を叶える手段が見えずにただただ日常を過ごしていた、あの私のようだ。
夢を夢として叶えるには、努力や執念が必要だが、欲望として叶えるには、ただ時勢が合う運と欲望に見合うほどの金があればいい。
夢なんて綺麗な言葉では到底語れない欲望が、私にはあった。
生まれながら。
私は、欠けたものが好きだった。
何も欠けていない、完璧なものなどつまらない。
欠けてもなお、五体を持つものと変わらず、それ以上に輝いて生活を送るものが、何よりも好きだった。
そして、そんなものに憧れてもいた。
壮健に肉の盛り上がった二つの腕や、なめらかな肌を晒してしなやかに伸びる二本の足や、距離感を確実に捉えようと精悍に輝く眼などは、私に言わせれば、魅力を持ちえなかった。
切り捨てられた肉塊とその肉塊の離れた丸みの帯びた切腕や、ひょっこりとアンバランスな足や、見えない片目とそれを補うように深く鋭く射る眼光こそが、私を惹きつけた。
罪深いと自分でも思う。
どうすればいいの?
自分の好きを整理して理解した私の頭に、その言葉は渦巻いた。
どうしろというの?
この悍ましい癖を、世間は許さないし、私も、その欲望のためだけに自分のこれからを犠牲にはできない。
この衝動が、認められ、理解されて満たされることなどないのだ。
そんな諦めが、戸惑いと共に私を満たしていた。
しかし、時勢がそれを変えた。
内政が乱れきったこの国を、攻める国が現れた。
平和と秩序は崩れ去り、軍靴の足音が国中に響き渡る。
内患に付け入る外憂が、平和を断ち切った。
思うに、ぬるいぬるいぬるま湯に浸かりきって、平和ボケした国家が戦争に踏み込むという時勢は、アポカリプスやらこの世の終わりやらという時勢ではない。
私のような罪深い異常癖を持つケダモノたちための時勢なのだ。
私たちの時代の訪れなのだ。
国家規模の諍いや混乱は時に、破壊行為や暴力行為に錦の旗を掲げてくれる。
それは、異常な癖を持ち合わせるケダモノのような人間に正当性を与えてくれる。
加虐嗜好者は、敵を満足いくまでいたぶり、破壊愛好家は、片っ端から破壊をこなして金を得る。
殺人愛好家は嬉々として軍隊に与し、過激思想の仕切り屋は、政治の中で台頭する。
生まれ乍らの狂人は、ケダモノとなって欲望を叶え、正常から狂人が生み出され、狂人としてケダモノとしての欲望を叶え、やがてこの時勢を埋め尽くす。
眺めて楽しめ、切って楽しめ、切られて楽しめ。
平時こそ珍しいそれも、泥沼の戦場では当たり前のことだ。恐ろしいことに。
私は欠けていることに憧れていた。
欠けてもなお、優秀に不断に生きることを憧れていたし、望んでもいた。
私の中にある、強い欲望だった。
そして、叶えられる絶好の機会が降ってきた。
だから私は、手始めに指を切ることにしたのだ。
指一本から始めて、いずれは腕と足を一本ずつ切断する。
私がなりたい姿になるために。
ファッションとして、私は私を切り落とすのだ。
そしてなるのだ。
満ち足りた欠けたケダモノに。
どうすればいいの?
