薄墨

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ヘリウムでぱんぱんに膨らんだ、ビビットカラーの風船。
赤と白でくっきりと目立つ、丸みを帯びた三角のテント。
ギザギザの黄色い旗のひだが、バタバタと風にはためいている。

新緑に纏われて、しん、と静まり返った、狭い開けた土地に、堂々とサーカスのテントが立ち塞がっている。

テントの奥からは、ロリポップキャンディーのような甘い香りがする。
楽しげな音楽が、テントの内側から漏れ出ている。
風船が、はち切れそうなゴムの皮膚を寄せ合って、ひっきりなしにふわふわと浮かんで、こちらを誘っている。

テントの入り口近くに立っている、奇妙な帽子を被った奇妙な痩身の男が、囃すようにひょうきんに笛を吹く。
風船を持つ着ぐるみのネコは、口角を目一杯あげ、楽しくて堪らないような笑顔で、風船の細い尻尾を握り込んでいる。

見ているだけでテントの中に突き進みたくなるような、ステップを踏みたくなるような、そんな景色。
こういう気持ちを「ココロオドル」というらしい。
どこかの本に載っていた。

ココロオドルサーカスのテントが、私の目の前にあった。

縄だけを掴んで、樹海の細い道を出鱈目に歩いてやって来た私の目の前に。

ここは自殺の名所のはずだ。
入り組んだ木と枝に覆われて、陽の入らない薄暗い道。
人の気配は全くなく、陰気で人気も生気も感じさせない空気に纏われた、静まり返った道。
行き倒れと自殺者の死体の他には、何もいない寂しい場所。
誰も救えず、罪だけを重ねて、帰りを待つものなんて誰もいない私には、お似合いの場所。
とうとう、間接的に人殺しまでやってしまった私の最期に相応しい場所…のはずだった。

どういうわけか、私の目の前には、温かく賑やかで派手なサーカスのテントがある。
派手な人工色が目に痛い。

奇妙な痩身の男が笛を吹く。
重ねた罪で虚に灰色だったはずの私の心が僅かに踊る。
ネコの着ぐるみがこちらに進み出て、風船を差し出す。

真っ赤な風船。
ぱんぱんに空気の詰まった、生き生きとした真紅の風船。

心がドクンと踊る。
私は、差し出されるままに風船を受け取る。

また、痩身の男が笛を吹く。
テントの中から、ココロオドル音楽が一層湧き上がって聞こえてくる。
人の笑い声すらする。

満面の笑みのネコの着ぐるみが、優しく私の背を押す。

まるで、子供に戻ったみたいだ。
何の罪も何の悪いことも知らず、純粋で、清らかで、いい子だったあの時に戻れたみたいで。

子供の私の心は、楽しそうなサーカスに、無邪気に高鳴り、踊った。

着ぐるみのネコの笑顔がこちらの顔を覗き込み、軽やかに頷くと、私の背をもう一度、優しく、ゆっくりと押した。
痩身の笛吹男が笛を吹いた。

ココロオドル。
ココロオドル。
私は転げるように一歩を踏み出した。
一度踏み出すと、もう足は止まらなかった。

私は勢いよく駆け出した。
縄も遺書も何もかも投げ出して。

灰色の秋風が、背中で強く吹いた。
どこかで、枝が動いた気がした。でもサーカスに心を奪われた子供には、気にならないことだった。

私はサーカスのテントに向かって走る。
冷たい樹海が、テントの四方を静かに囲んでいた。

10/9/2024, 1:28:16 PM