薄墨

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8/10/2024, 2:22:32 PM

たたん、たたん。
金属の軋む音が、リズミカルに歌う。
黄色い線の内側で、車輪に踏みつけられて撓む線路をぼんやり眺めていた。

通過する電車、停まって人を吐き出す電車、回送電車…
今日は何両の電車を見送っただろうか。

たたん、たたん。
どの電車も、やがて呑気に線路を踏み締めながら、走り続ける。

ベクトルABの終点は点B。
ベクトルは、世界にあまねく力を図にしたものだから、ベクトルの終点は即ち、力が行き着く最後の作用点。
終点は力の終着点。

力は流れる。
終点を経由して、別の終点へ。
終点を経由して、別の終点へ。
終点を経由して、別の終点へ。
下へ、下へ。

だから仕方ない。
お客様が店員や職員の失敗を執拗に責めてしまうのも。
上司が部下を怒鳴りつけて心身を破壊してしまうのも。
同僚同士ですらストレスををぶつけ合って仲良く出来ないのも。
どんな環境の人間関係の中でも、悪口とイジメの影が差しているのも。

仕方ない。
仕方ないのだ。
誰でも終点で、誰でも始点だから。
頭では分かっている。
分かっているのだ。

…分かって、受け入れていたはずだったのだ。

たたん、たたん。
去っていく電車の足音が聞こえる。
電車は走るのが楽しくて仕方なさそうだ。
その胃の中に抱えている人間たちとは裏腹に。

電車は終点に向かって、その後に折り返して、終点を始点に変えて、終点へ向かう。
たたん、たたん、と鼻歌を歌いながら。
何度も、何度も、永遠に。

終点は終わりじゃない。
誰かが終点を迎えたとして、それはちょっとの間だけ、誰かに迷惑をかけて、誰かのストレスの始点となって、迷惑をかけながら永遠に続く。
本当の終点なんてない。

それも分かっていた。
分かっていたのに。

それでも、それでも。

今日が私の終点。
心がもたなくなってしまった。
今日が私の終点。

黄色い線からはみ出る。
線路を覗き込む。
電車に踏みつけられて、擦り切れた線路。
尖った小石が敷き詰められた棺の中に横たわっている。

たたん、たたん。
たたん、たたん。
鼓膜に電車の鼻歌が焼き付いていた。

8/9/2024, 2:44:55 PM

「この世にあまねく真理や理論や思想たちは、みな双子で生まれるのですよ」
「従順で正しくて都合の良い優等生と、神秘的で悪辣で融通の効かない問題児との双子で、生まれるのです。」

ぱちぱちと、爆ぜて踊る焚き火の前で、“先生”は言った。
赤い火が舐めるように、僕たちの横顔を照らしていた。
先生の顔は、いつも通りに穏やかな微笑を湛えていた。

「ですから、完璧な理論や思想や真理など存在し得ないわけです。どんな発見もどんな技術も、全て問題なく上手くいくとは限らない。どの子もみな、双子ですからね。私たちに都合の良い優等生がこちらに笑ってくれることもあれば、私たちを嫌う方の子がこちらを睨むこともある。」
そういうのを…そう付け足しながら、先生はこちらをぐるりと見回した。

先生の目線は、僕たちの目をまっすぐ捉えていた。

プロメテウスの火、というのです。
先生は言った。

ぎゃっぎゃっぎゃ
何かが茂みの奥で鳴いた。

先生は焚き火に枝を焚べた。
「だから、上手くいかなくたっていいのです。それは双子のうちの、私たちにとって都合の悪い方が、こちらを向いていたということにすぎないのですから」

あの夜、僕たちはみな火を囲んで、先生の静かな声に、耳を傾けていた。
戦争と兵器と様々な科学実験でボロボロになった地域の、奪還作戦及び治安確保作戦が開始される前の夜だった。

僕たちが最期に経験した、思案に耽る、静かな夜だった。

僕たちは地獄に向かっている。
僕たちは捨て駒の部隊である。
僕たちは成功を掴めないだろう。
生きて帰れないだろう。
この作戦を命じられてから、そんな現実は僕たちの共通意識にうっすらと染みついていた。

だからこそ、この部隊の中核を成していた、皆が頼る人間は“先生”だった。
強靭で戦闘に長けた歴戦の上官でも。
喧嘩に強く情に篤い同期でもなく。

穏やかに達観し、死にも不条理にも悲劇にも動じない、彼こそが、僕たちの心の救いで、だからこそ、彼は“先生”であった。

「上手くいかなくたっていいのです。」
先生は枝を折りながら、繰り返し呟いた。
「何事も。上手くいかなくたって…上手くいかない時は如何なることにもあるのです」

それは、非常な現実とその現実に抱いた僕たちの悲観的共通意識が、僕たちの心の、使命感やプライドや愛や…そんな部分についた傷に優しく、ゆっくりと染み込んでいた。

「上手くいかなくたっていいのです。上手くいかなくたって仕方がないこともある」
熱病に犯されたような無茶苦茶な現実の中で、ただ一つ先生の言葉だけは、僕たちの悲観と諦観を肯定してくれていた。

