薄墨

Open App

籠が転がり落ちた。
金の林檎が、籠の中からごろり、と転がり出た。

視線は、自然と転がり落ちた林檎の軌道を辿った。
始点には、白い絹の法衣を纏った彼の袖から溢れでた、細い手首があった。
頼りない手首の先の先に、肉の薄い指が、細かく震えていた。

林檎は、芯を中心にして、ごろごろと独、転がっていた。
誰も喋らなかった。
僕は、独りよがりに転がる煌びやかな祝福の林檎を見て、蒼白のショックを受けている彼の顔を見て、彼の体の末端で細かく震える指先を見た。

こんな状態になっても、誰も何も言わなかった。
石木のように黙りこくっていた。
僕が言わなければいけない、それ以外の誰が言うのだ、そう思った。

言葉を出すのに、難儀した。
喉の奥に林檎の骨が刺さったように、声は何度も腹と喉を逡巡した。
ようやく吐き出した声は、掠れていた。
「もう、やめよう」

彼が弾かれたようにこちらを見た。
白く柔らかい法衣が、彼の動きに吊られて、びくりと跳ねた。

「もう、やめようよ、祝福配りなんて…こんな状況になってまですることじゃない」

僕の声だけが響いた。

彼は、不思議な力を持つ人だった。
祝福を、金の林檎にして、人々に分け与えることができる。彼は、その能力を偉大なものから授かって生まれてきた。
そして、祝福を分け与え、幸せを増やすことが、彼が与えられた使命でもあった。
彼のその力は、この辺りの人々が幸せに暮らすのに大いに役に立った。

その代わりに、彼の生は恐ろしく速く過ぎ去っていく。
彼は生まれてから4、5年で大人になり、日に日に成長し、老いていく。
彼の兄貴分として、彼にここでの生活について教え、面倒を見てきた僕のことも、彼は抜き去っていった。

「まだ、不幸な人がいます。あの花屋の親子だって、一日でも祝福を受け取れなければ、母親だけ死んでしまいます。…行かなくちゃいけません」
静かで、絹のように柔らかい、彼の声が響いた。

彼は底抜けに優しくて、真面目で、でも秘めた強い意志と芯があって、不思議な能力に負けないほどの素晴らしい性格をしていた。
瞳に深い何かを湛えて、どんな時も凪のように穏やかだった。

彼は毎日、真面目に、必死で、使命を果たそうとした。
彼のその気持ちと能力を知った時、僕たちは、彼を助けていくことを決めた。
祝福を町中で配ることを提案したのは、僕だ。
彼の慈悲深く、世話焼きで穏やかな優等生みたいな性分にはぴったりで、彼はどんどん祝福配りに熱をあげていった。

最初は月に2、3回だった祝福配りは、2週間に2、3回になり、1週間に2、3回になり、1週間に5日になり、あっという間に、彼と僕たちの毎日の日課にまでなった。

僕は彼が好きだった。みんな、彼のことを好きだと思っている。
彼を嫌いな人なんて、よほどの捻くれ者だろう。
祝福を受け取る町の人々は、彼に感謝していたし、僕たちは、彼の優しさに救われていた。

僕は彼と出来るだけ長く一緒にいたかった。
彼にも幸せになって欲しかったし、彼が喜ぶとこっちまで嬉しくなった。

ところが。
祝福を配れば配るたび、彼は、何だかやつれていくようだった。
彼の体は薄くなり、顔色はだんだん蒼白に抜けていって、細く儚げになった肌に、赤い肌荒れが目立ち始めた。
彼の成長のスピードも、目に見えて上がっていく。
彼と僕たちの成長の差は、もう一回りは違うように見えた。

このままでは彼は死んでしまう。
彼の人生は、あっという間に終わってしまう。

僕は、彼が、自分のことを気にしているところを見たことがなかった。
このままでは、彼は自分のことを何もせずに人生を終えてしまうのではないか。
彼は自分のためでなく、使命のために死んでしまうのではないか。
彼を休ませなくては。
少なくとも、束の間の休息くらいは、彼に与えなくては。

僕は彼の柔らかで、しかしガンとして引かない強い声に、必死で抵抗した。
休め!束の間でいいから休息を取ってくれ!
最後の方には哀願になった。

でも、彼は首を横に振った。
周りの奴らも、誰も休もうとは言わなかった。

やがて、彼と奴らは林檎を拾い上げ、町へ向かって歩いていった。
僕だけが取り残された。

一人きりで、必死に頭の中に考えを巡らせた。
彼を休ませるためにどうすれば良いか。
彼に束の間の休息を与えるためには…

…彼が祝福を配る相手がいなくなればいいんじゃないか?
何もかもなくなって、彼がすることがなくなれば?
何もかも黒く塗り潰してしまって…
そしたら、彼は、その間、束の間でも休むことができる?

そうだ、そうすれば良かったんだ。
彼が自分を犠牲にしてまで人のために尽くしてしまうのであれば、その人がみんな居なくなれば、彼は自分のために時間を使える。
再び人が現れるまで、それが束の間でも、長くても、休むことができる。
…そうだ、それだ!

体の節々が氷解したような解放感が胸を満たす。
体温がようやく身体に戻って来た気がした。
そうだ、そうすれば良い。それが僕の使命だ。

身体に力が籠る。
脳が熱を帯びて、生き生きと動いている。
僕は、強く決意して、一歩を踏み出す。

不意に、耳元で喧しい笑い声がした。
身勝手で、自由で、けたたましい声。
何だか心地よい気がした。
つむじ風が埃を巻き上げて、僕の背を押した。

10/8/2024, 2:10:55 PM