薄墨

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10/8/2024, 2:10:55 PM

籠が転がり落ちた。
金の林檎が、籠の中からごろり、と転がり出た。

視線は、自然と転がり落ちた林檎の軌道を辿った。
始点には、白い絹の法衣を纏った彼の袖から溢れでた、細い手首があった。
頼りない手首の先の先に、肉の薄い指が、細かく震えていた。

林檎は、芯を中心にして、ごろごろと独、転がっていた。
誰も喋らなかった。
僕は、独りよがりに転がる煌びやかな祝福の林檎を見て、蒼白のショックを受けている彼の顔を見て、彼の体の末端で細かく震える指先を見た。

こんな状態になっても、誰も何も言わなかった。
石木のように黙りこくっていた。
僕が言わなければいけない、それ以外の誰が言うのだ、そう思った。

言葉を出すのに、難儀した。
喉の奥に林檎の骨が刺さったように、声は何度も腹と喉を逡巡した。
ようやく吐き出した声は、掠れていた。
「もう、やめよう」

彼が弾かれたようにこちらを見た。
白く柔らかい法衣が、彼の動きに吊られて、びくりと跳ねた。

「もう、やめようよ、祝福配りなんて…こんな状況になってまですることじゃない」

僕の声だけが響いた。

彼は、不思議な力を持つ人だった。
祝福を、金の林檎にして、人々に分け与えることができる。彼は、その能力を偉大なものから授かって生まれてきた。
そして、祝福を分け与え、幸せを増やすことが、彼が与えられた使命でもあった。
彼のその力は、この辺りの人々が幸せに暮らすのに大いに役に立った。

その代わりに、彼の生は恐ろしく速く過ぎ去っていく。
彼は生まれてから4、5年で大人になり、日に日に成長し、老いていく。
彼の兄貴分として、彼にここでの生活について教え、面倒を見てきた僕のことも、彼は抜き去っていった。

「まだ、不幸な人がいます。あの花屋の親子だって、一日でも祝福を受け取れなければ、母親だけ死んでしまいます。…行かなくちゃいけません」
静かで、絹のように柔らかい、彼の声が響いた。

彼は底抜けに優しくて、真面目で、でも秘めた強い意志と芯があって、不思議な能力に負けないほどの素晴らしい性格をしていた。
瞳に深い何かを湛えて、どんな時も凪のように穏やかだった。

彼は毎日、真面目に、必死で、使命を果たそうとした。
彼のその気持ちと能力を知った時、僕たちは、彼を助けていくことを決めた。
祝福を町中で配ることを提案したのは、僕だ。
彼の慈悲深く、世話焼きで穏やかな優等生みたいな性分にはぴったりで、彼はどんどん祝福配りに熱をあげていった。

最初は月に2、3回だった祝福配りは、2週間に2、3回になり、1週間に2、3回になり、1週間に5日になり、あっという間に、彼と僕たちの毎日の日課にまでなった。

僕は彼が好きだった。みんな、彼のことを好きだと思っている。
彼を嫌いな人なんて、よほどの捻くれ者だろう。
祝福を受け取る町の人々は、彼に感謝していたし、僕たちは、彼の優しさに救われていた。

僕は彼と出来るだけ長く一緒にいたかった。
彼にも幸せになって欲しかったし、彼が喜ぶとこっちまで嬉しくなった。

ところが。
祝福を配れば配るたび、彼は、何だかやつれていくようだった。
彼の体は薄くなり、顔色はだんだん蒼白に抜けていって、細く儚げになった肌に、赤い肌荒れが目立ち始めた。
彼の成長のスピードも、目に見えて上がっていく。
彼と僕たちの成長の差は、もう一回りは違うように見えた。

このままでは彼は死んでしまう。
彼の人生は、あっという間に終わってしまう。

僕は、彼が、自分のことを気にしているところを見たことがなかった。
このままでは、彼は自分のことを何もせずに人生を終えてしまうのではないか。
彼は自分のためでなく、使命のために死んでしまうのではないか。
彼を休ませなくては。
少なくとも、束の間の休息くらいは、彼に与えなくては。

