薄墨

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11/9/2024, 4:18:17 PM

月が煌々と輝いている。
青白い光が懐かしい。

蹴飛ばした石が転がって、足はその後をそっとなぞって歩いていた。

夜はいい。
賑やかで、あちらこちらに生命が溢れるこの星でも、この時間帯だけは、静かで大人しくて、穏やかだ。

心から落ち着く時間だ。

この星の動物の脳裏は、まあまあの過ごし心地だ。
特にこの動物の脳は、ずっしりと重くて豊かだ。
この星のこの動物の脳裏なら、背景や思い出や景色を焼き付けて、保存することさえ出来た。
住み心地は抜群だ。

私たちは、もともとは月の衛星に住んでいた生き物だった。

しかし、この星はもう無くなった。
遠い、向こうの空から、燃え上がったどこかの星のかけらが、衝突したからだ。

かなりでかい星のかけらだった。
この星のかけらによって、私たちの星は瞬く間に砕き去るのは間違いないだろう。
そして、そのカケラが、月に大きなクレーターを残すだろうことは、私たちの中で、もはや疑いようのないことだった。

私たちには、別の棲家が必要だった。
他の星で生きていく術が必要だった。

そこで、私たちは最寄りの星に目をつけた。
地球。
幸い、私たちの最寄りの星は、宇宙のどこにも増して、生きるのには豊かな星だった。

しかし、私たちは強くなかった。
身体は大きくなく、鉤爪も牙も、武器になるようなものは何も持ち合わせていなかった。
私たちは、結果的に、共感性のみに長けた進化を遂げた種族だった。
太陽の光には、そこまで強くなかったし、他の生物との生存競争には勝てない。

そこで私たちは考えた。
そんな星で、どこへどうやって住みつけば、私たちは生き残れるのか。

ところで、この星には非常に脳が発達した生物がいた。
二本足で、大きな頭を抱えてヨチヨチと歩く、生物だ。

この生物には、隙があった。
彼らには、私たちと同じような共感性が発達しており、想像力が発達しており、私たちが忍び込み、住み込む間隙があった。

私たちは、ヒトの脳裏に棲むことにした。

大成功だった。
この星でどうしてだか、無類の強さを誇り、大量に生きているこの生物たちの脳裏は、私たちにとって、最高の器だった。
彼らは多かれ少なかれ、想像力と共感力を持ち合わせており、その思考は非常に面白く、楽しく、美味しかった。

しかも賢い器は、時にはこちらを認知した。
運が良ければ、彼らとも友人になれたりもした。

そういった賢いヒトの中に住む私たちを、ヒトは、イマジナリーフレンド、と呼んだりした。
私たちが、器にしたヒトに危機を知らせることを、器たちは、虫の知らせと呼んだりした。
私たちが印象深くて記憶した内容を保存し、時たま思い出すことを、器たちは、脳裏に焼き付いた、脳裏に浮かんだ、と呼んだりした。

ヒトとの共存は、楽しい日々だ。
私たちは、ヒトの脳裏に棲みつくようになったのだ。

しかし、時には故郷が懐かしくなることがある。
私たちの本能には、月の向こうの懐かしい昔の棲家が、しっかりと刻まれている。
たとえ、新世代の地球生まれだったとしても。

私たちは脳裏を棲家とし、脳裏で楽しく生きている。
そんな私たちには、あの月の向こうの景色が、脳裏に焼き付いている。

月が煌々と輝いている。
器のヒトの視界越しに見る月は、一層輝いて見える。
脳裏に焼き付いた月の向こうが、私たちの心に浮かぶ。

この星の夜は美しい。

足は依然として前に進んでいた。
視界は、私の気持ちに応えるように、月夜を眩しそうに眺めている。
器の脳裏で幸せを、今までの苦労と、今の楽しさを噛み締める。

月光は冴え冴えと、私たちを見守っていた。

11/8/2024, 2:21:20 PM

たんぽぽが咲いている。
瓦礫と灰に埋もれた世界の片隅で。
ボロボロの灰色に覆われた町中の角で、たんぽぽだけがくっきりと鮮やかに色づいて見えた。

手に抱えた銃火器が、ずしっと重みを持った。

歌を歌おうと思った。
平和な時に、大切なあなたと一緒に歌ったあの歌を。
小さい幸せを描く、きらきらとしたあの歌を。

でも、肝心の歌詞が、メロディが出てこない。
わたしの口をついて出てくるのは、軍歌だけだ。
もはや骨の髄まで染み込んでしまった戦場の、軍歌だけ。

侵略者がやってきたその日から、この町は変わった。
ここを守るために兵が集められ、自由や警備を強化して、意味のないことは意味のあることに置き換えて、無駄を極力無くして、強くなる。
守護戦を行うための準備が進んだ。
全てはこの町を守るために。

