ブランコに腰を下ろす。
垂れ下がった鎖が、かちゃり、と鳴る。
産休に入ってから、買い物の時は、この公園で一休みすることが日課になった。
スーパーと家の道中にあるこの小さな公園は、日中は、遊ぶ子供も噂話をする人も少なくて、休みやすい。
鉄棒が日に照らされて、熱そうにギラついている。
砂場では、スコップを突き刺された砂山が、半分相好を崩して、横たわっている。
膨らんできた下腹部をそっと撫でる。
親になる。
正直、まだそのことに実感を持てていない。
キィ…ブランコが優しく揺れる。
頭上では、秋晴れが美しい。
風が金木犀の香りを運んでくる。
去年の秋のこの頃は、旅行に出ていた。
二人で子供のようにはしゃいで、遊んで、クタクタになるまで起きていて…
まるで子供にするように、彼が私を抱き上げて、私は子供のように、彼に目一杯甘えた。
そういう、子供のような君が好き。
彼はそう言って、優しく笑った。
かちり。
公園の柱時計の分針が、一つずれる。
滑り台はぴかぴか黄色く塗りたくられていて、幼児のためのオモチャみたいだ。
でもよく見ると、ところどころ塗装が剥げて、擦り切れて、鉄のくすんだ銀色が剥き出しになっている。
子供ができたことを報告した時、彼はまるで子供のような笑顔を浮かべて、とても嬉しそうで。
幸せだった。あの時は。
彼が事故を起こして連れていかれてから、もう一週間半が過ぎた。
あっという間だった。あの日は。
警察の説明を受けて、彼を見送って、私があの家に一人残されるまで。
こうなると、いろいろな事情で、籍を入れていなかったことが功を奏した。
私は、この子を育てるために逃げた。
荷物をまとめて。
彼の思い出と家を残して。
子供のように、狡猾に周りの大人の顔色を伺って、逃げた。
この子を育てるために。
そっとお腹を撫でる。
この選択が正解だったのか、私には分からない。
子供みたいな私に、一人で子育てが務まるのか、それも分からない。
それでもやるしかない、そう思った。
だから私は、ここにいる。
秋の風がさあっと吹いた。
キィ…ブランコが柔らかく揺れる。
午前中の太陽が、優しく、子供の私たちを照らしていた。
芋虫の気持ち悪さは、上から見たせいなんだと思う。
細いアスファルトの道を、アオムシが這っていた。
鮮やかな黄緑色のアゲハのアオムシは、ふっくら膨らんだ偽の頭の節の下から、もわっとした柔らかな頭を懸命に伸ばして、せっせと足を進めている。
しゃがんで覗き込む。
離れてみると、うねうねら、ぐにゃぐにゃと決まりなく動いてみえる体だが、近くでよく見てみると、つやつやの節の下に、みっちりちょこちょことついた小さな足たちが、規則正しく動き続けているのがわかる。
顔を上げて辺りを見回す。
アオムシが道を見つめてせっせと歩いているその先を辿ってみる。
どうやらアオムシは、校庭の隅の小さな畑の、蜜柑の木を目指しているようだ。
放課後の校庭は騒がしい。
みんな、放課後にはまだお家の人が帰っていないから、学校が終わったら、学童の教室へ下校する。
それから、学童の教室で宿題を終えて、校庭で遊ぶ。
僕も、みんなも。
だから、今も校庭は騒がしい。
ついさっきも、鬼ごっこをしている一年生が、僕とアオムシの脇を走り去っていった。
踏み潰されたら可哀想だ。
それに、踏み潰しても可哀想だ。
三年生のあの子は、今日はおろしたての新しい俊足で来たと自慢していたし、今日、僕たちの学童教室に来ているアルバイトのお姉さん先生は、虫が苦手だ。
僕はアオムシにゆっくりついていって、見張ることにした。
校庭では、低学年の子たちが、きゃあきゃあと声を上げながら、走り回っている。
元気の良い子たちに囲まれて、六年生のリーダーが大声を張り上げる。
「グーとパーで分かれましょ!!」
向こうの鉄棒では、高学年のおとなしい子たちが2、3人くらいで固まって、お話をしている。
僕はゆっくりアオムシについていく。
アオムシの足は、意外とゆっくりで意外に早い。