僕は彼の柔らかで、しかしガンとして引かない強い声に、必死で抵抗した。
休め!束の間でいいから休息を取ってくれ!
最後の方には哀願になった。

でも、彼は首を横に振った。
周りの奴らも、誰も休もうとは言わなかった。

やがて、彼と奴らは林檎を拾い上げ、町へ向かって歩いていった。
僕だけが取り残された。

一人きりで、必死に頭の中に考えを巡らせた。
彼を休ませるためにどうすれば良いか。
彼に束の間の休息を与えるためには…

…彼が祝福を配る相手がいなくなればいいんじゃないか?
何もかもなくなって、彼がすることがなくなれば?
何もかも黒く塗り潰してしまって…
そしたら、彼は、その間、束の間でも休むことができる?

そうだ、そうすれば良かったんだ。
彼が自分を犠牲にしてまで人のために尽くしてしまうのであれば、その人がみんな居なくなれば、彼は自分のために時間を使える。
再び人が現れるまで、それが束の間でも、長くても、休むことができる。
…そうだ、それだ!

体の節々が氷解したような解放感が胸を満たす。
体温がようやく身体に戻って来た気がした。
そうだ、そうすれば良い。それが僕の使命だ。

身体に力が籠る。
脳が熱を帯びて、生き生きと動いている。
僕は、強く決意して、一歩を踏み出す。

不意に、耳元で喧しい笑い声がした。
身勝手で、自由で、けたたましい声。
何だか心地よい気がした。
つむじ風が埃を巻き上げて、僕の背を押した。

10/7/2024, 2:30:03 PM

白い陶器の破片が、剣呑な音を立てて転がった。
半分に割れた花瓶の口から、透明な水が粘性を持って、とろとろと流れ出ていた。

薄桃色に色づいた花の蕾が、水に滴りながら、くたりと凋んで落ちていた。

やっちまった。
無惨に水に浸かった、凋んだ花の蕾を見て、そう思う。
瓶の隙間から、ドクドクと液体が滲み出て、広げた手紙にゆっくりと染み込み続けていた。
力一杯叩きつけたペンから折れたペン先が、滲んでゆく手紙の上を力なく転がっていた。

この生活での唯一の楽しみを、綺麗なものを、破壊してしまった。
そんな後悔がじわじわと湧き上がっていた。
怒りに任せて、こんなことするんじゃなかった。
頭は、理性は、そう考えているのに、拳の力は抜けなかった。

爪がゆっくり掌の肉に食い込んでいる。

ここは壁の中。
国境を分ける分厚い壁の、監視塔だ。
俺はここで、もう五年も勤務している。

昔の戦争の名残で、この国には至る所に鉄条網の張り巡らされた壁が残っている。
戦争が終わった今、この壁を越えることは禁じられている。越える理由がないし、戦争を止めるための条件の一つが、「互いの交流を禁じる」というものだったからだ。

壁を越えたら重罪。
捕まえて、直ちに政府に引き渡される。
壁の向こうに何があるのか、それは今生きている国民たちの誰も知らない。

だが、そんな状態でも、壁を越えようとする物好きは存在する。
政府の目をくぐり、壁に穴をあけ、壁の外へ出ようとする。
そこで、壁を見張る必要が出てきた。
政府は、壁の中に居住スペースを作り、住み込みの監視塔にして、人を置いて、壁を見張らせることにした。

俺は、まさしくその、壁の見張り役を命じられていた。
壁を越えようとした奴らを検挙し、政府に送りつけることを、もう五年も続けていた。

壁の中の見張り人は、苦行だ。
任期の間は、スケジュールが分刻みで決められていて、人と会えない。
できるのは手紙でのやり取りだけ。
監視という任務を問題なくやり遂げるための措置だという。

