薄墨

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毒と書いてぶすと読んだあの人は、狂言に首っ丈だったか、漢方に精通した立場だったのかもしれない。
庭のトリカブトが、鮮やかに咲いていた。

額縁の外は、今日も騒がしくて眩しかった。
「人は嫌いだ」
かつて、あの人は、今日のような朝、そんな言葉を誰に訊かせるでもなく口にしながら、絵の具に占領されたパレットを片付けていた。

「作品にメッセージなんてあるものか。私の作品は全て、私だけのものだ!絵も、庭も、粘土細工も。…他人に分かってたまるか」
あの人は決まって、憮然とそう呟きながら、絵筆を振り回した。
あの人の手に握られた、けばだった絵筆に、たっぷり染み込んだ絵の具は、何よりも鮮やかだった。

その鮮やかな色から、私は生まれたのだ。
殴るように塗りつけ、塗り重ねられた、多量の色彩の塊として。

「完成だ。これがここでの処女作。私の宝物だ」
最後の鮮やかな水色を塗りたくられ、生まれ落ちた私が初めて聞いた言葉は、あの人のそんな言葉だった。
「ここなら、これを誰も解釈しない。私だけの、私のための絵画。私だけが知る私。それでいい。それが大切なんだ」

あの人はそう言って、玄関から一番遠い、中庭を望むこの部屋の壁に、私を額縁に入れて飾った。

薄紫に柔らかな花弁を戴く附子を背景に、あの人は満足気に私を眺めて、仕切りに「宝物」と呼称した。

私は、あの人の感情から生まれたが、あの人の思想や感情などテンで分からずに、ただぼんやりと、額縁の中で、あの人によるあの人にとっての最高傑作の色彩の重なりとして取りすました。

私は、形を成していない。
あの人が心のままに塗りたくった色彩でしかないのだから、当たり前だ。
私は輪郭を持たず、思想を持たず、意見を持たず。
ただ“ある”だけの絵だ。
それだけだが、それだけが大切だった。
私が、生まれた時からずっと宝物であるために、何も持ち合わせない、なんとなくの、只の、色彩の重なりである必要があった。

だから私は宝物であり続けた。あの人にとっての宝物で。

しかし、そんな日々も終わりを告げた。
いや、今から終わるのだ。

一刻前、暗い地平線から朝日がさす丁度その直前に、あの人は出し抜けに宣言した。
「もう終わりにする」と。

そうして、あの人は、私の額縁の歪みを正した後、中庭でトリカブトを一輪ちぎり、内側の部屋に消えていった。
あとは朝日が登り始め、小鳥が騒ぎ始め、俄かに賑やかな時の進みと長い沈黙とが、この家を満たした。

きっと、私とあの人が顔(私に顔があるかは不明だが)を合わすことは二度とないのだろう。
あの人がいなくなったこの家は、すっかり変わってしまうに違いない。
私の環境も、きっと。

しかし、それ以外のことは何も分からない。
それ以上に具体的なことは。

私はあるだけの色彩だから。
知能は高くないし、そもそも働かせる脳があるかも分からない。

しかし、誰になんと言われようと、なんと解釈されようと、それこそ、ブスだの不出来だの失敗作だのと罵られようと、私は変わらない。
不変であり、理解されないことが、私の在る意味なのだから。

私は、私の向かいのあのトリカブトたちは、この家全土は、今も尚、あの人のための、あの人だけの宝物なのだ。
それが変わることは、永遠にない。

私たちは、あの人の唯一の宝物として、遺るのだ。

額縁の外は騒がしい。
いろいろな音、いろいろな色、いろいろな動きが満ち満ちている。
トリカブトが、紫の花を揺らした。

11/20/2024, 1:42:00 PM