じっと見ていると遅いけど、ちょっと校庭に気を取られると、いつのまにか一歩分くらい前にいる。
おばさん先生が、別の先生とお話をしている。
お姉さん先生は汗を拭いながら、小さい子と一緒に校庭を走り回っている。
カラスが鳴いてる。
かあかあ
僕はアオムシについていく。
このアオムシ、首のあたりに青いラインが入ってて、カッコいい。
なんだか、中学生とか高校生のお兄さんたちが履いてる、スマートな運動靴みたいだ。
なんで緑なのにアオムシって言うのか、今まで分からなかったけど、今分かったかもしれない。
きっと、この青いラインの青なんだ。
だって、ピカピカの黄緑の中にくっきりと引かれた青は、本当にカッコいい。
僕はアオムシについていく。
「鬼ごっこに入らんの?」
振り向くと、汗まみれのお姉さん先生が立っていた。
僕は首を横に振る。
ちゃんと断る理由も言った方がいいかな?と思ったけどやめておいた。
お姉さん先生は、虫が苦手だから。
「本当にいいの?」
お姉さん先生は、不満そうな、心配そうな顔で、そう聞いた。
「うん、僕、しない」
僕はダンコとして言った。
「…そっか、入りたくなったらいつでもおいでね!」
お姉さん先生は、ちょっと困ったような顔をしてそう言って、校庭へ走っていった。
僕はちょっとホッとして、それからまた、アオムシについていった。
アオムシが学校の畑の土についた時、笛の音が聞こえた。
外遊びの終わりの合図だ。
僕はまた、ホッとした。
アオムシがここまで来るのをちゃんと見れてよかった。
ホントは木に登るところも見たかったけど。
「帰るよー!」
おばさん先生の呼び声が聞こえる。
賑やかなみんなの声が、おばさん先生の方に移動していく。
バイバイ
僕はアオムシに手を振って、走り出す。
五時のチャイムが、放課後の校庭に鳴り響いた。
生焼けのトーストを齧る。
壁掛け時計は、朝の七時を指している。
紙コップの中の、ぬるいコーヒーを飲み干して、立ちあがる。
トーストを齧りながら、鞄を肩にかける。
窓辺に立って、きっちりカーテンを閉める。
分厚いカーテンは、光を通さない。
部屋の中は薄暗い影に包まれる。
私にとって、カーテンは閉めるためにある。
カーテンの役目は、外からの視線を遮って、部屋の中を隠して守るだけではない。
部屋の中の私の視界を遮って、外の景色を隠してくれる。
紙コップを潰して平坦にしてから、トーストを持って、床に座り込む。
鞄を肩に掛けて、膝に抱えたまま、トーストを齧る。
ツルツルと輝く塵一つないフローリングに、パン屑がパラパラと落ちる。
私は病的な人間だ。
床に落ちているものはどんな小さなものでも我慢ならないし、家具や家電を置くのは怖い。
凹凸はどうしようもなく気になるし、円柱や立体的な“モノ”感があるものが怖い。
私は立体が怖い。
そして平坦が好き。
こうなってしまったのは、いつからだったろうか。
もう覚えていない。
人嫌いが病的になり、立体恐怖症に悪化して、部屋に引き篭もるようになってから、私はずっと日中は、カーテンを閉め続けている。
トーストを食べ終わり、折りたたみ式のほうきとちりとりを組み立てて、パン屑を掃除する。
掃除が終われば、急いでほうきとちりとりを分解して、また平面に戻す。
そこで私の心はやっと平坦を取り戻す。
もう私は、外では生きていけない。
外には、あのカーテンの向こうには、奥行きが溢れている。立体が溢れている。
だから私はカーテンを引いて、ただの四角い部屋の中にへたり込んで朝ごはんを食べる。
そんな家主を持ったおかげで、うちの部屋の窓の鍵はすっかり錆びついてしまっている。
朝食も終わったので、鞄からノートパソコンを取り出して、起動する。
立体が怖い私は、仕事も買い物も会話も平面でする。
現代は、私にとって良い時代だ。
大抵のことは外に出ずに、平面上で済ませられる。
インターネットは、私の日常を支えてくれる。
カーテンは、私を立体から守ってくれる。
だから私は、ずっとこの部屋の中で暮らしている。