まだ正常寄りの周囲のものたちは、そんな戸惑いを隠そうとしない。
当たり前だ。
どうすればいいの?この乱れた世界で、そんな疑問を持てるのは新入りだけで、まだ正常な人間であるものだけだ。
どうすればいいの?と考える必要のないものたちは、もうケダモノで、このケダモノのための世界では、忙しく立ち働いている。
今更、こんな歩兵舎のありふれたケダモノ一人に構っている暇などないのだ。
まだ人間であるものたちを傍目に、私は小刀を握り直す。
ピンと指を伸ばし、徐に右腕を振り上げる。
私は成るのだ。
理想の私に。
柔らかな肉を割いて、艶やかな赤い飛沫が舞った。
一気に刃物をこき下ろす。
指は弾き飛んだ。焼けるような痛さの中に、真ん中がスカッと空いた左手がそこにあった。
右手に、小刀を下ろし切った感触が残った。
存外、骨は手堅かった。
毒と書いてぶすと読んだあの人は、狂言に首っ丈だったか、漢方に精通した立場だったのかもしれない。
庭のトリカブトが、鮮やかに咲いていた。
額縁の外は、今日も騒がしくて眩しかった。
「人は嫌いだ」
かつて、あの人は、今日のような朝、そんな言葉を誰に訊かせるでもなく口にしながら、絵の具に占領されたパレットを片付けていた。
「作品にメッセージなんてあるものか。私の作品は全て、私だけのものだ!絵も、庭も、粘土細工も。…他人に分かってたまるか」
あの人は決まって、憮然とそう呟きながら、絵筆を振り回した。
あの人の手に握られた、けばだった絵筆に、たっぷり染み込んだ絵の具は、何よりも鮮やかだった。
その鮮やかな色から、私は生まれたのだ。
殴るように塗りつけ、塗り重ねられた、多量の色彩の塊として。
「完成だ。これがここでの処女作。私の宝物だ」
最後の鮮やかな水色を塗りたくられ、生まれ落ちた私が初めて聞いた言葉は、あの人のそんな言葉だった。
「ここなら、これを誰も解釈しない。私だけの、私のための絵画。私だけが知る私。それでいい。それが大切なんだ」
あの人はそう言って、玄関から一番遠い、中庭を望むこの部屋の壁に、私を額縁に入れて飾った。
薄紫に柔らかな花弁を戴く附子を背景に、あの人は満足気に私を眺めて、仕切りに「宝物」と呼称した。
私は、あの人の感情から生まれたが、あの人の思想や感情などテンで分からずに、ただぼんやりと、額縁の中で、あの人によるあの人にとっての最高傑作の色彩の重なりとして取りすました。
私は、形を成していない。
あの人が心のままに塗りたくった色彩でしかないのだから、当たり前だ。
私は輪郭を持たず、思想を持たず、意見を持たず。
ただ“ある”だけの絵だ。
それだけだが、それだけが大切だった。
私が、生まれた時からずっと宝物であるために、何も持ち合わせない、なんとなくの、只の、色彩の重なりである必要があった。
だから私は宝物であり続けた。あの人にとっての宝物で。
しかし、そんな日々も終わりを告げた。
いや、今から終わるのだ。
一刻前、暗い地平線から朝日がさす丁度その直前に、あの人は出し抜けに宣言した。
「もう終わりにする」と。
そうして、あの人は、私の額縁の歪みを正した後、中庭でトリカブトを一輪ちぎり、内側の部屋に消えていった。
あとは朝日が登り始め、小鳥が騒ぎ始め、俄かに賑やかな時の進みと長い沈黙とが、この家を満たした。
きっと、私とあの人が顔(私に顔があるかは不明だが)を合わすことは二度とないのだろう。
あの人がいなくなったこの家は、すっかり変わってしまうに違いない。
私の環境も、きっと。
しかし、それ以外のことは何も分からない。
それ以上に具体的なことは。
私はあるだけの色彩だから。
知能は高くないし、そもそも働かせる脳があるかも分からない。
しかし、誰になんと言われようと、なんと解釈されようと、それこそ、ブスだの不出来だの失敗作だのと罵られようと、私は変わらない。
不変であり、理解されないことが、私の在る意味なのだから。
私は、私の向かいのあのトリカブトたちは、この家全土は、今も尚、あの人のための、あの人だけの宝物なのだ。
それが変わることは、永遠にない。
私たちは、あの人の唯一の宝物として、遺るのだ。
額縁の外は騒がしい。
いろいろな音、いろいろな色、いろいろな動きが満ち満ちている。
