薄墨

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白い陶器の破片が、剣呑な音を立てて転がった。
半分に割れた花瓶の口から、透明な水が粘性を持って、とろとろと流れ出ていた。

薄桃色に色づいた花の蕾が、水に滴りながら、くたりと凋んで落ちていた。

やっちまった。
無惨に水に浸かった、凋んだ花の蕾を見て、そう思う。
瓶の隙間から、ドクドクと液体が滲み出て、広げた手紙にゆっくりと染み込み続けていた。
力一杯叩きつけたペンから折れたペン先が、滲んでゆく手紙の上を力なく転がっていた。

この生活での唯一の楽しみを、綺麗なものを、破壊してしまった。
そんな後悔がじわじわと湧き上がっていた。
怒りに任せて、こんなことするんじゃなかった。
頭は、理性は、そう考えているのに、拳の力は抜けなかった。

爪がゆっくり掌の肉に食い込んでいる。

ここは壁の中。
国境を分ける分厚い壁の、監視塔だ。
俺はここで、もう五年も勤務している。

昔の戦争の名残で、この国には至る所に鉄条網の張り巡らされた壁が残っている。
戦争が終わった今、この壁を越えることは禁じられている。越える理由がないし、戦争を止めるための条件の一つが、「互いの交流を禁じる」というものだったからだ。

壁を越えたら重罪。
捕まえて、直ちに政府に引き渡される。
壁の向こうに何があるのか、それは今生きている国民たちの誰も知らない。

だが、そんな状態でも、壁を越えようとする物好きは存在する。
政府の目をくぐり、壁に穴をあけ、壁の外へ出ようとする。
そこで、壁を見張る必要が出てきた。
政府は、壁の中に居住スペースを作り、住み込みの監視塔にして、人を置いて、壁を見張らせることにした。

俺は、まさしくその、壁の見張り役を命じられていた。
壁を越えようとした奴らを検挙し、政府に送りつけることを、もう五年も続けていた。

壁の中の見張り人は、苦行だ。
任期の間は、スケジュールが分刻みで決められていて、人と会えない。
できるのは手紙でのやり取りだけ。
監視という任務を問題なくやり遂げるための措置だという。

壁に向かう奴らにどんな事情があったとしても、同情することなく、突き出せるように、任務遂行時の人間性を極限まで削いでくれているのだ。
ありがたいこった。

そういう任務だったから、この仕事は懲罰扱いとなっていた。
俺も懲罰で来た。
家族をバカにした将校を殴っちまったからだ。
規則によれば、俺は二年間で壁の中から出られるはずだった。はずだったのだ。

だが、現実はそうはならなかった。
国の中で内部分裂が激化し、国の崩壊を恐れたお偉方は、国民の注意の矛先を、国外へ向けたがった。

そうして、壁の外を警戒するクソみたいな『国境強化期間』なるものが作り出された。
俺の恩赦は延び、壁内での生活の規制の締め付けは、蟒蛇のとぐろ並みに厳しくなった。

今しがた届いた手紙には、今月のスケジュールが書かれていた。
日増しにエスカレートしていく規制に、我慢ならず、俺は政府に返信を書いていた。

俺は家族に会いたかった。
友人と話したかった。映画も見たかった。
力を込めて、そんなことを書いた。
壁の中の生活の辛さ、大切な人に会えない苦しみ、自分の性格から人間性が抜けていく恐怖…
力を込めて、そんなことを書いた。

書いていた。

力を込めすぎたのか、バキンッと音を立て、ペン先が折れた。
このペンは、家族からのプレゼントだった。

その途端、何かが切れてしまった。
俺は、将校を殴ったあの時のように、腕にありったけの力を込めて、机の上を薙ぎ払っていた。
陶器の花瓶が割れ、グラスが転がった。

…そして、俺は、襲いくる後悔と、それを飲み込まんと湧き上がる怒りの中で、拳を握りしめて、自分が作り出したこの惨状を見ていた。

自分で破壊した、自分の人間らしい生活の痕跡を睨みつけていた。

俺は帰りたかった。
壁の中から脱出したかった。

花瓶の水が、じわじわと壁の床に吸い込まれていく。
殴り書いた手紙のインクが、じゅわじゅわとふやけていく。

壁なんて壊れてしまえば…

監視センサーが赤く光っていた。
壁に向かう奴がまた、現れたらしい。
通報ボタンを押さなくては。
俺は、のろのろと腕を掲げた。

でも、その腕は糸が切れたように、だらん、と自分の太ももの側面に垂れ下がった。

俺はなんなのだろう。
何のためにここにいるのだろう。
ぐちゃぐちゃになった机の向こう、しみったれたいつもの壁があった。

鳴り響く監視センサーの通知音。
ぐちゃぐちゃに乱れた机。
いつも通りに無機質でしみったれた壁。
監視できなくなった監視員はどうなるのだろう、俺の頭は、ぼんやり、そんなことを考えていた。

10/7/2024, 2:30:03 PM