ゴミは玄関前に置いて、管理人さんに回収してもらう。
届いた荷物は綺麗に潰して、平坦にする。
立体に侵略させないために。
私は、カーテンに守られ囲まれた平坦な王国で、暮らしている。
私だけの王国。
カーテンはこの王国の砦で、守衛なのだ。折り目の影がちょっと気になるけど。
そういうわけで、私は今でもカーテンに守られて生活している。
カーテンに四隅を囲まれた、平坦で手狭な楽園で。
カーテンが、部屋に薄暗い影を落としている。
部屋の中のどんなものにも公平な、平坦な影を。
私はゆっくりと体を伸ばす。
今日も、私の平坦な一日が始まる。
シャーデンフロイデという言葉を発明したやつを、俺は心底、尊敬している。
目の前で膝から崩れ落ちた友人を眺めながら、今日も俺は、ぬるくなった水道水を、甘露のように味わって飲み干す。
液晶モニターの中のAI機械音声が、冷淡に、今日の株価の暴落を告げていた。
「なんでだ…俺の人生、全て賭けてたんだぞ!!俺の貯金……俺の人生、めちゃくちゃだ!」
涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、友人は喚き散らしていた。
俺は、右手に持った季節外れの棒付きアイスを齧りながら、それを黙って聞き流している。
「俺の人生、めちゃくちゃだ!」
彼のこの言葉を何回聞いただろうか。
この後はいつも、彼は決まって、ふしくれだった腕で俺の胸ぐらを掴み、浅ましい目をギラギラさせて、こう続けるのだ。
「これも何もかも、お前のせいだ!あの時、お前が俺を止めてくれてれば…!」
彼は、俺の元同期で友人で、俺ん家の居候だ。
同大卒で同僚だったのだが、インフルエンサーに影響されたのか、急に投資を始めて億万長者になるだのと言い放ち、職場を去っていったのだ。
彼が、着のみ着のまま、俺の家に肩を窄めてやって来たのは、それから僅か一ヶ月後のことだった。
曰く、投資に失敗し、金を騙し取られ、グレーゾーンまで引き摺り込まれて、洋服以外すっかり剥ぎ取られて、命からがらここまで来た、どうにか金が工面できるまで、住まわしてはくれないか…そんなことを涙交じりの面で訴えた。
俺は大して驚かなかった。
そうなるだろうな、と前々から思っていたからだ。
彼はお世辞でも賢いとは言えないほどの奴だったからだ。
お調子者で、行き当たりばったりで、時間や信頼にもルーズ。
優先順位や計画、理論的という言葉は、きっと彼の辞書にはないのだろうと影で噂されるくらいの、無計画お花畑男だったからだ。
そして、その欠点の責任を環境と他人に押し付けて、怠惰を貪り、自分の非を受け入れて改めようとしない奴だったからだ。
彼は学生時代から今までずっと、少なくとも俺が知る範囲ではそういう、どうしようもない人間だった。
だから、俺は彼のそんな突飛で身勝手なSOSにも応えることができた。
俺は彼を家に招き入れた。
ダメ人間を飼うことにした。
彼はダメ人間だったが、俺は彼が結構、気に入っていた。
言動はいちいち予想の斜め下で面白かったし、口が重く表情を表に出すのが苦手な俺にとって、表情をクルクル変えて常に騒ぎ続ける彼の存在は、なかなか興味深かったからだ。
それに、彼の存在は、俺にとっても有益だった。
彼の枚挙にいとまのない失敗たちは、ある時は俺を慰めた。「俺の下にはまだコイツがいる」と。
またある時は、俺を戒めた。「怠惰に身を任せて、考えることをやめれば、彼みたいになるぞ」と。
だから俺は、何度約束を破られても彼の友人であり続けた。
彼は、俺にとっての反面教師で、興味の塊で、観賞用生物で、かけがえのない友人だった。
彼がいるだけで、俺の日常は楽しかった。
彼の涙を眺め、涙の理由を解析し、それを肯定し、手を差し伸べながら、内心で失笑し、論い、彼を貶めるのが、俺にはアニメやマンガや本よりも、何よりの娯楽だった。
俺は悪魔なのだ、きっと。
友人の涙の理由を甘い露か、美味い酒肴のように味わう俺は。