…だが、よくよく考えれば、わたしたちの仕事に意味など、生産性などあるのだろうか。
守護者と町を守り、取り締まり、縛り付けるだけのわたしと、町の人の権利という、目に見えない微妙なものを主張するあなた。

守護者の下で、本来、生存には関係ないものを守って、感謝されようとする。
命を存続させるには意味のないこと、必要のないことを、わたしもあなたも、命を賭けて、行ってきた。

あなたとの別れは辛かった。
でもそれはただの私情でしかなかった。
わたしとあなたにとって、自分個人のひとときの感情なんて、意味のないことだった。

わたしもあなたも確信していた。
この選択は正しいと。
この選択こそ、それぞれの人生に、未来に意味のあることだと。

しかし、わたしが守りたかったものも、あなたが守りたかったものも、呆気なく滅びた。

この町は、瓦礫と灰に埋もれている。

結果的に、わたしたちの行動は、決断はそれぞれ、意味のないことだったのだ。

わたしとあなたは愚かだった。
でも、あなたよりはわたしの方がずっと愚かだ。

だって、わたしはあの歌を忘れてしまった。
思考を統制する側に回り、自らも周りにも自由を制限したわたしに、あの歌はもう歌えなかった。
わたしの記憶は、あなたと暮らしたあの幸せな日々のことが、戦場のみで力を持つ今では意味のないことに、すっかり置き換えられてしまった。

わたしもあなたも愚かだった。
意味のないことを争って、意味のないことのために戦った。
でも、あなたの方が賢かった。
最良ではなかったけど、少なくともマシな方を選べたのだから。

わたしはあなたを探している。
わたしより、少し賢いあなたなら、きっとあの歌を歌えると思ったから。
わたしは愚かだから、もしかしたらもう何もかも遅いかもしれないけど。
これだって、振り返ってみれば、意味のないことかもしれないけど。

でも、わたしはあなたに会いたかった。
あなたともう一度だけでも、話したかった。

このひっそりと逞しいたんぽぽを、あなたに見せたかった。

わたしは歩く。
家も店も道さえも崩れ去ったこの町で、無謀にも足を踏み出し、アテもなくあなたを探す。
あなたに謝るために。
歌を聴かせてもらうために。

一陣の風が、灰を巻き上げる。
しなやかなたんぽぽの茎は、強かに風を受け流す。
黄色く鮮やかなたんぽぽの花が、ふわりと揺れた。

11/7/2024, 2:10:05 PM

優しいメロディが、頭の中をリフレインしていた。
口ずさむ。
記憶の中のそれらが、とても眩しい。

煤と瓦礫を蹴飛ばす。
灰色の世界にぐんと足を踏み出す。

あなたに会いに行くのだ。
あなたにこの歌を聴かせたいのだ。

口ずさんだ歌声が、きらきらと煌めきながら、澱んだ空気の中を泳いでいく。
砂埃の中では、あなたに教わったこのメロディはより一層、鮮やかで美しかった。

昔は、この辺りは自然が輝いて、のどかなところだった。
それを変えたのはあなただった。

ある日、遠くから侵略者たちがやってきた。
この町の守護者は、それを退けることに躍起になった。
守護者は、自由を制限して、警備を強化して、町を近代化して、侵略者から土地を、人を守ろうとした。

町はとても強くなったけど、そのために失われた幸せも暮らしも、決して少なくなかった。

そして、ある日。
この町はとうとう戦場となって、廃墟になった。

この町はあなたとわたしの故郷で、あなたとわたしが出会って一緒に育ってきた町で、あなたとわたしの生涯の職場で、あなたとわたしはどんなことがあっても、ここで最期まで居るつもりだった。

あなたは守護者の元で、町の人たちを攻撃や侵略から守る仕事。
わたしは守護者の元で、町の人たちの権利や自由を守る仕事。

侵略者たちがやってきて、侵略に抗うための政策が始まって。
あなたとわたしの立場は対立した。
あなたもわたしも、誇りと信念を賭して仕事をしていたから、妥協なんて出来なかった。