壁に向かう奴らにどんな事情があったとしても、同情することなく、突き出せるように、任務遂行時の人間性を極限まで削いでくれているのだ。
ありがたいこった。

そういう任務だったから、この仕事は懲罰扱いとなっていた。
俺も懲罰で来た。
家族をバカにした将校を殴っちまったからだ。
規則によれば、俺は二年間で壁の中から出られるはずだった。はずだったのだ。

だが、現実はそうはならなかった。
国の中で内部分裂が激化し、国の崩壊を恐れたお偉方は、国民の注意の矛先を、国外へ向けたがった。

そうして、壁の外を警戒するクソみたいな『国境強化期間』なるものが作り出された。
俺の恩赦は延び、壁内での生活の規制の締め付けは、蟒蛇のとぐろ並みに厳しくなった。

今しがた届いた手紙には、今月のスケジュールが書かれていた。
日増しにエスカレートしていく規制に、我慢ならず、俺は政府に返信を書いていた。

俺は家族に会いたかった。
友人と話したかった。映画も見たかった。
力を込めて、そんなことを書いた。
壁の中の生活の辛さ、大切な人に会えない苦しみ、自分の性格から人間性が抜けていく恐怖…
力を込めて、そんなことを書いた。

書いていた。

力を込めすぎたのか、バキンッと音を立て、ペン先が折れた。
このペンは、家族からのプレゼントだった。

その途端、何かが切れてしまった。
俺は、将校を殴ったあの時のように、腕にありったけの力を込めて、机の上を薙ぎ払っていた。
陶器の花瓶が割れ、グラスが転がった。

…そして、俺は、襲いくる後悔と、それを飲み込まんと湧き上がる怒りの中で、拳を握りしめて、自分が作り出したこの惨状を見ていた。

自分で破壊した、自分の人間らしい生活の痕跡を睨みつけていた。

俺は帰りたかった。
壁の中から脱出したかった。

花瓶の水が、じわじわと壁の床に吸い込まれていく。
殴り書いた手紙のインクが、じゅわじゅわとふやけていく。

壁なんて壊れてしまえば…

監視センサーが赤く光っていた。
壁に向かう奴がまた、現れたらしい。
通報ボタンを押さなくては。
俺は、のろのろと腕を掲げた。

でも、その腕は糸が切れたように、だらん、と自分の太ももの側面に垂れ下がった。

俺はなんなのだろう。
何のためにここにいるのだろう。
ぐちゃぐちゃになった机の向こう、しみったれたいつもの壁があった。

鳴り響く監視センサーの通知音。
ぐちゃぐちゃに乱れた机。
いつも通りに無機質でしみったれた壁。
監視できなくなった監視員はどうなるのだろう、俺の頭は、ぼんやり、そんなことを考えていた。

10/6/2024, 2:45:33 PM

リボンを解く。包装紙を剥がす。
箱を開ける。
ひらがなとカタカナと簡単な漢字で彩られたビビットカラーのキャラクター図鑑と、まんまるでぴかぴかの、きゅるんとしたキャラクターのぬいぐるみが、箱の中にあった。

一緒にカードが添えられている。
筆ペンで、読みやすいように一字一字くっきりと間を開けて、よれよれなメッセージが書かれている。
「おたんじょうび、おめでとう  ばあばより」

確かに今日は、私の誕生日だった。
制服のリボンを外しながら、じっとカードを読んだ。
キャラクターのぬいぐるみを抱き上げる。
小さい頃はこのキャラクターが大好きだった。
もう過ぎた日だけど。

ぬいぐるみを箱の中に戻して、包装紙ごと、ゆっくり丁重に、プレゼントをずらす。
下から現れた机の表面に、スクールバッグを放り出す。
明日は確か、古典の小テストがあった。
きちんと勉強しておかないと。

スクールバックの中からスマホを取り出して、電源をつけながら、制服を着替える。
あのキャラクターが好きだったのは、今から何年前のことだろう。
確か、あのキャラクターに出会ったのは、あのコンテンツが始まってすぐの頃だったから……なんて考えながら部屋着を着て、スクールバックから単語帳と筆箱を取り出す。