自分の生活を切り詰めてでも、彼の自業自得な悲劇と涙の理由を手放せない俺は。
不幸を喰らう悪魔なのだ。
そして、そんな悪魔は存外、ありふれた存在なのだろう、と思う。
友人は、俺の胸ぐらを掴み、しばらく慟哭を上げながら強請っていたが、まもなく息が切れて、咳き込みながら座り込む。
泣き疲れた子供のような、くちゃくちゃな顔で、へたり込み、呆然と床を眺めている。
頬を、涙が一粒、光りながら流れていく。
俺は彼の背をそっとさすってやる。
彼がしゃくりあげる。
「心配すんな、金ができるまで追い出さないから」
俺の猫撫で声に、彼がまた一筋の涙を、くちゃくちゃの頰につたらせる。
「…ああ」
彼が掠れた声を上げる。
彼はとっくに、感謝の言葉を忘れている。
そんなダメさに、甘い満足感を噛み締める。
シャーデンフロイデという言葉を発明したやつを、俺は心底尊敬している。
ヘリウムでぱんぱんに膨らんだ、ビビットカラーの風船。
赤と白でくっきりと目立つ、丸みを帯びた三角のテント。
ギザギザの黄色い旗のひだが、バタバタと風にはためいている。
新緑に纏われて、しん、と静まり返った、狭い開けた土地に、堂々とサーカスのテントが立ち塞がっている。
テントの奥からは、ロリポップキャンディーのような甘い香りがする。
楽しげな音楽が、テントの内側から漏れ出ている。
風船が、はち切れそうなゴムの皮膚を寄せ合って、ひっきりなしにふわふわと浮かんで、こちらを誘っている。
テントの入り口近くに立っている、奇妙な帽子を被った奇妙な痩身の男が、囃すようにひょうきんに笛を吹く。
風船を持つ着ぐるみのネコは、口角を目一杯あげ、楽しくて堪らないような笑顔で、風船の細い尻尾を握り込んでいる。
見ているだけでテントの中に突き進みたくなるような、ステップを踏みたくなるような、そんな景色。
こういう気持ちを「ココロオドル」というらしい。
どこかの本に載っていた。
ココロオドルサーカスのテントが、私の目の前にあった。
縄だけを掴んで、樹海の細い道を出鱈目に歩いてやって来た私の目の前に。
ここは自殺の名所のはずだ。
入り組んだ木と枝に覆われて、陽の入らない薄暗い道。
人の気配は全くなく、陰気で人気も生気も感じさせない空気に纏われた、静まり返った道。
行き倒れと自殺者の死体の他には、何もいない寂しい場所。
誰も救えず、罪だけを重ねて、帰りを待つものなんて誰もいない私には、お似合いの場所。
とうとう、間接的に人殺しまでやってしまった私の最期に相応しい場所…のはずだった。
どういうわけか、私の目の前には、温かく賑やかで派手なサーカスのテントがある。
派手な人工色が目に痛い。
奇妙な痩身の男が笛を吹く。
重ねた罪で虚に灰色だったはずの私の心が僅かに踊る。
ネコの着ぐるみがこちらに進み出て、風船を差し出す。
真っ赤な風船。
ぱんぱんに空気の詰まった、生き生きとした真紅の風船。
心がドクンと踊る。
私は、差し出されるままに風船を受け取る。
また、痩身の男が笛を吹く。
テントの中から、ココロオドル音楽が一層湧き上がって聞こえてくる。
人の笑い声すらする。
満面の笑みのネコの着ぐるみが、優しく私の背を押す。
まるで、子供に戻ったみたいだ。
何の罪も何の悪いことも知らず、純粋で、清らかで、いい子だったあの時に戻れたみたいで。
子供の私の心は、楽しそうなサーカスに、無邪気に高鳴り、踊った。
着ぐるみのネコの笑顔がこちらの顔を覗き込み、軽やかに頷くと、私の背をもう一度、優しく、ゆっくりと押した。
痩身の笛吹男が笛を吹いた。
ココロオドル。
ココロオドル。
私は転げるように一歩を踏み出した。
一度踏み出すと、もう足は止まらなかった。
私は勢いよく駆け出した。
縄も遺書も何もかも投げ出して。
灰色の秋風が、背中で強く吹いた。
どこかで、枝が動いた気がした。でもサーカスに心を奪われた子供には、気にならないことだった。
私はサーカスのテントに向かって走る。
冷たい樹海が、テントの四方を静かに囲んでいた。