トリカブトが、紫の花を揺らした。
少女がマッチの火の中にみたクリスマスツリーの枝枝には、美しいキャンドルが飾られていたらしい。
マッチ売りの哀れな少女が見たという、巨大なクリスマスツリーを橙色の暖かな光に包んで描いた挿絵のページをぽっかりと開いたままの絵本が、無造作に置かれていた。
白髪の混じった小柄な蝋細工師は、ふしくれだった手を夢中で動かしていた。
熱で撓み、ひび割れた作業机の上で、彼は夢中で、固まった蝋に、絵の具とニスを塗りたくった。
文字盤のひび割れた時計が、一つ鐘を打った。
壁掛けのカレンダーがすっかり厚みをなくし、窓の風で揺らめくようになるこの時期は、彼の一番好きな季節だった。
クリスマスが近いからだ。
この時期こそ、彼の寂れた場末の蝋細工屋が、ぼかぼかと原色の明るい蝋燭やら蝋細工やらを拵えることができる唯一の時期だったからだ。
都会からの観光客もなかなか訪れないこの町では、緻密な蝋細工や、丹精を込めて華やかに拵えられた蝋燭はなかなか買い手がつかなかった。
普段出るものといえば、もっぱら、法事や仏壇に使われる、安価な剥き身の白い一本立の蝋燭か、誰かの誕生日に使われる、プラスチック玩具のようにビカビカと頼りなく細い量産型のキャンドルだった。
この蝋細工屋はそれなりに、時勢の変化や流行に、それなりの興味を持っていたので、アロマキャンドルなどという洒落たものも作ってはいたけれども、片田舎のこの町ではそれを定期的に買うものも少なかった。
だから、彼が工夫を凝らして緻密に作り上げた彼の職業矜持に見合うような“作品”は、平時の彼の店ではなかなか作れなかった。
しかし、その薄ぺらい平時も、この時期には一掃、報われる。
クリスマスという行事が台頭したからだ。
年末が近づき、クリスマスの浮ついた空気が世間を包むようになると、流石のこの町も、良きクリスマスを過ごそうと、いろいろ奔走するようになるからだ。
かくして、その時分には例外的に、この蝋細工屋でも、たくさんのものが売れていく。
蝋がぎっしり詰まった細々とした蝋細工や、趣向を凝らした洒落たキャンドルなどが、飛ぶように出ていく。
彼の“作品”が、名実共に顧客の正当な評価を受ける時期。
それが11月から12月という一ヶ月なのだった。
そのため、彼は、この時期を何より楽しみに、何より生き甲斐として、熱心に仕事に取り組んでいた。
この一ヶ月という短い時期に、彼は、寝食を惜しんで作業机に向かい、たくさんのキャンドルを生み出し、納得ができるまで作り上げるのだ。
彼は、この楽しみのために、一年をやりくりした。
この一ヶ月は、彼の職業人生のほぼ全てだった。
ひび割れ、インクの薄汚れた時計盤は、11時30分を指していた。
店の外は夜闇が降りて、この店の作業室だけが、煌々と電気と蝋燭の明るい光を放っていた。
彼は、深みのある緑の蝋の上に、白くもったりと蝋をしなだれかけた。
そして、その上に、たっぷり油の染みた芯を取り付けた。
それから、僅かに金ラメの入ったニスを選び取り、丁寧に塗りつけた。
完成したキャンドルは、仄かに葉の匂いを漂わせ、雪にかかられたモミの木のひと枝のように思われた。
彼は満足気に頷き、それからううん、と、四肢を突っ張った。
キャンドル作りのために、丸い猫背で固まっていた彼の背は、ぽきぽきと小気味いい音を立てて、弓形に伸び上がった。
それから彼は、満ち足りた様子で、キャンドルを横に避け、それから新しい型を手に取った。
キャンドルと電燈に囲まれて、彼は自分の仕事と人生の喜びを噛み締めていた。
今年が終わることを感謝した。
そして、来年の年末が早くくれば良いのに、と、子どもじみたことまで思った。
彼は満足だった。
しかし、彼は知らなかった。この小さな町の巨大な空き地を、全国区のキャンドル小売業社が買い取ったことを。
来年には、巨大なキャンドル工場が、この町にもできるということを。
彼はまた、せっせと仕事に取り掛かった。
どこからか、そよ風が迷い込んできた。
電燈は、それにも靡かず、変わらず彼の手元を照らしていた。
しかし、キャンドルの火は、風に靡かれて頼りなく揺れ、彼の預かり知らぬ間に、フッと音もなく消えてしまった。