それで良かった。むしろそうでなくてはいけなかった。

だから、わたしたちは別々になった。
わたしはレジスタンスに。あなたは正規軍に。
わたしは検閲や監視や厳しくなる取り締まりに反対し、あなたはスパイや混乱した市民が強敵にならないように取り締まる。
あなたとわたしは別々に、この荒れた町の中で信念を貫くことにした。

あなたとわたしは自分の正義や信念を、貫いて、貫いて、貫いて、ようやく生き抜いた。

町はボロボロになっていた。
わたしたちが守りたかったものは、瓦礫と灰に埋もれた。
それでもわたしたちは生き残った。

そして、あなたとわたしが、会わない理由も無くなった。

だからわたしは、あなたに会いに行きたかった。
あなたに、あなたが教えてくれたこの歌を聴かせたかった。
あなたとわたし、また二人で一緒に生きていきたかった。

あなたの教えてくれた歌を口ずさむ。
灰の砂埃がサッと舞う。
わたしはメロディに合わせて、足を進める。

あなたとわたし。二人になるために。

11/6/2024, 2:48:29 PM

顔がびしょびしょだ。
ダラダラダラダラと水がひっきりなしに顔を滴っている。

霧のように細かく軽い雨粒たちは、少しの空気の動きで簡単に煽られて、斜めに吹き付ける。
霧吹きに吹かれたような柔らかな雨たちは、風に乗って雨具を躱し、巧みに、確実に、身体から体温を奪おうとしていた。

空気は冷たい。
降り頻る柔らかな雨の水が、止めどなく熱を吸っているからだろうか。
雨に降り込められたこの町は、ひんやりと死人のように冷たかった。

指先が冷たく悴んでいる。
空には、のっぺりとした濃い灰色の雲が居座っている。
傘をさした誰かが足早に通り過ぎていく。

私はレインコートの前を合わせて、身体をすくめて歩き続けた。
柔らかな雨は相変わらず、私の体温を奪っていた。
それでも私は足を止めなかった。止めたくなかった。

私は、青い影を探していた。
永遠の雨空に包まれた、陰気なこの町に落ちる、青い影を探していた。
王都に近いこの町はしかし、通行人や普通の人間が少なかった。

理由は一つ。
この、柔らかな雨のせいだ。

ある時を境に、この町には四六時中、柔らかな雨が降り続けるようになった。
呪いだ、と大人たちは、まだ子どもだった私たちにそう、語った。

この町はある時、町に殺された霊が呪いとして、降らせ、降り注ぐようになったのだと言う。
青い影は、そんな柔らかな雨のところにふっと現れると、風の噂で聞いた。

だから私は探さないわけにはいかなかった。

びしょ濡れになってでも、青い影を一眼見なくては、と思っている。

私には親がいない。
正確には、親が私たちを逃がしてくれたのだ。

かつてから、この町は迷信深い、排他的な町だった。
町の掟の一つに“ミソっ子”という制度があった。

これは子どもの際限ない虐めや暴力を制限するために、わざと仲間外れの子を決めて、無碍に扱い、幼い人間たちの残虐性の捌け口にするという、性悪説を意地悪く煮詰めて、悪意をたっぷりすり付けたような、そんな碌でもない決まりだった。

二人目の子だった私は、その“ミソっ子”にされるはずの子どもだったそうだ。

母親は、私が“ミソっ子”にされるのを嫌がった。
拒否し続けた。
そしてとうとう、私を、ひっそりと隣町の叔母にやることに決めた。
まだ、物心もついていない幼子を、女で一つで逃すという、無茶な計画だった。

しかし、結果として、私は隣町へ逃げ延びた。
母親を、他の子を犠牲にして、私は隣町の子になった。
町の決まりに背いた母は、見せしめに酷い目にあい、
私の同級生になるはずだった子たちの中から、私の代わりの“ミソっ子”が選ばれた。

そして、ある時、殺されないように管理されていたはずの“ミソっ子”が死んだ。
直ぐに、自ら命を絶ったと分かった。
そして、私の母は、その翌日に、ボロボロの精神と身体をとうとう壊し尽くして、動かなくなった。