上手くいかなくたっていいのです。
先生が繰り返し、ぽつんと呟く。
ひっきりなしに、焚き火が、ぱちぱちと踊っていた。

穏やかな夜だった。
…静かな夜だった。

8/8/2024, 12:47:20 PM

白いうなじ。
白魚のような指が、鱗粉まみれの蝶の翅の欠片を摘み上げる。

窓の外には炎天下が広がっている。

暑い日に晒された花は、ぐったりと首を窄めている。
花びらは皺を刻んで、窓の桟を睨んでいる。

蝶の飛び方には、作法がある。
蝶の翅は、空気の粒を捉え、半円を描きながら柔らかく舞う。
蜘蛛の巣を躱し、蟷螂の斧を掠めて、ひらひらと。
蝶は、長年の先祖が積み上げ学んできた気品と行儀を守らなくては、飛べない。

花の咲き方には、作法がある。
固い蕾を作り、半円を描きながら、徐々に、柔らかく綻ばせる。
硬い大地を割り踏み締め、死体を養分に吸い上げて、そよそよと。
花は、長年の先祖が学んで積み上げてきた気品と行儀を守らなくては、咲けない。


深窓の娘もまた、そういうものだ。
気品と行儀を守ること。
穏やかな顔で、迫り来る悪意や嫉みを躱し、嫌がらせを掠め、感情の肉塊で作られた社会を割り踏み締め、複雑なコミュニケーションを養分に吸い上げて、見目を潤しながら、優雅に世を渡る。
親が、祖父母が、継がれてきた家系が、学んで積み上げてきた世を渡る術を守るのが、蝶よ花よと育てられてきた、深窓の娘の強みであり、生きる術。

形の良い顎が、軽く揺れ、伏せた睫毛がついと上がる。
白いうなじに髪が垂れ、ゆっくりと首を回して、姉がこちらを向く。

虫も殺せないような、きめ細やかな肌で、姉は足掻く蝶の死骸を摘み上げて、柔らかく笑っていた。

「お姉様」
私は言った。

「…蝶は捕まったわ。花は枯れたわ」
姉の唇から、柔らかな喜色に包まれた声が溢れ出た。

「そうね」
私は頷いた。
「お姉様はこの国の娘の中で一番優雅な蝶よ。私たちが最後まで生き残るのだわ」

「そうね」
姉は、恍惚に潤んだ声を転がした。
「なかなか楽しい蠱毒だったわね。人間は悪趣味だわ」

「あら」
私は笑った。
花のように努めて、穏やかに。
「蠱毒で生き残った蝶は、いずれ翅が抜けて人になるのよ、お姉様」
それでも語尾は少し弾んでしまった。

「ふふ、それは貴女も同じでしょう?」
姉の声は、蝶の翅の動きのように艶かしく、優美で、我が姉ながら完璧だった。
「貴女は温室の中の全てを勝ち取った花。花はいずれ実をつけて、人になるのでしょう?」

蝶よ、花よ。
蝶よと育てられた美しい虫は、いずれ壺の中に落とされる。
花よと育てられた美しい植物は、いずれ温室の中に押し込められる。
一流の家系と育ちを持つ人は、いずれ一流の感情と欲望の社会に混じって、それ相応の対価を求められるのだ。

蝶よ花よ。
美しく散り、美しく枯れ、美しく燃え尽きよ。
そして最後に残った一羽と一輪は、いつまでも、なによりも美しくあれ。

私たちの家の秘伝は、そう告げている。

私たちは最後の一羽。最後の一輪。

窓の外には炎天下が広がっている。

8/7/2024, 2:08:06 PM

ぽたり、ぽたり
赤い液体が伝って落ちる。
黒い粘性の液体が、床にまとわりついている。

辺りはしんと静まり返っている。

膝を突く。
バキバキに折れたテーブルの残骸がひっくり返っている。

どろどろだ。
どろどろ。
手元の銀のナイフもどろどろ。
膝と足元と周りの空気もどろどろ。
どろどろだ。

君が不審死を遂げた、あの時あの場所で拾った指輪の石は、真っ二つに割れて、黒い粘性の液体を吐き出し続けている。
先が黒ずんだ銀のナイフの腹から赤い液体が伝って落ちる。
ぽたり、ぽたり。