もう私も高校2年生だ。
誕生日だからと、遊んでもいられない。
でも、そういうことを、おばあちゃんはもう知らない。

おばあちゃんの言動が怪しくなってきたのは、ちょうど二年前くらいのことだった。
ご飯を食べたことを忘れたり、牛乳を出しっぱなしのまま、牛乳を買いに行ったり…。
異常に気づいたお母さんが、おばあちゃんを病院に連れて行って…そこからはなんだか実感を伴わなかった。

おばあちゃんは、日が経つごとに過去へ帰っていった。
大好きだったおじいちゃんのお葬式の前の日に戻った。
近所の親友が、老人ホームに入る前の日に戻った。
おじいちゃんの足が悪化して、立てなくなった日に戻った。

そんなおばあちゃんを見ながら、お母さんが、誰に聞かせるともなく、ポツリといった。
「おばあちゃん、おじいちゃんが亡くなってから、いつも過ぎた日を想ってばかりだったもの。想い過ぎて、あの日に戻っちゃったのね」

おばあちゃんは、私たちにとっての、過ぎた日の中にいた。
過ぎた日から、おばあちゃんはいつも私たちに話しかけてきた。

おばあちゃんの過ぎた日の中では、私は入学したての小学生くらいのはずだ。だから、プレゼントで、こんなものを贈ってきてくれたのだ。
そこまで考えた時、私の頭に、小さな痛みと共に閃いた過ぎたあの日が思い出された。

私は、高校二年生。
だから、あの日のように、貰ったプレゼントに屈託なく、生意気に文句は言えない。
おばあちゃんが一生懸命、用意してくれたプレゼントに「もういらない!」なんて言えない。

あの過ぎ去った日の中で、悲しそうな、寂しそうな顔をして、小さくなったおばあちゃんの顔を覚えていたから。

おばあちゃんが覚えていなくても、私が覚えているから。

あの日、私は好きなキャラクターを「子どもっぽい!」と、友達に揶揄われた帰りだった。
おばあちゃんに、あんなことを吐き捨てて、プレゼントを放ったあの日のことは、ずっと私の心のどこかに引っかかっている。

おばあちゃんの哀しげな顔が、胸を刺す。

今日のプレゼントは、あの日のプレゼント。
入院中のおばあちゃんが用意して、お母さんが持って帰ってきてくれた、あの過ぎた日に受け取り損ねた、プレゼント。

過ぎた日を過ごすおばあちゃんは、私に“過ぎた日を想う”プレゼントを用意してくれたんだ。
それとは知らずに。

体がびくり、と一瞬で固まってしまった。
ゴーゴンに睨まれた時ってこういう感じなのだろう。
私は、プレゼントから視線を離せなかった。
足を動かせなかった。

おばあちゃん…。

涙も流せなかった。
私の中で嵐のように荒れ狂う気持ちを、必死に押さえ込んで、吹き荒れる感情を必死に宥めるだけで、精一杯だった。

おばあちゃん……、ありがとう。

ぼろり、と口から漏れ出た。
おばあちゃんの手書きのメッセージカードがぼやけて見える。
キャラクター図鑑の厚みが、ずっしりと視界に重い。

部屋は静かだ。
お母さんは、おばあちゃんのお見舞いに行っているから。
私は動けなかった。
カチカチに凝り固まってしまった私の肌が、熱い何かが目頭から滑り落ちるのを感じた。