柔らかな雨はその日から降り出した。
その雨の町中に、青い影がさすようになったのは、“ミソっ子”と母の形式ばかりの葬式が終わったあとだという。

私は、母を愚かだと思っている。
短絡的な我が身と我が子可愛さに、それまで疑問とすら思わなかった決まりに刹那的に抗って、他所まで巻き込んだ母を。

母のその、短絡的で愚かな選択によって、今、私はこうして、この町に帰ってきて、柔らかな雨の中を彷徨っているのだから。

私は、私の変わり身になった“ミソっ子”を愚かだと思っている。
自分が苦しみから逃れるために自分を殺害し、誰かに復讐を遂げるでもなく、ただ刹那的に逃げた子を。

そのために、この決まりと町に、死後も永遠に囚われ続けているのだから。

私の親族は、もはや誰もいない。
私がここから帰らなくても、悲しむ人はいない。
喜ぶ人はいても。

だから私はここに来た。

青い影に会いたかった。
話を聞いてみたかった。

青い影が、誰のものだったとしても。

私に強い感情を寄せている誰かの感情を向けて欲しかった。

それが、私が生きる意味だと思ったから。

柔らかな雨は、ずっと降り続いている。
体の末端が芯から冷えてくる。
関節も四肢も、すっかり悴んで、まるで死人のような町の空気に取り込まれてしまった気さえする。

それでいいのだ。

顔がむちゃくちゃに濡れている。
雨粒が私を責めたて、体温を奪っていく。

冷たい冷たい空気の中で、私は一歩を踏み出す。
柔らかな雨は、ひたすらに降り続いていた。

11/5/2024, 1:36:13 PM

黴の青臭い匂いが篭っていた。
ほろほろに崩れた石の壁が、指を呑む。
壁の感覚を右手に、僕たちは歩いていた。

地下道は薄暗かった。
水が微かに流れる音が、ところどころ聞こえる。
足は、軽くぬかるみに沈んだり、捲れた石畳につまづいたりする。
ネズミの目がこちらに光ったかと思うと、素早く去っていく。

もうどのくらい進んだか、よく分かっていなかった。
一筋の光すらない、汚臭すら鳴りを顰めた半ば遺跡のような旧地下道を、僕たちは蝋燭も持たずに突き進んだ。

右手の崩れかけた壁だけが、僕たちの道だった。

僕も、後ろを歩くチビたちも、無言だった。
何を言うべきか、どう騒ぐべきかも分からなかった。

だから、みんな黙って歩いた。
暗闇の中、足下だけを見て。

大人たちの喧嘩が始まってから、僕たちは遊び場を失った。
居場所がいっぺんになくなってしまった。
大人たちは睨み合い、僕らの親は石を投げられて、背中を丸め縮めていた。

僕らの親は、僕らをこれまで育ててきた大人たちは、僕らに言った。
「この地下道を通って、これを持ち出しておくれ。それが上手くいけば、それが届けば、それだけで元の生活に戻れるさ。戻れるはずなんだ…」

大人たちがそう言って差し出した封筒を握って、僕たちは地下へ潜った。
行き先は王都の方角。隣町。

僕たちは、地上の大人たちに見つからないように、地下道を歩き続けていた。
早く元の生活に戻りたかった。
親と一緒に町へ出て、遠巻きに頭を下げる大人たちに手を振りながら、遊び場へ、太陽の下を駆けていきたかった。

母さんと召使いのおばさんが用意してくれる、動きにくいピカピカの靴を履いて、アイロンの折り目が固い、柔らかな服を着て、「汚さないでくださいよ」なんて小言を聞き流しながら、外へ出て…。

そんな生活に戻りたかった。

僕たちは、封筒を胸にしっかりと押し付けて抱いていた。
ここではこれが、僕たちの一筋の光なのだ。
この黴臭い真っ暗影の中のたった一筋の、光。

僕たちは歩き続けた。
この上…隣町の地下道の上の町道は、崩れかかっているらしい。
隣町には、長らく、領主様以外の人がいないのだ、と、大人たちが言っていた。

だから、隣町につけば見えるはずだ。
町の道の穴から漏れ出る一筋の光が。

爪先がかくん、と傾いた。
石畳がすこし浮いていたらしい。
ここ、気をつけて。
掠れた声でそれだけ伝える。
それは後ろへ後ろへと伝わっていく。

僕たちは前を向いて歩き続けた。
胸に押し抱いた一筋の光を消さないために。
見えてくるはずの一筋の光を浴びるために。

青黒い闇が大きく口を開けていた。
果てしなく、果てしなく。

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