君の死因が知りたかった。
君の変身の理由が知りたかった。
一ヶ月前に、部屋の中で死んだ君。
一週間前に、黒いモサモサした塊になって現れた君。

君の正体が知りたかった。

だから七日間、いろいろな手を使って調べた。
関係する各地を駆け回り、関係者に話を聞いて、君の部屋を漁り、図書館やネット上を探りまわって…。

そして、ようやく、ようやく、辿り着いた。真相に。
怪異を暴いた。
勝利だ。勝ちのはずだった。

でも現実はどうだ?
君はモサモサを逆立てて、椅子を蹴飛ばし、こちらに向かってきた。
窓のガラスが吹き飛んだ。
テーブルの上のマグカップが飛び散って、尖ったカケラが、指輪の黒々とした石のヒビに突き刺さった。
銀のナイフを握った右手は、勝手に君を貫いた。

どろどろだ。
どろどろ。
ぽたり、ぽたり。
君がナイフを伝って、黒い液体に吸い込まれていく。

考える。
考える。
頭は意識とは裏腹に、冷静に、理論を紡いでいる。

考えろ。
君の死を無駄にするな。

冷静沈着で、鈍感な脳が告げる。
「これは、最初から決まっていたことじゃないのか?」
「最初から、この物語の結末は決まっていたんじゃないか?」
「これが、最初から決まっていた結末。トゥルーエンド。本当の終わり。」
「だって、“たまたま”カップのカケラが指輪の石に突き刺さって、“ついつい”ナイフが君の腹に刺さって、どろどろが噴き出るなんて、僕たちみんなを呑み込むなんて、…七日間かけて気づいた理論が目の前で実際に証明されるなんて、そんな上手くいくことなんて、ある?」
「この終わりは最初から決まっていた。決まっていたんだ。指輪か、化け物か、何か別の強い力か…で?」

ぽたり、ぽたり。
君が液体になって、ナイフを伝って落ちる。
君が、黒い粘性の液体に染み込んでいく。
僕の膝を、黒い粘性のナニカがじわじわと呑み込んでいく。

どろどろだ。
みんな、どろどろ。
さいしょから、きまっていたとおり。

おめでとう。ほんもののさいごだ。

8/6/2024, 2:02:13 PM

黒々とした羽根が舞う。
賢く濡れた瞳で俺を一瞥して、烏_烏星様は、高く飛び去っていった。

太陽を直接覗き込むと人の目は潰れる。
強い光のために。
だから太陽を観測するには、専用のグラスが必要だ。

今日も太陽は煌々と高く上がっている。
轟々と燃えている。

太陽の傾きと黒点を、手元の用紙に記録する。
この太陽の動きの記録から、博士たちが未来の吉凶を予測する。
見習い天文生の俺たちの仕事は、その天体の動きや変化の記録を作ること。

そして、神のお言葉を遣わしてくれる、神使に仕えてお世話をすること。

ここ、太陽ノ省では、太陽の神様であられる、八咫烏様にお仕えし、神託と占術をお聞きすることで、世の政や儀式を行っている。

俺が、太陽_八咫烏様の従者となり、太陽博士等の下で、神使の一羽である烏星様にお仕えして、もう一年になる。

烏星様は、いつもこの時間にお出かけになる。
太陽が一番高く、熱く、煌々と輝くこの時間に。
烏星様は、太陽が一番盛りの時がお好きらしい。
だから、俺の太陽観測の当番はいつもこの時間だ。

しかし、烏星様が、俺にお言葉をかけてくれたことは一度もない。

神使の烏たちは、普通の畜生とは違う。
慣れた陰陽師の人間とは会話をするし、ご神託もこまめにお伝えしてくれる。
天文生の時にお仕えした神使は、その人間を認めれば、見えぬこと、知らぬことを教えてくれ、生涯の相棒となるらしい。

したがって、まずは仕える神使と気を置くことなく、語らえるようになるのが、一人前の陰陽師への第一歩なのだ。

…しかし、烏星様が俺にお言葉をかけてくれたことは一度もない。

烏星様は随分、気難しいお方らしい。
……どうしたものだろう。

烏星様は美しい烏だ。
一日で一番高く熱い太陽へ、翼をはためかせるその気高さは、言葉に表せないほど美しい。
黒く賢く潤む瞳は、滑らかで美しく、太陽の黒点のように愛らしい。
一目見た時から、俺はすっかり烏星様に憧れてしまった。太陽に灼かれる蝋のように。

…だから、お仕えも緊張して、楽しくて、嬉しくて仕方ないのだ。
仕方ないのだが…。

…嫌われているのだろうか。

一年もお話してもらえないと、焦りと悲しみが汗となって伝う。
俺は烏星様の信頼に足らない人間なのだろうか。
陰陽師など、向いていないのであろうか。

太陽の観測を終え、一旦、太陽観察グラスを下ろす。
烏星様の翼を拾い上げる。
黒々と美しい、立派な羽根だ。

八咫烏様に掛からないよう、地面に向かって、こっそり溜息を吐き捨てる。
太陽は、頭上で煌々と輝いていた。

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