家はしん、と静まり返っていた。
ぬいぐるみのまんまるな瞳だけが、過ぎた日を想う私の涙を、じっと見届けていた。

10/5/2024, 2:07:33 PM

指を夜空に浸して、星を繋ぐ。

まっすぐ、パキッと線を引く。
絵が出来上がる。
自分にしか見えない、宇宙のキャンパスに、見たいものを描く。
空を見上げて。

たくさん、たくさん描いていく。
戦う人。まぐわう人。会話をする人。
猛獣。神様。妖怪。

誰にも見せられない胸の内の不思議な世界を。
私の頭に根付く、たくさんの空想の世界を。
自分の汚い欲望と感情を目一杯詰め込んだ絵を。

星座は、秘密のお絵かきには、素晴らしいキャンバスだ。
点は誰にでも見られるが、線は誰にも見られない。
何を描いたって、描いた人間にとってそれは無かったことにはならないし、誰かにその絵の内容がバレることもない。

だから、私は今日も、この山奥の星空に、そっと指をかざす。
夜空に手を浸して、無数に散りばめられた星の点を繋いで、誰にも見せられない秘密の絵を描く。
他の誰でもなく、ただ、自分のために。

ほうっと深い息を吐いて、星空を眺める。
指と頭の中で描いた星座が、無限の星空のたった一面に、びっちりと並んでいる。

満足感と充足感。
私はスッキリして、手を下ろす。
今日はこのくらいにしよう。

山道をゆっくりと降りてゆく。
星が空の上に満天に輝いている。
私だけの星座が、私を見送っている。
もしかしたら、こんなことをしている人は私以外にもいて、この幾星霜広がるどの星も、きっと誰かの星座のための一点で、誰かのかけがえない星なのかもしれない。
ふと、そんなことに思い当たる。

涼しい山風が吹き抜けていく。
幾千もの星がちらちらと輝く。
たくさんの、誰かのための星座が今日も夜空に輝いている。なんだか素敵だ。

星を見上げる。
私には私のための星座が見える。
誰かには誰かのための星座が見える。

ゆっくりと山を降りていく。
星はいつまでもキラキラと輝いていた。

10/4/2024, 2:47:32 PM

煙草を揉み消しながら、吐き捨てる。
「どこのブルジョワだよ、その誘い方」
意識していないのに、口角が微かに上がるのが分かる。

斜に構えて煙草を吸うアイツの頬にも、機嫌良さそうな軽い微笑が浮かんでいる。

相変わらずメチャクチャだよな、くぐもった声でアイツに聞こえるようにそれとなく、呟く。
アイツは笑顔を崩さないまま、煙を深く吐き出してから、こちらに向き直った。
「でも普通の誘い方をしたところで、あなたは興味を持たれないでしょう?」

その通りだとは思ったが、素直に答えるのもなんとなく癪で、俺は煙草の箱を剥いて、次の一本を引き出しながら、目を逸らす。

アイツはそれを見て、満足そうに頷いて、言った。

「上手くいく確率は、かなり高いと思いますよ。あなたのその人望と悪賢さ、それと私の計算と策略があればね」
ですから、アイツは煙草の煙を吹き上げながら、口先だけは気障ったらしいお育ちの良さげな敬語で続ける。
「私と踊りませんか?」

俺たちが顔を合わせたのは、一年前の“仕事”の時だった。
クソな家庭環境のおかげで、初っ端から人生計画というものが、悉くシュレッダーにかけられていた俺は、マトモというものがどうも理解できなかった。
そんな俺が、居場所を昼間の大通りから夜の繁華街に求めたのは、当然のことだったと言えるだろう。

そして、今目の前で煙草を蒸すコイツも、人生をシュレッダーにかけられて、ズンボロになりながらここに辿り着いた奴であることは空気でわかった。

俺たちはある意味、同志だった。

コイツと一緒に挑んだ“仕事”は、蔦で吊り下げられたオンボロくらいに危ない橋だった。おまけに、仕事の数週間前には、繁華街に法律の犬の見廻が増え、厄介事が増えた時期で、どいつもこいつも殺気だった、不安定な時期だった。

骨が折れたが、俺の知恵とアイツの飛び抜けた状況判断能力で、俺たちは無事、仕事を完遂した。

なかなか面白い奴だな、俺はアイツをそう評価した。
アイツも、俺を憎からずとは思っていないようだった。
それからも度々顔を合わせたが、もとよりこんな所で生計を立てている奴らの辞書に“信頼”の文字はない。
俺とアイツは、顔を合わせたら、その場だけの世間話で盛り上がる、という程度の仲だった。
せいぜい、共有の縄張りを持つ野良猫同士程度の仲だ。
顔を合わせれば友好的には接するが、それ以上の義理もない。
そういう人間関係は気楽だったし、不満もない。
アイツとの仲は永遠にそんなもんだろう。

今日、アイツが俺を一服に誘わなければ。

アイツは、「ちょっと話さないか?」と、珍しく俺を一服に誘った。
そして、人も十分引けたくらいを見計らって、例の話を始めたのだ。

有体に言えば、俺とアイツで組んで、ビジネスをやらないか、という話だった。

きっかけは、この繁華街の裏ボスに、ふと、子会社らしき組織が欲しい、と、けしかけられたのが始まりらしい。
この街は大抵、誰かの縄張りだ。そして水面下でも水面上でも、縄張り争いが熾烈だ。
ビジネスといっても、大それた動きをするわけじゃない。
繁華街の住人にも、しつこくこの辺りを彷徨く、法律の犬っころにも手が出されにくい、グレーゾーン。

法と契りの穴をつくビジネスをやろう、そんな話を、アイツは気障ったらしい言葉で色々と装飾をつけて、提案してきたのだった。
「一つ、ここの主の奏でるシナリオと曲に乗って、私たちで踊りませんか?私たちなら、奴らが、疲れ果てて見惚れるくらいまで、踊れる気がするのです」

煙草をまた一息に吸い、アイツがこちらの目を見つめてくる。
どうも目を合わすのが苦手なようで、本人は誠意を込めて真っ直ぐ正対しているつもりのようだが、どうも傾いた下目遣いで、不自然に眇めた目から斜に傾いた視線を感じる。
言い回しを含めると、随分小生意気に見える。

昼間の世界に生きるなら、だいぶ印象の悪い目つきだろうが、ここならそれは気にならない。
似たような欠陥を抱えた微妙な失礼さを持つ奴らなんて、掃いて捨てるほどいるからだ。
声と怒りの大きさの調整ができず、敬語も使えない俺と似たようなもんだ。

それに俺は、アイツのそういう面白さに興味が湧いてきていた。
アイツなら、味方につけた時の実益も申し分ない。
賢いし、実力も運もある。それは一緒に仕事をした時に確認済みだ。

コイツなら使える。
良い利害関係を築けるだろう。

煙草に火をつけて、深く吸う。
ニコチンのガツンと重たい鈍色の煙が、脳に響く。

鼻から深く息を吐いて、さりげなく言い置く。
「良いだろう、踊ってみるか」

アイツの目の奥に微かに喜色が走る。
だがそれは素早くアイツの中に隠れ去り、奴は平然とした様子で煙を吐きながら、事も無げに呟く。
「そりゃ嬉しいですね。勇気を出してお誘いした甲斐がありました。では、これからよろしくお願いします」
「ああ、楽しく踊らせてくれよ」

俺の返答を聞いて、アイツはひっそりと笑った。
「ええ。踊りに誘った以上、最低限のリードとエスコートはさせていただきますよ」

夜が近い。
繁華街のこんな細い路地にも、ポツポツとネオンが灯り始める。
そろそろ、ここも混むだろう。

それを分かってだろう。アイツは具体的な話はせずに、会話を切り上げにかかる。
「では、後ほど。明日もこの時間に。ご都合がよければ」
「ああ、また明日」
会話が終わることに、俺もなんら不具合はなかった。
だから会話を畳む。

アイツは、煙草を揉み消すと、新たにやってきた繁華街の古株喫煙者と入れ違いに、するりと路地を抜けていく。
それを見送りながら、俺は煙草に口をつける。

繁華街の一日はこれからだ。
夜の社会の一日の始まりを告げる、紫の夜闇が、そこまで近づいてきていた。

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